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【沖縄戦:1945年3月8日】第32軍、沖縄各飛行場の破壊を決断 「仲宗根源和ハ元日本共産党ニ関連シ…」─住民監視などを行う「国士隊」結成への動き

第32軍が要請した「張付け特攻」

 軍中央は、沖縄戦について、地上で第32軍が米軍と対峙・攻防しているあいだ、台湾および南九州から陸海軍の航空部隊が沖縄方面へ出撃し、沖縄洋上の米機動部隊に対する航空特攻作戦を展開する予定であった。しかし、第32軍自身は、そうした航空作戦について大きな期待を抱いていなかった。それはレイテ決戦が一大航空決戦といわれ、多大な航空部隊の投入がありながら、結局は敗北したことにもよる。
 もっとも、第32軍は、航空特攻部隊を沖縄へ直接配備し、近海で展開する米機動部隊に航空特攻作戦を行うこと、いわゆる「張付け特攻」には一定の勝算を見出していた。
 「張付け特攻」部隊として、九州を拠点とする陸軍の航空部隊である第6航空軍(菅原道大司令官)から9個隊が沖縄へ配備される予定であったが、当該部隊の沖縄派遣は遅延していた。このため第32軍は、台湾の第10方面軍に対し兵力増強とともに第10方面軍隷下の第8飛行師団から航空特攻部隊を沖縄へ派遣するよう要請したが、第10方面軍はこの日、航空特攻部隊はあくまで第6航空軍から派遣される旨を返電したのみであった。
 一方で、このころ第6航空軍からの航空特攻部隊の沖縄派遣は、4月末ごろになると連絡があった。3月末から4月初頭には米軍が上陸するものと予想していた第32軍にとって、これによって事実上「張付け特攻」作戦は不可能となったのであり、ある意味では「張付け特攻」の拒否の返電ともいえる。沖縄はまた一つ「見捨てられた島」となっていった。

ところが問題はその[張り付け特攻機の─引用者註]展開時機であった。特攻機が沖縄に到着するのは四月より五月にかかるというのだ。敵の沖縄進攻の時機は、上下一致して三月末ないし四月上旬と判断している。これでは理屈に合わず、間に合わぬ。しかもその指揮機関は沖縄に進出せず、軍の航空参謀に一任することになっている。計画の文面が、いかにもいやいやながら特攻機を沖縄に派遣するように見られる。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

伊江島飛行場および北・中飛行場の破壊

 こうした状況のなかで、第32軍はこの日、大きな決断をする。沖縄に航空部隊が配備されないのであれば、これまで第32軍が全精力を傾けて建設してきた沖縄の各飛行場はもはや不要であり、戦力の面からその防衛もままならない以上、飛行場を破壊し使用不可能とするというものである。
 1944年の第32軍の沖縄配備以来、第32軍の最重要任務は飛行場建設であった。沖縄は、サイパン方面への前進基地として、あるいはレイテ決戦に関連しフィリピンへの前進基地と位置づけられ、東洋一と称される伊江島飛行場や北飛行場(読谷山)、中飛行場(嘉手納)など多くの飛行場が建設され、第32軍は沖縄住民を動員し飛行場建設に従事した。
 ところが、レイテ決戦が敗北に終わり、本土決戦が必至となると、沖縄は本土決戦のための「捨て石」と位置づけられる。当然、沖縄の飛行場は「張付け特攻」はじめ陸海軍の航空部隊が沖縄戦において使用するものとなるが、肝心の航空部隊が沖縄に派遣されず、なおかつ地上兵力も不足し飛行場防衛が難しいのであれば、飛行場を速やかに破壊し使用不可能としなければならない。そうでなければ敵手に落ち、建設した飛行場が逆に米軍による本土爆撃や本土上陸の拠点として使用されるからである。
 このため第32軍はこの日、伊江島飛行場および北・中飛行場の破壊を決断し、大本営に意見具申した(第32軍八原高級参謀の回顧によると、飛行場破壊の意見具申は3月10日となっており、多少日にちのずれがある)。

