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【翻訳記事】マクシム・シャツキフのロングインタビュー② 「屈辱のレバノン、不在の中国、イングランド人監督について」

はじめに

 ニュースサイトTribuna.uzが元ウズベキスタン代表マクシム・シャツキフのロングインタビューを行った。自らの生い立ちとクラブキャリアについて語る記事が2月18日に出た。しかし文中に埋め込まれたインタビュー動画を見ると、記事は全体の1/3ほどしか書き起こされていなかった。その際の翻訳はこちら。

 当然、残りの2/3が順次公開されると踏んでいたが、やはり2月23日にパート2が公開された。今回はシャツキフ氏が自身のウズベキスタン代表キャリアについて語っている。2000年、2004年、2011年のアジアカップについての話題がメインを占めている。

 今回の書き起こしを読んで、過去の出来事について割と「ぶっちゃけ」ている印象を受けた。ある日本人がウズベキスタンサッカーの行く末に大きく関与した「あの事件」のことも、簡潔ではあるが振り返っている。

(以下は記事の翻訳)

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 Kun.uzの特派員がキエフを訪れ、現代ウズベキスタン最高のフォワードの一人マクシム・シャツキフにインタビューを行った。(訳注:Kun.uzもニュースサイト。Kun.uzのスポーツ部門がTribuna.uzである)

 現在はロートル(ヴォルゴグラード)でアシスタントコーチを務めているシャツキフ氏。インタビューの前半では、ヨーロッパでのクラブキャリアとディナモ・キエフでの活躍について話してくれた。その後は、ウズベキスタン代表チームでのキャリアについて話が及んだ。聞き手はジャーナリストのサルドル・ユスポフ氏、カメラマンはヌリッディン・ヌルサイドフ氏。

初めてウズベキスタン代表チームに招集された時のことを覚えていますか。デビュー戦についての感想もお聞かせください。

 それは……。覚えていません。1997年でしたっけ。

 —1999年8月、ディナモ(キエフ)移籍直後です。監督はマフムド・ラヒモフ、サマルカンドで行われた親善試合でした。何点取ったか覚えていますか。

 ああ、思い出しました。確か5-0で勝利して、3点取りましたっけ。相手はCISのどこかの国でしたよね。タジキスタンかキルギスか……。

 —いいえ、対戦相手はアゼルバイジャンで、試合は5-1での勝利でした。あなたはデビュー戦でハットトリックを達成しました!

 そうだそうだ。思い出しました。でも私はディナモ移籍前にも代表に呼ばれていませんでしたっけ。

 —ディナモに移籍することになって、関心を持たれるようになったのかもしれませんね。

 変ですね。協会は選手をチェックしていますし、そのうえ私はバルチカ(カリーニングラード)でも好調だったはずなのに。代表チームはすべての選手のチェックを行わねばなりません。ロシア2部リーグの選手がウクライナ1部リーグの選手よりうまくプレーすることもあります。全選手を見る必要があります。自らに合うチームが見つからなかったり、監督と意見が合わなかったりということもあります。しかし成長して、ウクライナ1部リーグの選手よりもいい選手になることだってあります。

—あなたは映画が好きですか。

 はい。

 —映画「マッドマックス」を見たことがありますか。

 はい、あります。

 —「マッドマックス」なんて言われたことはありませんか。

 いいえ(笑)誰にも言われたことはありませんね。

屈辱のレバノン

 —さて、とても興味深い事実について思い出してもらいます。1999年11月にアジアカップ予選がありました。アラブ首長国連邦で行われたグループ3でウズベキスタンは11月21日にバングラデシュと対戦し、6-0のスコアで勝利しました。あなたはその試合で2ゴールを挙げました。その後すぐに飛行機でキエフに戻り、24日にディナモの一員としてチャンピオンズリーグのグループステージ、レアル・マドリード戦(1-2)に前半だけ出場しました。試合後またすぐに飛行機に乗って代表チームの宿舎に戻ってきて、3日後にアラブ首長国連邦との予選最終戦に出場しました。しかもその試合で決勝点。ホームチームを交わし、見事アジアカップ本戦出場を決めました。

