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中央アジア・ロシアサッカーの読み物記事
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#サッカー

空に消えた星たち — パフタコル1979

0. まえがき(本旨とは関係ありません)  私事で恐縮だが、初めてウズベキスタンサッカーに触れてから10年以上が経つ。  2つのぼんやりしたことだけが記憶に残っている。ひとつは会場がタシケントのパフタコル・マルカジー・スタジアムだったこと、もうひとつはワールドカップ予選のウズベキスタン対日本の試合だったこと。得体の知れない代表チームの荒削りな攻撃サッカーと、日本人に似た面立ちの選手に漠然と興味を持った。(しばらく後、その顔の持ち主はアスロル・アリクロフだと分かった。)  

独断と偏見によるウズベキスタン名選手列伝

 ウズベキスタンのサッカーには100年を超える長い歴史がある。帝政ロシア時代にマー・ワラー・アンナフルにもたらされたサッカーは当地に根付き、その文化は「母」がツァーリからソ連共産党に変わっても、その母が1991年に亡くなり国際社会に放り出されてもなお受け継がれてきた。これまで幾人もの名選手が現れ、そのプレーで人々を魅了してきた。そのほんの一部を筆者の独断と偏見を交えてご紹介する。  「ウズベクSSR期」「ソヴィエト末期 - ウズベキスタン独立初期」「21世紀初頭「黄金世代」期

新生ロシアが見た白昼夢 — アスマラルというサッカーチーム

 「アスマラル(Асмарал)」というロシアのサッカーチームを聞いたことがあるだろうか。  このモスクワに本拠地を置く一風変わった名前のチームは、1992年の新生ロシア1部リーグに突如姿を現した。ロシアのサッカーファンにさえ聞き馴染みのないこのチームは、予想だにしない躍進を遂げる。  暗く苛烈な時代の荒波を豪快に突き破り、陸離として光を放ち、破壊と混沌に満ちたロシアサッカー界に新時代の到来を高らかに告げたかと思えば、あっという間に波濤に呑まれ消えていったチームがかつてあった

【翻訳記事】マクシム・シャツキフのロングインタビュー③(終) 「クーペル辞任、ショムロドフ、W杯について」

はじめに ニュースサイトTribuna.uzが元ウズベキスタン代表マクシム・シャツキフのロングインタビューを行った。2月18日は自らの生い立ちとクラブキャリアについて語る記事が、2月21日にはウズベキスタン代表キャリアについて語る記事が出た。それらの記事の翻訳は以下の通り。  今回はシャツキフ氏が現在のウズベキスタン代表や、ウズベキスタンサッカーについて語った。さらに彼自身がウズベキスタンに抱く思いや、今後母国に帰ってくるのかといった、少し踏み込んだ話題にも話が及んだ。国内

【翻訳記事】マクシム・シャツキフのロングインタビュー② 「屈辱のレバノン、不在の中国、イングランド人監督について」

はじめに ニュースサイトTribuna.uzが元ウズベキスタン代表マクシム・シャツキフのロングインタビューを行った。自らの生い立ちとクラブキャリアについて語る記事が2月18日に出た。しかし文中に埋め込まれたインタビュー動画を見ると、記事は全体の1/3ほどしか書き起こされていなかった。その際の翻訳はこちら。  当然、残りの2/3が順次公開されると踏んでいたが、やはり2月23日にパート2が公開された。今回はシャツキフ氏が自身のウズベキスタン代表キャリアについて語っている。200

【翻訳記事】マクシム・シャツキフのロングインタビュー① 「3つの夢のうち、2つは監督として叶えたい」

はじめに ニュースサイトのTribuna.uzで、マクシム・シャツキフのロングインタビューの書き起こし記事を見つけた。私事だが、シャツキフは筆者がウズベキスタン人で一番好きなサッカー選手であり、ウズベキスタンサッカーを好きになるきっかけになった選手である。そして、何よりウズベキスタンサッカーが世界に誇るレジェンド中のレジェンドである。ウクライナサッカーやディナモ・キエフでの出来事を語ったインタビュー記事は多いが、母国ウズベキスタンについて語った記事は意外にも少ない。  当該

資料:1979年シーズンの詳細

 1979年当時のパフタコル所属選手とチーム成績を個人的にまとめていたが、何かの役に立つと思い記事化することにした。本編はこちら。  調べるにあたっては、ロシアサッカーに特に強い"FootballFacts"というサイトを参考にした、というよりほとんど頼りきりになった。ソ連時代はもちろん帝政時代の事柄や各共和国の大会、スパルタキアードまで網羅するロシア最強のデータベースである。膨大なデータ量からか少し重いが、それ以外は非の打ち所がない。  選手個人の成績については、当時の