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【翻訳記事】マクシム・シャツキフのロングインタビュー③(終) 「クーペル辞任、ショムロドフ、W杯について」

はじめに

 ニュースサイトTribuna.uzが元ウズベキスタン代表マクシム・シャツキフのロングインタビューを行った。2月18日は自らの生い立ちとクラブキャリアについて語る記事が、2月21日にはウズベキスタン代表キャリアについて語る記事が出た。それらの記事の翻訳は以下の通り。

 今回はシャツキフ氏が現在のウズベキスタン代表や、ウズベキスタンサッカーについて語った。さらに彼自身がウズベキスタンに抱く思いや、今後母国に帰ってくるのかといった、少し踏み込んだ話題にも話が及んだ。国内のバカ騒ぎをよそに、彼自身はクーペル解任や敗戦時の「犯人探し」を冷静に見ているのが印象的である。いつか彼がウズベキスタン代表を率いて国際試合を戦う、そんな日が来るのだろうか……。聞き手はジャーナリストのサルドル・ユスポフ氏、カメラマンはヌリッディン・ヌルサイドフ氏。

(以下は記事の翻訳)

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 マクシム・シャツキフは現代ウズベキスタンサッカーで最も有名な伝説的ストライカーのひとりである。ディナモ・キエフの一員としてウクライナとヨーロッパにその名を残した。ウズベキスタン代表の最多得点記録保持者でもあるシャツキフ氏は現在指導者のキャリアを積んでいる。我々はキエフでシャツキフ氏に会い、Kun.uzとTribuna.uzの読者のための特別インタビューを行った。

 第1部では、ディナモ・キエフでのキャリア、第2部ではウズベキスタン代表でのキャリアについて話を聞いた。そして今回の第3部では、ウズベキスタンサッカーの問題について話を聞いた。さらに、ファンからの質問にも答えてくれた。

クーペル解任の評価は、時が経てば分かる

 —ウズベキスタン代表チームの試合は見ていますか。最近の結果について聞かせてください。

 はい。サウジアラビア戦を見て、いい感じだと思いました(2022ワールドカップ予選のウズベキスタン対サウジアラビア戦。2-3で敗北)。何人かの選手が交代したことで、試合の様相が変わってしまったと思います。チームが後退を始めてしまったようでした。もちろんそれは選手のメンタリティに関わる問題です。重要な試合で2-1のリードを守ろうしていました。

 相手にはチャンスがそれほどありませんでした。選手交代を行った後、試合終盤にボールロストが増えました。ウズベキスタンにはカウンター攻撃が可能な選手が残っていませんでした。敗因はそこにあったと思います。それだけでなく、運にも恵まれませんでした。サウジアラビアの同点ゴールを振り返ってみましょう。ボールの方向はよくわかりませんでした。ディフェンスはブロックしようとしましたが……。うまくいきませんでした……。3点目も同じような感じでしたね……。

 こういう場合は誰も責められません。ミス、疲労、プレッシャー……。何が何でも勝たねばならない非常に重要な試合でした。しかし、まだ何も失ったわけではありません。ここからはさらに厳しい戦いになっていきます。予選終盤に差し掛かり、相手も必死で来るからです。中東のチームはなかなかゲームを落としません。サウジアラビアに勝利するのは簡単なことではありません。

 —パレスチナ戦の敗北後、エクトル・クーペル監督が辞任しました。これについてどう思いますか。

 彼には少なくとも予選期間いっぱいまでチャンスを与えるべきだったと思います。親善試合は自分のやりたいサッカーができていましたし、予選まで公式戦はやったことがなかった。就任期間は1年でした。親善試合の相手もいいチームでした。外国に来て、その地のサッカーのレベルやその他のことについて把握せずに仕事をするのは簡単ではありません。短期間でチームを準備するのも困難です。これは我が国の監督にアフリカの国で結果を求めるようなものです。

