【読書雑記】加藤周一『文学とはなにか』を読んでぼんやり考えたこと
中年のおじさんになっても「ブンガク」という響きに魅せられて、大きな価値を見出して、読書を続けています
しかし文学とか小説といった類はやはり不毛な行為と考えられていることが少なくないです
これはパフォーマンス至上主義と言っていいような費用対効果を気にする近年の価値観が背後にあるように感じています。
科学が客観性に優れているからとか、発明を産んでいるから素晴らしいのではなく、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンス(タイパ!)が働くような技術を産むから選ばれるように、パフォーマンスの高いものが尊ばれる
当然ながらなんらパフォーマンスを産まない文系的要素は価値の低いものとみなされることが多いです
大学生になった時に、左翼がかった先輩に激推しされたエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を学校で持っていたら、いわゆるリア充側の友達に「自由から逃げんのかよ!w」と盛大に笑われたのをいまだに覚えてます。
僕も一緒にゲラゲラ笑ってましたし、今考えれば確かに突っ込み甲斐ある状況ではあるのですが、当時は心の中でそう見られるのか、と冷静に考えていました
大昔には、知識人と呼ばれるような評論家がたくさんいて、その言葉は重く権威をもつ時代があったはずです
文学をやっている人も「先生」と呼ばれていた時期も長かったと思います
なにもかもが相対化されがちの現代ではこういった意味づけは全て化けの皮が剥がされてしまったように取り払われて、フラットな世界に変化しているといわれることがあります
最近はさらに多様化が進んでいるので、フラットというより、尖ったものが優劣なく刺々しく共存しているような状況かもしれません
そんな今だから、価値を改めて感じようと、本書をてにとってみました
知識人の代名詞のような著書が書いた本書を読んで改めて文学に関するヒントをもらいます
著者は、すでに「文学が価値ある」という前提を疑う様子は全くありませんが、つぎような説明をしています
「体験」を切り口とした説明がわかりやすく、そしてここまではっきり価値を謳っていて心地が良いです
「文学」は作家が体験を語っており、科学のような抽象化された無味乾燥のものではなく、個別具体的に「反復されない一回性」をもった体験として語られます
『失われた時を求めて』のマドレーヌは、科学的には一つのお菓子でしかないが、作家にとっては無限に膨らむ無意識的記憶へつながるわけです
科学的な説明や法則性で人間を説明するのは、とても興味深いことです。心理学のルールや統計などはその類でしょう
しかしルールを逸脱してしまうような特異性やオリジナリティが人間の面白さを教えてくれるものではないかと思っています
わかりやすく文学の価値を語ってくれる本書は、読書好きには頼もしい言葉が多いです
加藤周一は医学という理系の最たる分野の専門家でかつ文学の批評をおこなったスーパー文化人で、本書も理路整然とした構成となっており、とても読みやすい本です。
理路整然としすぎて、途中からは各テーマ単位の論述(ヨーロッパはどうだ、とか日本の文化はどうだ、とか)が少々退屈しますが、そこを飛ばしてしまえば、あっという間に読み終えられます
特におすすめはしませんが、今なら(7月4日現在)Kindle Unlimitedで読めます。
たまには少し距離をとって考えることも悪くないですね
雑記らしく最後に少し脱線します
AIは描いた文学が少し前に話題になりましたが、今回出てきた「体験」や「一回性」など、言葉から溢れるような余剰は、AIにはないはずです
その意味でこういった定義では説明しきれない範囲になるでしょう
しかしAIが学ぶ過去の作品や人間の溢れる感情は、本人の手を離れてなお独立して文学性を有しているのかも知れません
その意味でAIの文学性を肯定する人こそ、文学の力を信じているのかもしれない、そんなことをぼんやりと考えました
昔の知識人に
AIの文学どうですかね?と聞けたら楽しそうですが、その前提が説明できなくて諦めそうだななんて感じています(文系つらい)
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