 その試合を覚えています。1-0で勝ったんですよね。当時はよく飛行機で移動していました。私が代表チームでプレーすることをディナモが止めることはできないという取り決めもしていました。当時は代表チームとクラブチームが完全に分けられておらず、同時期に試合が行われていましたよね。今は事情が変わって国際Aマッチデーがあり、その期間中クラブチームの試合は行われません。残念ながら、このルールが導入されたのは最近のことです。あの時は飛行機で長距離移動を余儀なくされ、その結果ずいぶん消耗したものです。

 バングラデシュ戦は覚えていませんが、アラブ首長国連邦戦はよく覚えています。後半に(ミルジャロル・)コシモフからのパスを左足で合わせ、ファーサイドにシュートを決めました。あれは私にとって非常に重要で、思い出深いできごとです。完全アウェーの中で勝ったんです。相手もアジアカップ出場を目指していましたが、本大会の切符を手にしたのは私たちでした。

 —2000年は悲しい年でした。ウズベキスタン代表はレバノンで行われたアジアカップに出場しました。1試合も勝てず、あなたもノーゴールに終わります。挙句の果てには日本に1-8という屈辱の敗戦を喫しました。

 世代交代が……。チームにはベテラン選手が多くいました。世代交代がうまくできませんでした。それだけでなくハイレベルな試合を経験している選手も少なかったのです。もっと強いチームと対戦するべきでした。バングラデシュのようなチーム相手に5点も6点も取っても仕方ありません。もっと強いチームとやるべきでした。結果は関係ありません、負けたとしても敗戦自体にあまり意味はありません。敗戦からチームの弱点や修正ポイントを明らかにすることができるのですから。

 レバノンでの屈辱はよく覚えています。それからチームの構成が大きく変わり、多くの若い選手が加わるようになりました。

不在の中国

 —2004年、ウズベキスタン代表は中国で行われたアジアカップに出場しました。あなたは当時この国で発生していた鳥インフルエンザを理由に代表チームと共に大会に参加するのを拒否したという噂もあります。チームはグループリーグで3勝し、準々決勝でPK戦の末バーレーンに敗れました。もしあなたがいれば、チームは優勝していたかもしれないというファンもいます。

 あれからずいぶん経ちました……。大会前コンディションが良くなかったのかもしれませんが、よく覚えていません。この質問に答える用意ができていないのが正直なところです。代表チームが中国に向かう中、病気を恐れて同行を拒否したのは私だけではありません。私はどんな病気も恐れてはいませんし、非常に重要な大会なので参加していたかもしれません。不参加を決めたのは、それほど深刻な理由ではなかったと思います。

 もし深刻な脅威があったなら、中国政府も大会を中止したでしょう。彼らも馬鹿ではありません。大会には多くのチームが来て、多くの選手が参加しますから。鳥インフルエンザに感染する可能性があったなら、FIFAも開催を許可しなかったのではないかと思います。

イングランド人監督と「大事件」

 —2005年、ウズベキスタンは2006年ワールドカップのアジア予選サウジアラビア戦に0-3で敗れた後、ラフシャン・ハイダロフ監督はグループ最終戦のクウェートとの試合に向けて満足な準備ができないことを認めました。そして監督がイングランド人のボブ・ホートン氏に代わました。当時のことを覚えていますか。彼の何が優れていて、記憶に残っていますか。

 はい。試合のことも監督のことも覚えています。明確なビジョンを持ったイングランド人監督でした。それは「純粋なイングランドスタイル」で、フィジカルの強さ、スピード、パワー、プレス。彼はこれらの要素をチームに導入しようとしました。しかし彼には満足な準備期間がありませんでした。私たちができたのはサーキットトレーニング1回のみで、彼が3, 4試合かけて任務を遂行できなかったのは残念でした。