 パレスチナとの試合を見ました(2022ワールドカップ予選、2-0で敗北)。それほどひどい試合だったとは思いません。チャンスもありましたし、それよりも人工芝が……。

 1, 2日早く到着して、多くトレーニングを行う必要があったと思いますが、それを今になって言うのは簡単なことです。私たちは試合を支配していましたが、カウンターでゴールを奪われました。一方で我々の作ったチャンスは多くありませんでした。相手は初めから守備的に戦い、カウンターを狙っていました。堅い守備をこじ開けることは容易ではありません。様々な方法でゴールに迫る必要がありましたが……。

 誰もが私たちの勝利を待ち望んでいましたが、敗れてしまいました……。もちろんチームのすべてを決めるのは監督自身です。しかし監督交代が正しかったのか正しくなかったのかは、時間が証明してくれると思います。

ショムロドフは私を超える

 —ウズベキスタン代表チームで、ピッチ上のあなたを一番よく理解していた選手は誰でしたか。

 ミルジャロル・コシモフとは互いをよく理解し合っていました。ヴィクトル・カルペンコ、ヴィタリー・デニーソフとも。それからセルヴェル・ジェパロフともです。お互いにとって何がふさわしいかとてもよく知っていました。そうであるから、一目でお互いを理解することができたのです。

 —ウズベキスタン代表チームでは新しく招集された選手とはどのように打ち解けていましたか。特別なイベントなどはありましたか。例えば、歌を歌ったりダンスをしたりというような……。

 スパイクに羊の血をかけるというのがありました……。この習わしはずっと前からありました。フィールド中央のセンターサークルで羊が殺されます。そしてその血を、幸運をもたらすように新選手のスパイクに振りかけるのです。今はこの儀式を行うことは比較的稀なことのようです。しかし代表チームではいつも羊肉のプロフを食べていました。通常、食べるのは試合の前日でしたが、私は2日前に食べるようにしました。プロフは重く、脂っこい料理だからです。消化するのにとても多くの水が必要になりますが、翌日は試合です。選手の体には大きな負担です。そのため、この習慣を1日前倒ししたのです。

 ここでシャツキフ氏に、一緒にプレーした選手でベストイレブンを作るようお願いしてみた。シャツキフ氏が選んだチームは以下の通りである。

ゴールキーパー:イェフゲーニー・サフォーノフ
ディフェンダー:ヴィタリー・デニーソフ、アンドレイ・フョードロフ、アスロル・アリクロフ、イスロム・イノモフ
ミッドフィルダー:セルヴェル・ジェパロフ、ミルジャロル・コシモフ、ヴィクトル・カルペンコ
フォワード:ウルグベク・バカエフ、マクシム・シャツキフ、アレクサンドル・ゲインリフ
監督:ボブ・ホートン

 —あなたはウズベキスタン代表で34のゴールを挙げ、歴代最多得点記録を持っています。あなたに続くのはアレクサンドル・ゲインリフ、ミルジャロル・コシモフ、イーゴリ・シュクヴィーリンですが、全員すでに引退しています。現役であなたの記録に近いのは、オディル・アフメドフ(20ゴール)、エルドル・ショムロドフ(16ゴール)です。アフメドフがMFの選手であることを考えると、あまり多く得点はしないでしょう。24歳のショムロドフは16ゴールのうち13を1年間に決めました。彼はあなたの記録を抜くと思いますか。

 私の記録を超えると確信しています。彼の現状がそれを示していると思います。この1年間で非常に多くのゴールを決めました。彼はハイレベルなリーグの、タイトルやチャンピオンズリーグを争うチームでプレーしています。そのようなチームで、彼は高次元のプレーを見せています。このことは、代表チームに利益をもたらしています。

