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山頭火

 獺祭を期待していたのだが、ああいう商用の酒は寧ろ東京のほうがよく置いてあるということを当時は知らなかった。山口湯田は温泉街ということで立ち寄ったわけだが、とくにそれらしい記憶はない。駅舎の前に大きな徳利があったように憶えていたが、後で知ったには白いキツネのオブジェであったらしいから、ほんに狐につままれた気分である。汽車が駅に着いたのは時計が十九時を打ってからしばらく経った頃だったと思う。朝米子を発ってから出雲、益田を周ってここだ。尻の痛みに閉口していたのにつけて、宿の場所がわからず、連れ合いにせっつかれ気が立ったのを覚えている。

 駅から寂しい通りを暫く行くと、国道だか県道だかが走っていて、とうとう温泉街だということを忘れさせる。車の賑わいはあったが、別段面白くもない町だと思った。きっと夜に着いたのがよくなかった。

 宿で荷物を置いて、一服ついたのもそこそこに、連れ合いを残して飲み屋街に繰り出した。例のごとく屋号は覚えていない。若い学生風の男にカウンターの奥に通された。後ろの座敷には客がなかったように思う。そのへりに、店の婆婆がひとりちょこんと腰掛けていただけだった。
 麦酒を頼んでおすすめを聞くと、エイかなにかの煮こごりを出されたのだが、これがいけなかった。どうにも生臭くってかなわない。学生の気の利かないのに苛々しながらさっさと麦酒で流しこんだ。

 「燗はなにが出来る」と聞くと、出されたのが「山頭火」だった。その後のことは憶えていない。どうやら店でひっくり返って、件の学生に宿まで送ってもらったようである。まったく迷惑な話だ。 

 前置きがだらだらと長くなったが、書こうと思ったのは種田山頭火その人の話である。「山頭火」の感想は書くまい。酒を語る言葉を知らないのである。いや、どうだろう、酒はちゃんと種田山頭火という人を語っていたのかも知れない。

 山頭火は明治の生まれで、昭和の始めに死んだ。商家の生まれだったが、彼が大学を病気で辞める頃には随分と経営が傾いていた。当の山頭火も古書なんぞ商ってはみたが、商才も商魂も最後まで無かったようだ。

 自由律俳句で有名なこの稀代の詩人は、自らの詩を託した親友にさえ、その胸中を語ることはしなかったという。酒に酔って死にかけて、ツテで出家し、堂守なんぞもやったが、その最期は殆ど乞食同然の暮らしであった。
 大の酒好きで知られ、彼曰く、泥酔に至る道筋は、「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」という具合であったらしい。

 大酒飲みにもいろいろと理由があるもので、大体はなにかから逃れようとか、忘れようとかそういう事情がある。だが、その酒飲みの中にもいろいろといるもので、それで本当にやたらとどこかに忘れてくる手合と、ちっともそうでない連中とがいる。山頭火は後者だろう。

 無頼だの自然児だの評されることが多いが、彼の詩についてのみ言えば、寧ろ徹底した自意識の所産であるように見える。

酒!あゝ酒のためだ、酒が悪いのではない、私が善くないのだ、酒に飲まれるほど弱い私よ、呪はれてあれ!

種田山頭火『其中日記』

 徹底した自意識は、酒に飲まれることを許さない。尤も身体の方ではそれなりに飲まれて「どろどろ」になるわけだが、意識の方は寧ろ鮮明に映じてさえくるときがある。彼の“悲しみ”と“孤独”は、どうにも折り合わぬものとして、彼を覆い、彼を離さなかったろうと思うのである。 

 現代人にとって山頭火はどう映るだろうか。「ひとり」であることを望みながらにして「孤独」である我々にとって、この漂白の詩人は、単に共感の種であろうか。


ほろほろ酔うて木の葉ふる

種田山頭火 詩集より 

 屹度山頭火は笑っていよう。

 何をか?
  ー 「我々の懈怠を」である。
 

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