ある葬祭ディレクターとの出会い(2)
こちらの話の続きです。
♢
病院からの連絡はまだない。父は、なんとか生き延びている。
長くてもあと数日、といわれた。その父の葬儀の打ちあわせのため、私だけが葬祭ディレクターのMさんに会いに行った。音楽葬の軸となる生演奏を確認するためだ。
ピアノ・バイオリン奏者さんにお願いしたゴスペルのうち、1曲はかなりマニアック。奏者の方たちも初めて知ったという。楽譜が見あたらなかったので、奏者の方がYoutubeの音源をもとに楽譜を書きおこし、練習してくれたらしい。私の目のまえで演奏してくれた。
次にこの演奏を聞くのは、もう父が亡くなったそのときなんだと、しんみりする。
♢
葬式のプログラムも詳細も決まった。参列者のリストも作り、連絡先もチェックした。あとは日程だけだ。
葬儀の詳細を決めるうち、「そのとき」を受けいれる心の準備はととのっていった。これだけ決めておけば、慌てなくていい。
あと私たちができるのは「父を気もちよく送りだす」こと。それだけだ。
弟と私の覚悟ができたのを待っていたかのように、「その連絡」は来た。慌てて病院に駆けつけたが、父の最期にはまにあわなかった。
父は家族に看取られることなく、たった1人で旅立った。最後まで父らしいな、そう思った。
♢
そのあとの役所関係の手続きは、すべて弟がすませた。役所から発行された「火葬許可証」を手に、葬儀会社へ出向く。
葬祭ディレクターのMさんが待っていてくれた。ひととおり挨拶をすませ、父の最期の状況をMさんに伝える。
Mさんは火葬場に連絡し、空き状況を確認してくれた。気温も低く、こんなご時世で亡くなるひとの多い1月。火葬場の数には限りがあるため、死んでもすぐに火葬できるわけではない。実家のある市はとりわけ混んでいて、最短でも5日待ちだという。
葬儀ホールの空き状況とも照らしあわせ、死後5日後に通夜、6日後に告別式、ということに決まった。
通夜当日まで、父の遺体を葬儀ホールの和室に安置してくれるという。Mさんの提案をありがたく受けいれた。
葬式の詳細はほぼ決めてある。その事実は、弟と私に大きな安心感をもたらした。
あとは、参列者への連絡、会場入口に設ける「メモリアルコーナー」の写真や思い出の品の準備、音楽葬での別れの言葉の構想。この3つをすればいい。5日後の通夜まで、時間はまだある。
「お通夜まで、どうぞお父様の面会にいらしてください。もちろん毎日来ていただいてもいいですよ。お父様、喜ばれると思います」
Mさんは一礼し、弟と私を見送ってくれた。
♢
その夜、弟と私は、実家にある大量のアルバムを引っぱりだした。「メモリアルコーナー」に飾る写真を決めるためだ。
父と母の結婚式の写真、七五三の写真、家族で動物園に行った写真など、いままで見たことのない写真がわんさかでてきた。
「お父さんとお母さん、こんなころもあったんだね。喧嘩してた記憶しかないわ」
ポツリと私がそう言うと、そういえばこんなことがあったよね、と弟が父の思い出話をする。そこから一気に話は盛りあがり、幼いころの話、父母との思い出、父の仕事の話、親戚の話などをした。
ありとあらゆる「家族」にまつわる話だ。
私だけが知っている話もあったし、弟だけが知っている話もあって、私たちはそれを余すことなくシェアした。父のこんなところが嫌いだった、あんなふうに言われて嫌だった、と父の悪口も存分に言いあった。
だけどいいところも少しはあったよねと、父の仕事ぶりを称賛したり、信じられないほどの父の頑固さをほめたたえたり、おじいちゃんになってからは性格が丸くなったと、その豹変ぶりに驚いたりした。
昔のアルバムを見ながら数時間ものあいだ、姉弟で頭をくっつけ、飽きることなくずっと家族の話だけをしていた。
それは何ものにも代えがたい、とても濃厚な時間だった。
それと同時に、私はひどく悲しく、そして申し訳なく思った。こんなに濃くて楽しい時間を、父母が生きている間にもつことができなかったからだ。
♢
通夜の日まで毎日、葬儀ホールに父に面会に行った。弟と2人で行く日もあれば、私1人だけで行く日もあった。
父の遺体は真っ白な布団に安置され、顔には白い布がかけられ、胸元には「守り刀」と呼ばれる短刀がおかれていた。枕元には、白と紫の供花がいくつも飾ってある。
横たわる父のそばに座り、弟と2人で父に話しかけたり、そこでおしゃべりしたりする。そんなふうに1時間も2時間も過ごした。
♢
私が1人で面会に行ったときのこと。
面会前に、葬祭ディレクターのMさんと30分ほど話す機会があった。
