無題

【翻訳記事】マクシム・シャツキフのロングインタビュー① 「3つの夢のうち、2つは監督として叶えたい」

はじめに

 ニュースサイトのTribuna.uzで、マクシム・シャツキフのロングインタビューの書き起こし記事を見つけた。私事だが、シャツキフは筆者がウズベキスタン人で一番好きなサッカー選手であり、ウズベキスタンサッカーを好きになるきっかけになった選手である。そして、何よりウズベキスタンサッカーが世界に誇るレジェンド中のレジェンドである。ウクライナサッカーやディナモ・キエフでの出来事を語ったインタビュー記事は多いが、母国ウズベキスタンについて語った記事は意外にも少ない。

 当該記事で書き起こされているのは、インタビュー全体の1/3程度である。記事中に明言されてはいないが、今後パート2「ウズベキスタン代表編」、パート3「現在のウズベキスタンサッカー編」が順次公開されていくものと思われる。Tribuna.uzが公開した動画はインタビュー全編が記録されているので、ロシア語が堪能な方は未公開部分をフライングできる(筆者に現状そのような根性も語学力もない)。あくまで個人的なメモと勉強の成果の記録であるが、続きが公開されたら通し番号を振って翻訳を継続する。聞き手はジャーナリストのサルドル・ユスポフ氏。

(以下は記事の翻訳)

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 現代のウズベキスタンで最も有名で、最も伝説的なフォワードといえば、マクシム・シャツキフを措いて他にない。ディナモ(キエフ)の一員としてウクライナのみならずヨーロッパでもその名を轟かせ、ウズベキスタン代表チームでも歴代最多得点記録を持つシャツキフ。彼は現在は指導者のキャリアを歩み始めている。

 取材班はキエフでシャツキフ氏に会い、Kun.uzとTribuna.uzの読者のための特別インタビューを行った。シャツキフ氏はヨーロッパでのキャリア、ウズベキスタン代表チーム、そしてウズベキスタンサッカーの現状について意見を語ってくれた。

キャリア初期について

 ―初期のサッカーキャリアはどのようなものでしたか。最初のコーチ、最初のチーム、初めての成功などをお聞かせください。

 こんにちは。まず、ウクライナの首都キエフでみなさんにお会いできることを嬉しく思います。私のサッカーキャリアは、他の子供たちと同じように路上で始まりました。私はスポーツ一家に生まれたので、将来はスポーツ選手になるのだろうと思っていました。

 1年生の時、パフタコルのスポーツ専門学校に入りました(訳注:ロシア語ではдетско-юношеская спортивная школа, ДЮСШ ウズベク語ではbolalar va o‘smirlar sport maktabi, BO‘SM、ソ連時代に作られた学業とアスリート育成が一体となった教育システム、6-18歳の青少年が対象。様々な情報源でシャツキフがスポーツ専門学校に入ったのは「8歳の時」とされているが、ここでは1年生、つまり6歳か7歳のときだという)。
 最初のコーチはセルゲイ・ミハーイロヴィチ・コヴァリョーフでした。スポーツ専門学校を卒業後はYUTKOというチームで3部(アマチュアのタシケント市選手権)でプレーし、優勝しました。その後、ロシアに行きました(訳注:ここでは語られていないが、YUTKOの後にチロンゾルというチームでも数試合プレーしている。おそらくはYUTKOもチロンゾルも、パフタコルと関係のあるチームと思われる)。

ミルジャロル・コシモフから表彰されるシャツキフ少年

 —あなたはキャリアの最初からフォワードだったわけではありませんよね?

 ずっとフォワードでしたよ……。でも、スポーツ専門学校ではセンターバックもさせられていました。私は足が速かったのでね(笑)その後はディフェンダーとしてプレーしました。当初はスイーパーを採用していたので、そこでも使われていました。誰も私から逃げ切ることができなかったので(笑)相手に追いついて、ピンチを防ぐ。当時はそれが好きでした。

 —プロキャリア初期(1996-99年)、あなたはソーコルПЖД、トルペド(ヴォルシスキー)、ラーダ(トリヤッチ)、ガゾヴィク・ガスプロム、バルチカ(カリーニングラード)といったロシア下部リーグのチームでプレーしました。ウズベキスタン1部リーグでのプレー経験なくロシアに移籍するというのはあまりないケースですが、これにはどのような背景があったのでしょうか。

 私はそれ以前にもロシアに行ったことがありました。1993年(当時15歳)にラーダのトライアルを受けました。ラーダは当時ロシア・プレミアリーグに所属していました。彼らは私に興味を持ってくれましたが、私自身が望まなかったため、タシケントに戻りました。
 その後、結局ラーダに移籍する運びになったのですが、その時ソーコルが私を「かっさらって」いきました。というのも、後に私の代理人になる人物はラーダの会長と親友で、ラーダ会長は私のことを話したそうです。その人物はタシケントにいた私に電話してきました。彼は私の将来の考えに興味を持ったようで、数日後タシケントにやってきました。彼とじっくり話し合ってから1週間後、私のソーコル移籍が決まりました。