 さっきも言いましたが、選手というのはオファーがあれば、よりレベルの高いリーグに移籍するものです。それは代表チームにとって本当にいいことです。

 残念ながら、ウズベキスタン国内で近い将来に大きな変化やレベルの上昇や育成組織の充実があると私には思えません。ですから、チャンスがあれば若い選手をよりレベルの高いリーグに移籍させるべきです。ショムロドフはそのいい例です。我が国に強力なアタッカーが現れました。

 彼はフォワードやウィングなど、複数ポジションでプレーできます。もうひとり彼のような強力なアタッカーが出現したら、まさに鬼に金棒といったところでしょう。今のところ彼はオンリーワンです。彼にはスピードもシュートもあります。

その時は、必ず来る

 —どうしてあなたは指導者のキャリアを選択したのでしょうか。多くの選手が指導者になりますが、その中で成功を収めるのはわずかです。

 —まず第一に、私はサッカーが好きです。ずっと前から、キャリアを終えたら指導者になると決めていました。プロキャリアを終えたとき、私に戸惑いはありませんでした。指導者のキャリアを選びました。勉強して、必要な書類や資格をすべて揃えました。現在はロートル・ヴォルゴグラードでアリャクサンドル・ハツケーヴィチ監督のもとでアシスタントコーチをしています。将来的には独立した監督のキャリアを始めたいと思っていて、その目標のために頑張っています。

 —ウズベキスタンのチームから監督のオファーがありましたか。

 いいえ。

 —もしオファーがあれば、ウズベキスタンのチームで仕事をするつもりはありますか。

 どうして仕事をしないなどと言えるでしょうか。もちろんオファーがあれば検討します。

 —ウズベキスタン代表チームのオファーがあれば、どうしますか。

 代表チームというのは監督業の頂点でもあり、誰もが望むものです。

 —現在、あなたはウズベキスタン代表チームを率いる準備はできていますか。

 もちろんです。何をすればいいか分かっています。しかし2年~4年後にワールドカップに出場できると約束することはできません。しかし全力を尽くして、知識を駆使して、目標を達成する準備はできています。しかし最終的にどうなるかはわかりません。「シャツキフはこのタスクができるに決まっている」という人がいるなら、その人を信じるのはばかげています。

 —サッカーのアイドルは誰ですか。

 メッシです。

 —子供の頃は。

 兄のオレグです。彼は今モスクワの企業で働いており、サッカーとは関係を持っていません。彼は娘と暮らしていて、すべて順調だそうです。彼は物静かな性格で、インタビューもほとんど受けませんでした。人々の注目を集めるのが苦手で、静かで落ち着いた人です。(ちなみにオレグ氏は、弟とは異なり国外に出ることはなかったが、1996年にナフバホルでウズベキスタンリーグを制覇。1995年にはウズベキスタン年間最優秀選手に輝いた。1995、1996シーズンにリーグ得点王になり、代表チームでも活躍した。大怪我を負い、30歳を前にキャリアの第一線から退いた)

 —マクシム、あなたは傍から見ると滅多に笑わない、怖い人のように見えます。

 あなたにはそう見えるのですね。多くの人からそう言われます。あなたは本当に真面目だと……。ですが私は反対に、とても陽気なんですよ。どこにいてもそうです。友人たちといるときや、チームにいるときも……。これは私について最大の誤解です。

 —どうしてウクライナ市民権を取得したのですか。

 この国に家族と暮らすことに決めたからです。ウズベキスタンのパスポートでここに住むことは何かと大変です。大使館のスタッフの家族を3, 4組ほど知っています。彼らもまた私を知っています。外国で暮らしているので、登録をしてビザを取得せねばなりません。彼らに何度も申請しに行きました。

 以前は2年のビザでしたが、今では国際パスポート(訳注:2018年に導入されたワインレッド色のバイオメトリック・パスポート。10年間有効)を持っているので問題ありません。以前は外国に出るのはとても大変で、シェンゲン・ビザを取らねば何もできませんでした。残念ながら、ヨーロッパではウズベキスタンへの関心はあまり高くありません。そのような国の存在を知らない人さえいます。そんな人たちがビザを支給するか支給しないかを判断します。これは人生の問題です……。

