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先見の明、みかん作り

 先見の明、みかん作り
 みかんの収穫時期になると、私(虚士(きょし))は思いを馳せる事が有ります。物心付いた時は私の集落では、殆ど稲、麦の他は唐芋(薩摩芋)を作り収入源にしていましたが、私の家にはみかん山がありました。これが戦後の復興期貴重な収入源だったのです。天草は岩山が多く土地が痩せていて、甘いみかんが出来る土地柄でもありました。
 
 このみかん山は、温情山(おんじょうやま)にありました。家族は虚志郎(きょしろう)じさんが作ったと言っていました。父は戦争でシンガポール方面に行っていたので、戦時中かその前に山の雑木を伐採し段々畑に開墾して、みかんの木を植えたのだろうと思います。日々の生活も楽ではなかった時期に、何年も収入が見込めないみかん作りを始めたのです。
 
 私が小学校へ就学した頃は、すでにみかんが収穫出来ていました。
温州みかんが殆どで、他にきんかん、きんこうじ(晩柑に似)、霜降みかん(アンコールに似)、後日父が早生の温州みかんを植えました。総数で50~60本程度だったと思います。
 当時私は、みかんが熟れる頃、“温情山”或いは近くの”つっかぐめ”へ行くのが好きでした。修一兄は大きくて立派なみかんを食べ、小心者の私は忖度して、売り物にならないようなのを選んで採っていました。
 
 毎年11月頃、みかんの収穫をして、初期は殆どを住居の床下に貯蔵して、冬場定期的(現金が必要な時?)に少しずつ取り出して、父自慢のポンポン船で、牛深(うしぶか、漁港で栄えた町、ハイヤ節の元祖)に母が行商に行っていました。私も何度も付いて行きましたが、唐芋よりずっと高価に売れた様です。

 当時家族は10人居て内5人が子供でした。子供が大きくなり生活費が増加するのにつれ、みかんの木も大きくなり、沢山収穫出来るようになって行きました。私の兄弟はみかんで育ったと言えるかも知れません。そう思うと、最初にみかんの木を植えた、虚太郎じさんの先見の明、努力に感謝です。

 
 その後、時代が進み経済が成長する頃から食生活も豊かになり、みかんの需要も増え、全国規模でみかん作りが奨励されました。その結果生産過剰となり、その上アメリカからの圧力で1991年から輸入も解禁されました。
 現在のみかん農家は輸入品に高級な品種で対抗しようと、晩柑、ポンカン、デコポン等他種多様なみかんを栽培して、外国への輸出も奨励されていますが、苦戦中ではないでしょうか。
 
 みかん作りには、手間が掛かります。消毒、ガス燻蒸、剪定、施肥等、それに比べ唐芋はそれほどではありません。皮肉な事ですが今では、新種の唐芋の方が経済効率は良いのではないでしょうか、労働強度を考えなければの話ですが。   終わり
 (この話は実話に基づいていますが、細部の記憶が怪しいです)
 
追記
 兄が温情山に加え、奨励期にもう二ヶ所追加してみかん作りをしていましたが、数年前高齢の為、全て放棄して今は雑木林に帰っています。


虚子少年の生活圏


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