余白があると埋めてしまう
「ぼーっとする」が上手くできない。
スケジュールの空白を、予定で埋めてしまう。コレをしなくちゃ、アレをしなくちゃと、タスクのようなもので次々と埋めてしまう。
余白を埋めて安心しているのかもしれないし、自分の存在意義を確かめているのかもしれない。
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大学生のころは空き時間のほとんどをバイトで埋めていたし、社員研修で半年ほど関西に住んでいたときには、「期間限定の関西を楽しまなくちゃ」と、休みのたびに観光の予定を入れていた。
1人行動が苦にならないので、だれとも予定が合わなくても、かまわず1人ででかける。
そういう身軽さが「ぼーっとできない」性分に拍車をかけた。
結婚していったん仕事を辞めたとき、乳児を育てながら自分のキャリアに不安をおぼえた。「なにかしなくちゃ」と土日の育児をオットに任せ、翻訳学校に通った。
再びフルタイムで働きはじめると、平日の仕事、育児、家事でクタクタなのに「子どもたちと一緒にどこかお出かけしなくちゃ」と、休日を予定で埋めていた。
スケジュール帳の余白はずんずん埋まり、家で「ぼーっとする」ができずに、いままで過ごしている。
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この焦りはなんだろう?
時間が空いてもジッとしていられない。「これはマズイ、なにかしなくちゃ」と追い立てられるように動いてしまう。
「動いていないと」「忙しくしておかないと」という、ある種の強迫観念のようなものがある。
そんな思いがどこかにあるのかもしれない。
だれになにをどんなふうに認めてもらいたいのか、自分でもサッパリ分からないのだけど。
なにかになりたいわけでもないのに、いろいろ目標を設定しがちだ。小さな目標を1つクリアするとまた新しい目標をたて、こんどはそこに向かう。ずっとそのくりかえしで、いつになってもホンモノのゴールは見えてこない。
そもそも、わたしはなにと戦ってるんだ?
親しい友人から「カミーノは生き急いでる感、あるよね」といわれたことがある。
どきりとした。
母は50代、祖母は30代でこの世を去ったので、「わたしの終わりも早い?」という意識があるのかも。フルスロットルじゃないと間に合わない、と焦っているのかもしれない。
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これまでそんなふうに生きてきたから、この記事にガツンとやられた。特に、後半の文章には考えさせられた。
漫画家・イラストレーターの猫野サラさん。わたしのアイコンを描いてくださった、人情味あふれる、それはそれは多才なnoterさんだ。
「がんばらない自分にも価値がある」、こんなふうに考えたことは1度もなかった。50年も生きてきたというのに、このありさまだ。
ほんとうに、わたしはなにと戦ってるんだ?
余白を残しておくなんてもったいない、埋めないと。そんなふうに生きてきた。
と、ここまで書いて思い出した。
余白は大切だということを、デザインやゴスペルに教わったんだ。
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本屋さんでなにげなく手にとり、一気に立ち読みしたデザインの本(立ち読みだけで完読してごめんなさい)。「余白」に着目した説明がとても分かりやすかった。デザイン「ド素人」のわたしでも、楽しく読めた1冊。
ふむ、なるほど。いわれてみれば確かに。
なんかコレ、生き方に通じるものがあるよね?
日常のなかで余白を「つくる」。その余白があるからこそ、ひとは引き立ち、洗練されて見える。
デザインの本に、人生を教わった。
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もう1つ、「余白」の大切さを教えてくれたのが、わたしのライフワークのゴスペルだ。ゴスペルはブラックミュージックの1つ。
ブラックミュージックではビートやグルーヴ感を重視する。そのグルーヴ感を生みだすのは、音楽のなかにある「余白」だ、とわたしのゴスペルの師匠は言っていた。
音をぎちぎちに詰めこむのではなく、音がまったく聞こえなくなる余白をメロディラインに一瞬だけつくる。もちろん、意図的に。
その余白が、ブラックミュージック独特のリズムとグルーヴを生むのだという。ずっと聴いていたくなるクールな音楽には、必ず余白があるんだって。
ゴスペルにも、人生を教わった。
カッコイイ生き方には、必ず「余白」があるんだ。
♢
余白があるから、日々がうるおう。
余白があるから、ひとは引き立つ。
「そんなに戦わなくてもいいんじゃないの?」
こんどからスケジュール帳に余白をみつけたとき、1度は自分にそう問いかけてみよう。
「がんばらない自分にも価値がある」と思えるようになるために。
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