戦争の傷跡
救世軍の旗を立てて、ボロボロの軍服を着て、数人の男性が社会鍋といわれる鍋の後ろに立つ。1人はアコーディオンを弾き、1人は片足を失くしたのだろう、立てないまま、ゴザの上に座り、さながら乞食のような光景で、道行く人におカネを鍋に入れてくれるよう促す。
ほとんどの人は無視して通り過ぎるのだが、稀に年取ったご婦人が腰を曲げて礼をし、おカネを入れるのを見た。
場所は広島八丁堀のアーケードの商店街のなか。僕は小学校2年生くらいだっただろうか。今でも鮮明に憶えている。
でも救世軍というのは世界的なキリスト教の組織で、彼らは、その名前を騙ったのではないかと思えるような、そんな印象をもった。もっとも当時はそんな知識などないから、救世軍=乞食という印象でしかなかった。
足のない人は、一人でも同じ場所で座っておカネを入れる缶を前に置き、物乞いをしているのを何度か見たことがある。
僕が住むことになった広島はそんな街だった。それまで住んでいた福岡には、戦争の欠片などどこにもなかった。小さすぎて気づかなかっただけなのかもしれないけど。
だから僕は広島が嫌いだった。夏になれば、原爆関係のニュースで、ケロイドに顔を歪ませた原爆資料館にあった人形がTVにでてきたり、被爆者の写真が出てきたりする。
学校の裏側の山の麓には、さすがに中に入れない様にはされているが、防空壕があった。
原爆で顔を火傷した人など、当たり前のように街で見かける。
戦争から25年たったその頃も戦争の傷跡はそこら中に、隠されることなく目に入った。
戦後77年。広島は垢ぬけた。都市高速はでき、アストラムラインができ、人口は急激に増えた。街にはおしゃれな男女が行きかい、どこにもケロイドを顔に持った人間はいない。軍服を着た乞食もどこかへいってしまった。防空壕は埋められ、戦争の傷跡を思わせるものは、原爆ドームだけになった。
その原爆ドームも維持管理するのが、難しくなっていると聞いた。このままでは崩れ落ちていくという話である。
最近の若者は、原爆が落ちた日を知らない人が多いと聞く。だんだん風化していくのだろう。
どれくらいおカネがかかるのかはしらないが、未来永劫、これだけは残して欲しい気持ちでいっぱいである。
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