 私はこのとき[張り付け特攻が事実上拒否された時─引用者註]、全身感電したような衝撃を受けた。張りつけ特攻機案は、絵にかいた餅に過ぎぬ。現実に合わぬ空論だ。特攻機の来着が時機を失するとせば、東洋一を誇る伊江島の大飛行場も、北、中飛行場も、日本空軍にとってはもはや無用、否有害な長物だ。私は即座に筆をとって、これら飛行場を直ちに大規模徹底的に破壊するよう電文案を認め、軍司令官の決裁を得て、中央に意見具申をした。

(八原上掲書)

 後日、大本営は伊江島飛行場の破壊命令を出すが、北・中飛行場の破壊命令は出されなかった。このあたりに軍中央と現地軍の認識の食い違いが見える。
 しかし、こうした破壊された沖縄の各飛行場も結局、沖縄戦において米軍により制圧された上で速やかに修復・整備され、本土爆撃の基地として使用された。

「国士隊」結成準備幹部会議

 この日、名護町の翼賛会メンバー幸地新松宅において、国頭支隊特務機関「国士隊」の設置のための準備幹部会が開催された。出席者は、国頭支隊より2人、幸地を含め翼賛会メンバーの住民16人の計18人。支隊側から国士隊の趣旨の説明があり、その後に住民との質疑応答などがおこなわれた。その際の議事録などがまとめられ、翌々日10日に国頭支隊長に「特務機関設置準備幹部会開催状況ノ件」として報告されている。
 国士隊は、主に軍命令や戦意高揚の情報の宣伝、スパイの調査や捜索、摘発をおこなう諜報、あるいは住民の流言発生を戒めたり軍事機密の漏洩を防止する防諜、そして敵陣への奇襲などの謀略を任務とするものであり、まさに秘密戦部隊であった。
 国頭支隊から国士隊への細部指示事項を見ると、特に期待されたのは諜報のようであり、住民の日常の言動や動向を監視し、スパイかどうか、軍に協力する意志があるかどうか秘密裏に調査・捜索することが求められた。そのために有効なのは、軍服を来た軍人による監視よりも住民同士の相互監視であることはいうまでもなく、そうした見地から国士隊のメンバーは軍人ではなく地域有力者の住民が選ばれたと考えられる。
 なお、この日の準備幹部会において国士隊として集められた者のなかに仲宗根源和がいる。仲宗根は、このころは県議会議員や翼賛会メンバーであったが、青年時代は共産党に入党し検挙歴もあった。国頭支隊側はそれを把握しており、その上で国士隊に引き入れることについて、

仲宗根源和ハ元日本共産党ニ関連シ相当深刻ナル左翼的イデオロギーノ抱持者ナルモ現在ハ斯種運動ヨリ遠ザカレル者ニシテムシロ本人ノ感激心唆リタラバ予期以上ノ成果ヲ収ムルニハ非ズヤト思料セラル

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

と観察している。「本人ノ感激心唆リタラバ予期以上ノ成果ヲ収ムルニハ非ズヤ」との一節には、住民の思想動向や経歴を踏まえ、冷酷冷徹に「道具」として利用するためにはどうしたらいいかを考えている軍人の住民観があらわれている。
 また国士隊メンバーには、さらにそこから住民内部で手や足や耳となる頼れる協力者の獲得が求められていたようで、住民が慌てて「相当同志ヲ獲得スル様ニ急ガネバナラナイ」というと、国頭支隊の軍人が「線獲得ニ付テハ細心ノ注意ヲ要スル、量ヨリモ質デアル」と返答している。協力者を「同志」という住民に対し、「線」との隠語で表現する軍人、そしてその「線」の獲得には注意を要し、量よりも質だという軍人を比較すると、何か本当に恐ろしい力が住民の上にうずまいていたのだと痛感される。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・林博史『沖縄からの本土爆撃 米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館)
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6

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破壊された伊江島飛行場 滑走路に掘られた大きな溝がいくつも確認できる:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦より