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暴力(決闘)こそ、世の中に秩序をもたらすものである
暴力ほど嫌なものはない。しかし、暴力がなければ秩序が保てない。ルール違反のむちゃくちゃな状態になってしまうのだ。
国際社会においては、軍隊がなければ北朝鮮のようなならず者国家のやりたい放題になってしまう。
国内においては警察だ。もし警察機構を解体したら、反社勢力(ヤクザ、半グレ、外国マフィア)による血で血を洗う内乱がおこり、数年後に山口組が天下を取り、軍政を敷くだろう。
国際社会においても、国内においてもわれわれが安心して暮らせるのは、こういった暴力機構のおかげである。暴力ほど嫌なものはないが、しかしある程度の暴力を効果的に行使しなければ、暴力による悲惨は、その100倍になってしまうのだ。
これは個人においても同じだ。個人の間に秩序をもたらすのも暴力、それも作法にのっとった暴力である。
ここで、かつての日本にあった暴力に関する認識を取り戻さないといけなくなる。
それは暴力とは拳の暴力と言葉の暴力、この2つを指すということだ。ようは人の体を傷つけることと心を傷つけることは、ともに暴力であり犯罪だということだ。
昔の日本では、たしかにこう考えられていた。
もし言葉の暴力(精神の暴力)をやっていいのなら、脅迫罪、侮辱罪、強要罪、強制猥褻罪、強制性交罪といったことじたいが成立しない。これらはすべて精神への暴力行為であり、それゆえに犯罪であるとの認識が根底にあるからだ。
ある特定の人間に精神の暴力行為をみとめてしまったら、社会の秩序、道徳はおろか、法治国家すら成り立たない。だから、言葉の暴力にはぜったいに制裁を科し、厳しく禁じていかなければならないのだ。
しかし、侮辱、言葉の暴力だけは取り締まりようがない。拳の暴力と違い言葉の暴力とは目に見えず、証拠も残らない。よって姑息なやり方をしたら、取り締まりようがないのだ。
チンピラがすれ違いざまに暴言を吐いたり、人を笑いものにしたり、また職場で立場の弱い人間に罵声を浴びせるといった言葉の暴力は、もう法による裁きなどやりようがない。
この勢いやりたい放題になりがちな言葉の暴力に対抗するためにできたのが、決闘文化だ。
かつての日本には、”人を侮辱した人間は殴られて当然”という価値観があった。じっさい暴言を吐いた人間は、ふつうに殴られていた。
これは言葉の暴力と拳の暴力、つまり人の心を傷つけることも、人の体を傷つけることも共に暴力であり、犯罪行為であるとの真理を体現したしたものだ。
。。。。。
身分制社会だった江戸時代では、町人が武士を侮辱したら斬り捨てていい、いう法があった。しかしこれはやるとお家取り潰しになるから、実際されることはほとんどなかった。法にもいろいろあり、武士の権威を傷つけることは許されない、ということをそういう形で示したわけだ。
一方、それほどの峻烈極まる法がありながら、武士が町人を侮辱したら、町人は武士に決闘を申し込むことが許されていたのである。
江戸時代の武士の日記に、”遠出をしたさいに中間(使用人)にあまりうるさく小言をいっていたら、その中間が荷物を放り出し、しばらくのあいだ睨みあいになった。もうすこしで決闘になるところだった、怖かった”というような記述がある。
町人から侮辱を受けたら、武士は町人を斬り殺すことが許されていたのだが、その反面町人を侮辱したなら、武士は町人と1対1で命がけの決闘をしなければならなかったのである。
当時は厳格な身分制社会でありながら、よく見てみれば公平で筋の通った男らしい文化でやっていたわけだ。
誰だって1対1で命がけで戦うのは怖い。この恐怖があればこそ、人は人を傷つけたいという悪の心を抑えるようになる。恐怖なくして、人は決して自分を律することはできないのだ。
そしてこの決闘文化があればこそ、身分が上の人間の侮辱から自分の心を守ることができ、人々は誇りをもって生きることができたのである。
人間として誇りをもって生きていく・・・この点において、江戸時代の人々は現代のわれわれよりはるかに真剣で、優れた文化をもっていたわけだ。
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