 あの試合のことをよく覚えています。大陸間プレーオフ第1戦でバーレーンに勝利しましたが、新しいルールが導入されました。日本人のレフェリーがPKを取り消しました。最終的によく分からない感じになり、後日再び試合が行われることになりました。1-1でした。バーレーンに移動する途中、私は機内で具合を悪くしたので第2戦はベンチでした。0-0でした。終盤にいいチャンスがありました。シュートががポストに当たったのをはっきりと覚えています。運がありませんでした。試合を優勢に進めていたのは私たちでしたが……。繰り返しますが、サッカーとはこういうものです。

 (訳注:2006 FIFAワールドカップのアジア4次予選は大陸間プレーオフ進出チームを決める、ホーム&アウェーの2試合。3次予選のグループ1の3位ウズベキスタン対グループ2の3位バーレーンによる対戦となった。「大事件」が起きたのは2005年9月3日にタシケントで行われた第1戦。1-0でウズベキスタンリードの39分、ウズベキスタンのPK時にキッカー以外の選手がペナルティエリアに進入したとして、主審の吉田寿光氏が「PK蹴り直し」のところを「バーレーンの間接フリーキック」とするルール適用ミスを起こす。試合は1-0でウズベキスタンが勝利するも、ウズベキスタンサッカー協会が猛抗議。試合後に開かれたワールドカップ組織委員会の緊急会議で吉田氏のミスが認定され、「主審の裁定が絶対かつ最終である」という競技規則を一部変更してまで再試合が行われることとなった。なおウズベキスタンサッカー協会の要望は「3-0の没収試合」だったが、それは容れられなかった。第1戦は公式記録から抹消され、詳細を確認することはできなくなってしまった。分かっているのは誤審があったことと、ウズベキスタンの得点者がミルジャロル・コシモフだったことだけである。
 10月8日に行われた第1戦の再試合は1-1の引き分け。そして10月12日にバーレーンのマナーマで行われた第2戦はスコアレスドローに終わり、2試合合計1-1。アウェーゴール1のバーレーンが大陸間プレーオフ出場を決めた。そのバーレーンも、プレーオフでは名手ドワイト・ヨークを擁するトリニダード・トバゴに敗れワールドカップを逃した。
 シャツキフ氏は第1戦の再試合にフル出場し、2試合で唯一のゴールである同点弾を19分に決めている。インタビュー中にもあったように、第2戦はベンチ入りしたものの出場せず。「終盤にポストを叩いた」シーンは、おそらく前半にジェパロフとおぼしき選手が放ったミドルシュートのことだと思われる。ショートハイライトで確認したが、画質が悪すぎて誰だか判別できなかった。
 「勝っていたのに誤審が原因で再試合をさせられ、その結果ワールドカップ出場を逃した」ということでウズベキスタンのサッカーファンからは未だにこの件を恨む声が聞かれる。氏名は知らずとも「日本人のレフェリー(yaponiyalik hakam)」という言葉と共に、この事件はいつまで経ってもワールドカップに出場できないウズベキスタンサッカーの苦難の歴史を象徴する記憶となってしまった。余談だが、FIFAとAFCから国際審判資格の無期限資格停止処分を受けた吉田氏は、この一件について「今後、判定を覆すことを認めるルールができるなら寿光の名前をとって『トシズ・ルール』と名付けてもらい、歴史に名前を残したいぐらいに考えていた」といけしゃあしゃあと語ったそうだが、筆者はいつかこのことをぜひともウズベキスタンのサッカーファンと、これが現役最終戦になったミルジャロル・コシモフに伝えてあげたいと思っている。おめでとう、あなたたちはトシズ・ルールが適用された記念すべき世界で最初のチームになったのですよ、と。)

 —2008と2009年はラウフ・イニレーエフとミルジャロル・コシモフが代表監督を務めました。この時期は有力選手がレギュラーを決めていたと噂されており、あなたもその作業に関わっていたとのことですが、それは本当でしょうか。

 確か1, 2回は……。アドバイスを乞うという感じではなく、私自身の意見を知りたいというニュアンスでした。チーム内で選手が見ているものは監督とは異なっています。選手が感じているのは、自分のことを誰がどう思っているか、誰々の調子はどうなのか、どれだけ試合への準備ができているか、そしてどれくらいモチベーションがあるのかということです。