 しかしソーコルでの私はまだ若く試合経験も少なかったので、トルペドに放出されました。そこで私はシーズン後半の全試合に出場しました。実戦経験が必要だったので、このことは私にとって理想的でした。

 その翌年、私は結局ラーダ・トリヤッチに移籍しました。ラーダではいいシーズンを送ることができました。次にガゾヴィク・ガスプロムでプレーし、その後バルチカ(カリーニングラード)に移籍しました。バルチカでシーズン前半戦を終えたとき、ディナモ(キエフ)からオファーを受けました。
 その間、スパルターク(モスクワ)とゼニトでもトライアルを受けていました。スパルタークは不合格で、ゼニトは興味を示してくれましたが、私自身なぜだか乗り気にはならず、オファーを拒否しました。

ディナモ・キエフのユニフォームを着たシャツキフ 

ディナモ(キエフ)とロバノフスキー

 —1999年、あなたは世界的な名将ヴァレリー・ロバノフスキー率いるディナモからの誘いを受けました。このことについてお聞かせください。

 バルチカでのシーズン前半戦終了まで残り2節という時でした。ディナモから2人の編成担当者が来ました。じっくり話し合う中で、彼らは私をトライアルに招待するのではなく、おそらく明確なオファーをしに来たのだと分かりました。要するに、合意できたのです。私は残りの2試合をプレー終えてから、キエフに向かいました。

 その後、スパルタークのスタッフが来て、大金を約束すると言ってきました。しかし以前から言っているように、ディナモでプレーすることは私の子供時代からの夢だったので、スパルタークのようなクラブの申し出さえ、私にとっては考えるに及びませんでした。キエフに到着した私は翌日に契約し、その次の日にトップチームに合流しました。

 ―ヴァレリー・ロバノフスキー監督との初対面はどうでしたか。彼とどんなことを話しましたか。

 チームの本部事務所に行きました。本部事務所にはチーム首脳陣やテクニカルスタッフがいて、つまりクラブのすべてがありましたから。ヴァレリー・ヴァシーリエヴィチ(・ロバノフスキー)とはゆっくり話し合いました。彼は「純粋なサッカー」に関心を持っていて、私に2, 3の質問をしました。それは、私のサッカー観が彼やチームメイトのサッカー観とどれだけマッチしているか知るためです。私の返答に彼は満足しており、考えが一致していることが分かりました。私たちは10分ちょっと話し合いました。その後チームの首脳陣と会い、残りのテーマについて話し合いました。

ディナモ・キエフのヴァレリー・ロバノフスキー監督(1974-1990, 1996-2002)。当時最先端の科学的メソッドと極めて規律的なチーム作りで知られた。ディナモ・キエフで長年監督を務め、ソ連1部リーグ7回、ウクライナ1部リーグ6回、ソ連カップ6回、ウクライナカップ4回、UEFAカップウィナーズカップ2回、UEFAスーパーカップ1回の優勝、ソ連代表を率いてオリンピック銅メダル、欧州選手権(EURO)準優勝の経験を持つ。生涯現役を地で行くキャリアを送り、亡くなる直前まで現場で指揮を執り続けた。ソ連とウクライナのサッカー史に燦然と輝く偉大な指導者。

 ―アンドリー・シェフチェンコが語ったところによると、彼はハーフタイム中にめったにドレッシングルームに入らない、入ったとしても一言「どうして座っているんだ?さあ立って、ピッチに戻って、プレーしよう」と話すだけだったといいます。

 その通りです。あまり口数が多くない人でした。「休んだかい?立ち上がり、ピッチに戻って、プレー再開だ」と言っていました。

 人の心理はさまざまです。それはみなが一人ひとり違う人間だからです。鞭を打たねばならないときも、優しく頭を撫でてやらねばならないときもあります。怒鳴れば我を忘れてしまいかねません。誰かを蘇生させたいときは、棒で叩かねばなりません。たとえば、ペップ・グアルディオラはハーフタイムには監督室にいて、ドレッシングルームの選手の前には姿を見せません。ドレッシングルームは選手の場所だからです。選手は休息を取り、後半戦に向かいます。
 確かに難しい状況になるときもあります。そういう時に監督が部屋に入ってきて選手を鼓舞するのは当然のことですし、これを否定することも当然、できません。

3つの夢

 ―ディナモ在籍時、他のチームからのオファーはありましたか。もしあったなら、どうしてチームを離れなかったのでしょうか。

 ニューカッスルとウェストハムから……2008年にはガラタサライからも誘いがありました。しかし首脳陣が私を手放すのは時期尚早だと感じていたのか、そもそも手放す意思がなかったのかは分かりませんが、ともかくこれらの話はすべて噂レベルで終わりました。ニューカッスルの監督はボビー・ロブソン氏でした。チャンピオンズリーグで彼のチームと2試合戦った後、私に獲得に動いたようです。このことは私もよく知っています。しかし、どうしてクラブ間で合意に至らなかったかは分かりません。おそらく、金銭面で合意できなかったのでしょう。