 タシケントに住むことに決めていたら、当然市民権を変更することはありません。しかし私の末娘はここキエフで生まれました。彼女は大学を卒業しています。そういう問題もありました。

 —あなたにとってウズベキスタンとは。

 ウズべキスタンは私の故郷です。何度も言ってきましたが、故郷を選ぶことはできません。私はこの地に生まれました。ウズベキスタンで人として、サッカー選手として育ちました。私は16歳ごろまで、ウズベキスタンで楽しい時を過ごしました。幼少期、幼稚園、学校……。この国を離れ、今は大人としての毎日を過ごしていますが、私が一番楽しく幸せな時を過ごしたのはウズベキスタンです。

 —ともにプレーした中で最高の選手は誰ですか。

 ベラルーシ人のヴァリャンツィン・ビャルケーヴィチです(シャツキフとディナモ・キエフでともにプレーした司令塔。動脈瘤により2014年に41歳の若さでこの世を去った)。ピッチではお互いによく分かり合っていました。

 —ウズベキスタン代表ではどうですか。

 ミルジャロル・コシモフです。彼とプレーするのは簡単でした。お互いがよく分かっていました。素晴らしいパスとシュートの持ち主でした。彼とボールを蹴るのは簡単なことでした。

 —彼はチームのリーダーでしたか。

 もちろん。数年間そうでした。

 —あなたはウズベキスタン代表チームのリーダーでしたか。

 自分がリーダーだとは思っていませんでした。選手は自分自身がリーダーだと思うことはありません。それは間違ったアプローチだと思います。監督、ファン、専門家、他の選手がそう感じるのであって、選手自身が思うものではありません。

 どうして選手自身が自分はリーダーであると言うことができるでしょうか。私は他の選手より少しだけ経験がある方ですが、そのこととリーダーシップとは関係ありません。私はピッチ上で味方に指示を出したり、仲間のフォローも行いましたが、それでも私は自分をチームリーダーだと思ったことはありませんでした。

 —質問に答えてくださりありがとうございます。もちろん指導者としてのキャリアは今後も続きます。あなたに成功、健康、人生の幸福があることを祈っています。最後に、ウズベキスタンのサッカーファンにメッセージをお願いします。

 もう少しの辛抱です。全ウズベキスタンサッカーファンの夢が叶う時はもう少し先かもしれません。しかし時が来たら、必ずや私たちはワールドカップに行くことができるでしょう。今は耐えるときです。全ての敗北の責任を協会、監督、選手に負わせないでください。なぜならサッカーというのはシンプルなスポーツだからです。勝者がいて、敗者がいる。それは運命の導きなのです。

 サッカーを見に来てください。どことの試合かに関わらず、代表チームを支える力になってください。終わりには必ずや報われると思っています。私たちは、いつか必ずワールドカップに出場できます。(終)

 参考:マクシム・アレクサンドロヴィチ・シャツキフ、1978年8月30日、タシケント生まれ。ロシアのソーコルПЖД、トルペド(ヴォルシスキー)、ラーダ(トリヤッチ)、ガゾヴィク・ガスプロム、バルチカ(カリーニングラード)、ウクライナのディナモ(キエフ)、アルセナル(キエフ)、チェルノモーレツ(オデッサ)、ホヴェルラ(ウージュホロド)、カザフスタンのアスタナでプレー。ウクライナリーグ優勝6回、カップ戦優勝5回、カザフスタンリーグ2位、ウズベキスタン年間最優秀選手賞4回、ウクライナリーグ歴代最多得点記録保持者(171得点)。ウズベキスタン代表史上最多得点記録保持者(61試合34得点)。現在はロシアのロートル(ヴォルゴグラード)でアリャクサンドル・ハツケーヴィチ監督のもとアシスタントコーチを務めている。


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