 自分の考えを知ってもらえればと思い、1, 2回個人的に相談しました。経験のある選手は今言ったようなことをよく知っているからです。ミルジャロルも現役を引退したばかりで、このようなプロセスについて理解がありました。1, 2回行いました。助言するというのはあくまでも仮の話をするようなものです。つまり、うまくいきそうなメンバーを予想するのです。もちろん最終決定権は監督にあります。メンバーについて議論しましたが、実際のラインナップは結局、異なっていましたよ。

躍進のカタール

 ―2010年、ヴァディム・アブラモフがウズベキスタン代表監督に就任しました。彼の指揮のもと、チームはカタールで開催された2011アジアカップでベスト4入りを果たしました。これは史上最高の成績です。あなたもチームの一員でしたが、アブラモフのチームの成功の秘訣は何だったのでしょうか。

 チーム力が成功に繋がったのだと私は思っています。チームには若い選手と経験豊富な選手がいました。さらに国外でのプレー経験のある選手が数人いましたが、これも重要な要素です。その結果、情熱にあふれた若手と経験が融合しました。監督はそんなチームを一つにまとめ、好成績を収めることができました。

 しかし私たちの一番の目標はワールドカップ出場なので、さらにハイレベルな結果が必要です。アジアカップ予選や本戦、ワールドカップ予選でいつも同じチームと対戦することになるので、これより良い結果が残せるように努力しなければなりません。繰り返しますが、私たちの任務はワールドカップに出場することです、フォーカスすべきはアジアカップの結果ではありません。この大会を犠牲にしてまで、その後のワールドカップ予選に備えることだってありえます。この大会を、2年後に開催されるワールドカップの予選に向けてのテストと位置付けることも可能です。

 しかし、監督はワールドカップに向けた準備と考えているのに選手がこの大会にフォーカスしていたら、当然うまくいきません。アブラモフ氏は大変だと思いますよ。彼は2022年のワールドカップに向けた準備をしてこなかったので、チーム状態を熟知してはいません。そのうえ、国内リーグ戦が終わりトレーニングキャンプが始まったばかりです。本当に難しいです。代表とはまた別にクラブチームでの仕事もあります。代表チームで監督を務めるのは難しいことです。毎日仕事があるわけでもないですし、頻繁に選手を見ることもないですから。(訳注:現監督は2011年と同じアブラモフ氏。エクトル・クーペル前監督の解任を受けて2019年9月24日に急きょ就任した。現在はブニョドコルと代表チームの監督を兼任している)

 監督のもっとも重要な任務、それはいい選手を集めること。そして彼らに試合の重要さを伝え、全力を尽くし、情熱と魂を奮い立たせ、同じ目標に向かって団結させ、ハートに愛国心を満たすことです。代表チームのこと以外で頭がいっぱいになっているような選手は優秀とは言えません。選手自身と、何より代表チームが苦しむことになります。

 ―準決勝のオーストラリア戦を覚えていますか。ウズベキスタンはオーストラリアと対戦し、0-6で敗れました。この試合では何が起こったのでしょうか。

 心の準備ができていませんでした。準々決勝でエネルギーを使い果たし、選手たちには心の強さが残っていませんでした。きっと誰もが「準決勝進出だ!ここまで来たら、まあオーストラリアには負けてもいいか」と思ったでしょう。監督の視点から言えば、メンタリティの問題に尽きます。「運が良かったら勝てる。悪かったら……」というような気持ちでピッチに立っていたのだと思います。しかしなぜでしょう……。私たちは全員が決勝に行きたいと思っていました。決勝です。大きなステップのように見えますが、実に短い距離です。もっと全力を尽くせばよかった。

 認めなければならないのは、オーストラリアが私たちより強いチームだったということです。ほぼすべての選手がイングランドやスコットランドのプレミアリーグといった欧州リーグでプレーしていました。対等に渡り合うのは困難でした。さらに、今は陣容が大きく変わっていますが、当時のオーストラリアには多くのベテラン選手がいました。正直に言うと、当時の私たちは彼らほど強いチームではなかった。

