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道具について。

掲題に関し、我々は誠に残念な一つの結論に達する。

我々は道具を自在に使えているようで、実は道具に従って行動しているに過ぎないということである。

つまり、道具を支配しているようで、実は道具に支配されている

1.スマホに支配されている。

我々はスマホを自分の思い通りに操作していると考えている。好きなように自分を発信し、動画や音楽を思い通りに楽しめ、さらには欲しいものや目的地を直ぐに検索できる非常な便利な道具と考えている。

いや、本当にそうだろうか。むしろ、スマホのできることに我々は興味を縮小させていないだろうか。スマホによって行動が制限されてしまってはいなだろうか。

これまでは、道端や狭い路地裏などで偶然美味しい小料理屋を見つける楽しみがあったが、今は料理店の星の数だけに誘導されて店を選んでいるようで選ばされているような感覚に陥る。

amazonの勧めてくるものは便利さより浪費を誘導してくる。今月から貯金しよう、という強固な意志は直ぐにスマホに打ち砕かれてしまう。何かを始めようとしても、SNSの通知音に邪魔される。もう、見ているのではなく、見させられている買いたいではなく、買わせられている必要でない必要を人間は背負ってしまった。

2.言葉に支配されている

日常的に我々は思考するために「言葉」を自分の思い通りに使っていると感じている。ところが、実は「言葉」には既に意味が含有されていることを忘れてはいけない。その意味を大幅に越えて思考することはできない、ということである。結局のところ、思考は言葉の意味から束縛を受けることになる。ここでいう意味とは例えば個人の経験であり、また或るときは組織がその言葉に期待した意図である。さすればいずれにしても「言葉」を使うことは、則ちその「言葉」を生み出した者や使い方を教えてくれる者に従って思考することになる。

組織がその言葉に期待した意図というのは非常に厄介である。例えば、スローガンや標語そうしたものは頭にこべりついてしまうと、何事もそれらで説明できた気になってしまう。終いには、方法である標語・スローガンは目的化し、事故が起きる、これは言葉に支配された者の愚かな末路である。標語・スローガンで全ての善を語れるわけではない。さらには、善と悪は表裏一体である。ある行為をすれば、ある者は喜び、他方である者が悲しむことを忘れてはならない

また、「言葉」そのものに違和感を覚えても、時間が経ち、その「言葉」に慣れてしまうと、それなしでは思考できなくなり、さらに思考は新しいものが生み出せなくなるという現象も頻繁に起こる。新しいものを生み出せていないようではそれは思考ではない。偽思考なのである。

3.情報に支配されている

我々は自らの確からしさを「情報」を使って示す。ここで「情報」といっているのは爵位、学歴、出身地、母語などに限らず、自らの主張の根拠である「データ」などもそうである。さて、我々は好き放題に情報を受け取り自らの勝手で思惟したり新しいものを創作していると感じている。が、それは本当であろうか。まず、こうした情報に関しても情報を流した本丸があるということを忘れてはいけない。

情報を操作している者の意図により自らの確からしさも決まってしまうとすれば、それは自らの確からしさを自らの不確かさによって示していることにならないか。

最近は「それって根拠があるんですか」「それってデータがあるんですか」などという論破もどきが流行しているが、根拠やデータがあれば確かな情報といえるのだろうか。根拠やデータを作成した本丸に関しては何ら疑わなくてよいのだろうか。本丸が権威のあるところだとして、権威があれば信用に足るといえるのだろうか。さらにいえば、根拠やデータがあるからそれが確かだとして、それらだけで本当に充分な議論をしているのだろうか。論理より先に直観が先立つことを忘れてはならない。高々数千年で発達してきた理性も馬鹿にはできないが、何万年で培ってきた本能に関して無視するのはあまりに無念なことではあるまいか。

我々は道具を使うことに慣れてきた。慣れてきた我々に求められるのは敢えて捨てて自由になることかもしれない。多少の暴力性は含まれているが破壊と創造とは紙一重である。

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