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芋ぎょうせん(芋飴)

芋ぎょうせん(芋飴) 小説
 虚士(きょし)が小学4年(昭和34年) 頃の話です。浅海(あさみ)集落では毎年11月頃になると収穫したさつま芋の長期保存用のコッパ(スライスして煮て干した芋)を造る作業がある。虚士の家では床下に芋を保存して、11~4月位まで随時取り出し蒸して補助的に食べ、5~9月はコッパを蒸し直し、練りつぶし(一般にはカンコロと言う)て食べていました。このコッパ造りの副産物を虚士はすごく楽しみにしていました。
 
 父母、兄等が中心となり、芋洗いテゴ(竹で編んだ深いザル)に芋を入れ、自宅先の平瀬(ひらせ)の海水に浸し、上下に揺さぶり洗います。(海水浴場の「芋を洗うがごとく混雑」はこのザルの中の芋を人間に例えています)次に乾燥させた芋の皮を金具を使い剥きます。これを大型の「削り節器」の様な器具を使い、手作業でスライスして行きます。その後スライスした芋(コッパ)を板の上に並べコッパ突き金具で一枚に1ヶ所孔を開けます。
 
 軒下に吊り下げる事を前提に、稲藁の細い縄に結び目を付けながらコッパの孔に通して70cm位の長さまで続け、これの2列をつるべ状に結び1組が完成です。
 
 竈(かまど)の釡に少なめのお湯をたぎらせ、つるべ状のコッパを数組入れ適度に蒸します。蒸し上がったコッパは随時軒下に吊して乾燥させ補助食用に保存します。この作業が夕方まで続きました。
 作業が終わった後釡の中に、芋から抽出され甘みが濃縮された煮汁が残っています。ここで虚士は目を輝かせ母の紀乃に言います。「芋ぎょうせん(芋飴)造ってくれんかな?」母は「虚士が親の言う事聞くごとなれば造ろうかね?」虚士は反省を込めて「――聞く」と小さな声で答えました。
 
 母は食事が済み後片付けが終わり夜8時ごろ、コッパの煮汁を不純物を取り除きながら幅広の鍋に移して、囲炉裏のゴトクの上に載せ、薪をくべ、じわじわと煮詰め始めました。虚士は囲炉裏端で鍋の中をじっーと見つめています。家族は一人二人と寝床に就きますが、虚士は鍋の中が気になり、母は火加減を調整しながら、言葉少なく時間が過ぎて行きます。
 
 12時位になると、単なる濁った液体だったのが、ぷくり、ぷくり膨れてはつぶれる、粘性のある半液体に変化してきました。虚士が「もう出来たかな?」と言うと、母は「まだまだ、これからだよ」と答えました。虚士はその後もしばらく見ていましたが、眠気が「芋ぎょうせん」に勝ってしまい、とうとう寝てしまいました。
 

芋ぎょうせん練り

 次の朝虚士が起きると、すでに板の間に誠吾兄が餅とり粉の入った箱を前にして、なにやら粘っこい物を両手で引っ張っていました。見ると横に昨夜の鍋が在り、水分が抜けくすんだ色の「芋ぎょうせん」が溜まっていました。
 誠吾兄が「こうして何回も伸ばし、練ると色も良くなるし、ねじって鋏で小さく切ると、飴らしくなり食べやすくなる」と教えてくれました。

虚士は「味見ばしたか!」と言って、箱の中の「芋ぎょうせん」を一個もらって口の中に入れました。凝縮された甘みが口いっぱいに拡がり、思わず「んまか!(うまか)」と目を輝かせました。
 終わり

(この話は実話に基づいていますが、細部の記憶が怪しいので”小説”としました)

 
追記
 砂糖、飴類が貴重で、甘い食品が少なかった時代、干し芋の副産物ではありますが「芋ぎょうせん(芋飴)」を造ってもらった事は、少し芋臭い甘さ、その製造過程、加えて家族の思いやりと共に、私の幼少の頃の楽しい記憶として残っています。


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