 3位決定戦では韓国と対戦しましたが、外から見ていてありありと分かりました。彼らもより強いチームでした。私たちにはほとんどチャンスがありませんでした。(訳注:シャツキフはこの試合に出場していないので「外から見ていて」と発言したと思われる)

 当時の私たちはヨルダンには勝てましたが、アジアのトップ5チーム(訳註:日本、韓国、オーストラリア、イラン、サウジアラビア?)を倒すことはできませんでした。ツキがなければ彼らに勝つチャンスはありませんでしたし、彼らはあらゆる面で私たちよりも一枚上手でした。選手が代表チームに集まれば、ただサッカーのことだけを考えねばなりません。しかし残念ながら、この国の監督はサッカー以外のことについても心配しないといけないのです。監督が考えるべきことは、協会や組織の問題ではなく、サッカーについて。それだけです。

 私たちには経験豊富な監督が不足しています。外国で研修させるべきです。サッカーが今どうなっているのか、彼らは学んだほうがいいと思います。そのような経験を与え、スキルアップさせる必要があります。時代に乗り遅れれば、その国のサッカーに未来はありません。同じところをぐるぐると回り続けるだけです。

 ―オーストラリア戦の前にウズベキスタンサッカー協会の役員が選手やコーチングスタッフと面会し、チームが決勝に進出したら多額の報酬をすると約束したというのは本当でしょうか。噂では200万ドルといわれていますが。

 それは噂ではなく事実です。しかし金額がいくらかは言われませんでした。多くのビジネスマンや著名人が私たちに会いに来て、報酬を約束しました。しかしそれがいくらになるかは言及されず、「高額の報酬になる」とだけ明かされました。これは正常なことです。私たちはきつい仕事をしていて、それが報われる。悪いことではありません。彼らもオーストラリアに勝って決勝に進出したら、大きな一歩になることを理解していました。チャンスがありました。これは個人的なモチベーションであり、熱意をかき立てられることです。可能性を無駄にはできません。

 しかし選手がお金について考え始めると、もはやサッカーをプレーできなくなります。私はそのようなケースを見たことがあります。報酬について聞かされ、頭の中がお金でいっぱいになっているような選手はピッチに立つべきではありません。そういう選手は精神的に死んでいるのと同じです。

 優れた選手は冷静にいられます。得られるのが1スムか5スムかということは関係ありません。これは代表チームなのですから!金額がいくらになろうが、それは重要なことではありません。代表チームとは選手にとって名誉であり、文字通り国の代表です。選手は国家の名誉を守るために代表チームにいるのです。スポーツにおいて、それに勝ることはありません。

 したがって、若い選手は代表チームのために努力する必要があります。彼らはレギュラー争いをし、そのポジションにふさわしいのは自分だと証明せねばなりません。お金について考えている選手は「弱い」と言えます。ピッチ上でさえ心はサッカーになく、何か他のことにあるのですから。

 インタビューの終盤は、ウズベキスタン代表の現在の戦いについて話が及びました。シャツキフ氏はファンからの質問にも答えます。

(続きはこちら

 参考:マクシム・アレクサンドロヴィチ・シャツキフ、1978年8月30日、タシケント生まれ。ロシアのソーコルПЖД、トルペド(ヴォルシスキー)、ラーダ(トリヤッチ)、ガゾヴィク・ガスプロム、バルチカ(カリーニングラード)、ウクライナのディナモ(キエフ)、アルセナル(キエフ)、チェルノモーレツ(オデッサ)、ホヴェルラ(ウージュホロド)、カザフスタンのアスタナでプレー。ウクライナリーグ優勝6回、カップ戦優勝5回、カザフスタンリーグ2位、ウズベキスタン年間最優秀選手賞4回、ウクライナリーグ歴代最多得点記録保持者(171得点)。ウズベキスタン代表史上最多得点記録保持者(61試合34得点)。現在はロシアのロートル(ヴォルゴグラード)でアリャクサンドル・ハツケーヴィチ監督のもとアシスタントコーチを務めている。


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