 チームでの活動を継続したくない選手はフリーエージェントにしてもらったり放出されたりします。チームとしても、その選手を起用し続けるメリットがなくなってしまうので。しかし、私はそのようなことを考えたことは全くありません。私自身がイングランドのチームと交渉したことはありません。交渉していたのは首脳陣だけです。

 私がまだ若く、チームに利益をもたらすことができると経営陣は判断してくれたのかは分かりませんが、とにかく、当時の私はこの手の話にさほど注意を払っていませんでした。もし今決められるなら、私は移籍していたかもしれません。しかしその時は、何が起こるか分かりませんでした。今では多くの若手選手がヨーロッパに移籍していますが、試合経験を積み、成功をおさめる選手はごくわずかです。

 私はイングランドのサッカーが好きです。イングランドで挑戦してみたいと思っていました。もし首脳陣から電話がかかってきて、「イングランドのチームからオファーを受けている。行きたいか?」と聞かれていたら、たぶん移籍していたでしょう。しかし、繰り返しますがそうはなりませんでした。結果として、私はこの件について思い悩み、頭を痛めるようなことにもなりませんでした。

ディナモでプレーするシャツキフ

―なぜ背番号16を選んだのですか。

 たまたまです(笑い)当時16番が空きだったので、あてがわれただけです。その2年後、チーム首脳からスターティングメンバ―に1から11の番号を付けるよう言われ、私は背番号10を着けてプレーしました。しかしどういうわけか11番ではうまくいかず、ほとんど得点することができませんでしたので、16番を返してもらいました。迷信は信じないタイプですが、16番に戻してからすべてが元通りになりました。

 代表チームに関しても、クラブチームで16番を着けていたので背番号16、ただそれだけのことです。

 ―ディナモでのベストゴールはありますか。

 すべてのゴールは大きな意味を持っており、どれか1つを挙げることはできません。UEFAチャンピオンズリーグ決勝でゴールできたら、それがベストゴールになっていたでしょうね。

 私には3つの夢があります。ディナモでプレーすること、ウズベキスタン代表でワールドカップに出ること、そしてチャンピオンズリーグで優勝することです。そのうちの1つは叶いました。残りの2つの実現はもう少し先になるかもしれません。もちろん選手ではなく、監督としてです。

シャツキフのディナモ最終戦でファンが掲げたフラッグ。ディナモでの通算出場数と通算得点数を引っかけて「マックス16戦闘機 出撃数328 撃墜数142」と書かれている。

少し残念な別れ

 ―2009年5月26日、あなたにとってディナモでのラストゲームになりました。リーグ最終節、シャフタールとのあまり重要でない一戦でした。しかしどういうわけだかユーリー・ショーミン監督はあなたをメンバー外にしました。

 監督にはみなそれぞれの考えがあります。私はもちろんチームを去ることもこの日がリーグ最終節であることも分かっていました。私は現在指導者です。しかし、指導者の立場から言えば、私はこのようなことはしないでしょう。リーグ優勝を決めた後の、いわば消化試合だったのですから。

 長年このクラブの名誉を守り続け、大なり小なりチームの成功に貢献してきた選手は、スタンドからではなくピッチの上からファンに別れを告げる……そうあるべきだし、それは美しいことです。

 このことは私が理解できなかった唯一の出来事でした。心残りは当然あります。2, 3分でも出場できていたら、ピッチ上でファンにお別れをしたり、ユニフォームをプレゼントすることもできて、きれいな形で終わることができたのに……。このことは本当に私にとって不可解でした。

 インタビューの第2部と第3部は、マクシム・シャツキフのウズベキスタン代表チームでの活躍と、ウズベキスタンサッカーが現在抱える問題に焦点を当てます。

(続きはこちら

 参考:マクシム・アレクサンドロヴィチ・シャツキフ、1978年8月30日、タシケント生まれ。ロシアのソーコルПЖД、トルペド(ヴォルシスキー)、ラーダ(トリヤッチ)、ガゾヴィク・ガスプロム、バルチカ(カリーニングラード)、ウクライナのディナモ(キエフ)、アルセナル(キエフ)、チェルノモーレツ(オデッサ)、ホヴェルラ(ウージュホロド)、カザフスタンのアスタナでプレー。ウクライナリーグ優勝6回、カップ戦優勝5回、カザフスタンリーグ2位、ウズベキスタン年間最優秀選手賞4回、ウクライナリーグ歴代最多得点記録保持者(171得点)。ウズベキスタン代表史上最多得点記録保持者(61試合34得点)。現在はロシアのロートル(ヴォルゴグラード)でアリャクサンドル・ハツケーヴィチ監督のもとアシスタントコーチを務めている。

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