「通夜まで思いがけず長い時間があるので、弟とたくさん家族の話をしています」
そう伝えると、Mさんは言った。
「その時間は、お父様からのプレゼントかもしれませんね。ご姉弟がこれからも仲良くやっていけるように、という最後の贈りものなのかも」
「お通夜まで、まだ時間があります。お姉さまは後悔しないように、思いを残さないように、お父様としっかりお話されてください。お父様のお顔を見れるうちに、いままで言えなかったこと、伝えられなかったことをきちんと伝えてくださいね。その機会をもたせてくれたのもまた、お父様からのプレゼントだと思いますよ」
Mさんの言葉が胸に沁みる。思わず聞いてしまった。
「父に、いままでの恨みつらみを言ってもいいんでしょうか?」
「いいと思いますよ。お父様は、きっとお姉さまの思いを受けとめてくださいます。そして、その思いをしっかりと昇華してくれます。送る側が悔いを残すのはよくありません。これからの人生のためにも、いまのお気もちをすべてお父様に伝えてみたらいかがでしょうか」
Mさんの言葉が私の背中を押してくれた。
父親への屈折した思いを手放すタイミングなのかもしれない。腹の底に渦巻き、ふとしたときに頭をもたげてくる黒々とした感情を、父に伝えるときなのかもしれない。
♢
その後、父の遺体と2人きりになった私は、父の顔の白い布をはずし、その顔をジッと見た。頬に触れるとドライアイスのせいでひどく冷たかったが、皮膚はまだ柔らかかった。
しばらくのあいだそうやって、顔をただ眺めていた。そして、ぽつりぽつりと、いままで言えなかったことを吐きだし始めた。
いったん言葉にすると、気もちをおさえることができなくなった。真っ黒な思いが次々にあふれだし、鼻水も涙も、よだれすらもでてきて、話しながら顔はぐちゃぐちゃになった。
父は目を閉じたままただそこにいて、私の恨みつらみを聞いていた。表情も変えず体をピクリと動かすこともなく、ただジッと聞いていた。
嗚咽に近い状態になったとき、私の口から思いもしなかった言葉がでてきた。
「お父さんに気にかけてもらいたかった。もっと話しかけてほしかった」
自分の言葉に自分で驚く。ドロドロした感情の裏にはそんな思いがあったのか。それが本心だったのか。
私は父の愛情に飢えていたんだ。
自分でそう認めたとたん、不思議なことに心がすーっと軽くなっていった。それは、長年の憑き物が落ちていくような感覚だった。40年以上も腹の底にあったドス黒い思いが、昇華されていく。それを感じた瞬間だった。
2時間近くも父の遺体と一緒にいたらしい。その日は、私が初めて腹をわり父と2人だけで話した日になった。
♢
この面会を境に、私の心もちは変わった。不思議なもので、自分がそういうふうに変わると、私たち家族を苦しめていた当時の父の心情を想像する、という余裕すら生まれた。
父はずっと寂しかったのではないか。苦しんでいたのではないか。
通夜までの日々、そんな話を弟とずっとしていた。
ずいぶん波乱万丈の家族だったけど、最後は「ありがとう」の気もちで送りだそう。弟と私はそう決めた。
♢
父の通夜・告別式はごく近親者のみの式だったが、忘れられない音楽葬になった。
参列者からも「心がこもっていた」「想いが伝わってきた」「あったかい気もちになった」との言葉をもらった。
弟と私の自己満足に過ぎなかったかもしれない。でも、父の旅立ちを真摯に考え、これまでの家族の歴史をふりかえり、私たちのやりかたで父を弔った。
父との別れに伴走してくれ、心に残る言葉をくれた葬祭ディレクターのMさんには、感謝の気もちしかない。彼女のアドバイスのおかげで忘れられない式になったし、長年の私の心の澱を手放すことができたのだから。
49日を過ぎたころ、Mさんから葉書が届いた。
病院で父と最後の面会をしてから10日間ほどの時間。あれは、子ども時代を振り返り「家族」に向き合う濃い時間だった。あの時間は、私に必要だったんだと思う。私にとって必要なプロセスだったんだと思う。
♢
今朝も、父と母のそれぞれの遺影に手をあわせた。
あの世に行った父は、母にきちんと謝罪しただろうか。母は、父のその謝罪を受けいれただろうか。
父と母はあの世で、今度こそ仲良くやっているだろうか。
そうであればいい。それが、子どものころからの弟と私の1番の願いだったから。
父の死によりあの時間がもたらされた、そのことに心から感謝している。
大切な時間を使って最後まで読んでくれてありがとうございます。あなたの心に、ほんの少しでもなにかを残せたのであればいいな。 スキ、コメント、サポート、どれもとても励みになります。