教育について。

昔は教育に携わる者としてどの様に教えるのが正解かということをよく考えた。教える方が相対主義者になって「色んな教え方があり、俺の教え方も正解の一つなんだ。」などと自己満足極まりない教え方をされれば、教わる方はひとたまりもない。

教育(educate)の語源を調べると、外に(e)引き出す(ducere)のが教育であるとされている。ただ知識を提供するのではなく、生徒の中にある潜在能力を引き出すのが教育であるというのは古今東西で語られている。

例えば、中期哲学において「想起(パイドン)」するのが学習とされていた。皆に元々イデアが備わっていて、現世のあらゆるものに触れる中で「完全なるもの」が想起されていく。それが学ぶということであると。デカルトも良識や判断力は使うかどうかは別にして、元々皆に備わっているとしていた。禅問答においても、黄檗が「禅無しとは道わず、只だ是れ師無し。(禅が無いのではない。師匠なんてものがいないのだ。)」と同様のことを言っている。教える、という他動詞は一見「する方」と「される方」に分かれてしまうが実際は教わる方の中にあるものを引き出せすのが教育だ。「能力は元々備わっていてそれを引き出すのが教育なのだ」という事実がそれこそ想起されるわけである。

  話を逸らすとそこに教育の限界があるとも言える。元々、中にあるものしか引き出せない。中にないものはどうしても教えるのが難しいということが実際問題としてある。例えば、本質的に難しいものは「簡単に教える」よりは難しいものそのままとして理解してもらうしかない。内容は勝手に変えてはいけない。あることを教えるときは最初は教わる本人の経験と照らし合わせてもよいけれど、最後には本質を理解してもらわなくては意味がない。そういう意味で難しいものを簡単に説明するというのは無理な話だ。簡単に説明してしまえば、内容が変わってしまう。難しいものは難しい。が、何度も触れることで、それを新しい自分に取り入れていく。教師のなすことは簡単に説明することではなくて、最初の導入から最後の本質を理解するまで付き合うこと、それに尽きる。それは教師の仕事は伝達ではなくて、生徒に向き合うことだということ。今では大学入試のためなどに色んな解説書や参考書が巷で溢れているけど、全て難しいものを簡単に理解しようというものばかり。最初はそれでいいのだが、最後のゴールは難しい本質を身に付けるということであるから、そうしたものを解説する書が少ないこと、また、そうした解説書が好まれない現代を何とも残念に思う。

教育とは詰まるところ、各人に合わせ、各人に似合う服(考え方や思考術)を身に付けさせてあげることなのだと直ちに納得させられるわけである。ところがどうだろう。実際の教育現場では人間に服を合わせるどころか、制服に人間を合わせにいっている。そして、制服に合わせることのできない人間は忽ち社会の廃棄物とみなされ、生きていく場を失っている。服を着せられる人間は息がしづらいにも関わらず、喜んで着るふりをするものだから、ますます教育する方はつけあがる。 

学校での、教育とかけ離れた無駄な時間の過ごさせ方ときたら。睡眠時間を削り読書時間を増やして、脳を虐待する行為が朝から強要される。次いで、寒い空の下、やりたくもないのに体操なるもので体まで疲労たっぷり。昼食には、平均的に栄養が満点とされる味も彩りもない餌を食べさせられ、その後は掃除をさせられる。小、中学校は教育どころか奴隷の収容所と化しているわけである。学生が不登校になる理由もわからんでもない。そして、たちが悪いことに教師はそんな学生生活を送れることに「感謝」を要求する。

そもそも、こんな風になったのは何故か。まず、第一、絶対的に良いとする教育をあるとしたこと。次に第二、効率を考え、第一の考え方を推し進め、教育を制度化したこと。第三、制度化された教育によく適応できた「奴隷たち」が次世代の教育者になっていったこと。

第三が最もひどい。奴隷たちがまた次世代の奴隷に合うような教育を考えるわけだから、教育は何も変わらないし、失敗は繰り返されるわけである。

そもそも、数学、英語、国語、理科、社会で世の中の全てが分かる筈はない。五教科を理解できたら幸せになれるわけでもない。それぞれ考え方の一つではあるけれど、万事を語り尽くしているとは言えない。教科書も「教育奴隷」がつくり、適度に「奴隷化」された親が「勉強をしろ」と意味不明な命令をしてくる。子供の方はたまったもんではない。

  極論だが、恋愛専門家や薬中のような人間も先生で良いではないか。人間には色んな人間、色んな生き方があることを生身で教えやる。そして、生徒に本当にあった生き方を想起してもらう。先生を神とするような教育では一生教育奴隷からは抜け出せない。鬱病になって教師を辞めている人たちの現状を看過できない。彼らには荷が重すぎた。そして、現に、不登校問題、モンスターペアレンツ問題等、今の教育には行き詰まりを感じる。これは今まで奴隷化を我慢してきた人間たちの一向一揆である。

そんな一向一揆には真っ向から勝負できる筈もなく、教育奴隷の一員であった私は教育からは足を洗い、しがない保険屋さんになる決意をしたわけである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?