![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/81456173/rectangle_large_type_2_1b85ebc97dcb080026586d772d231ab2.png?width=1200)
【読書】日本純文学リベンジ その13 森鷗外『かのように』
鷗外コンプレックス
あるあるすぎて恥ずかしいのですが『舞姫』を読んで森鷗外から目を逸らしていた口です。
文京区に住んでいた頃、鷗外の旧居跡にできた区立図書館に行ったり、水月ホテル鴎外荘(いつの間にか営業再開してるようですね)で宴会したりなど、鷗外への興味は強かったのですが、なかなか読むには至りませんでした。
『高瀬舟』も個人的にはよくなかったように思います。
理解はできるのだけど、登場人物が生き生きと頭の中に再生される夏目漱石とは違って寓話的なような感触がありました。
夏目漱石という与党に安心しきって世の中を任せていたような惰性がここにはあります。
リベンジすべきは『舞姫』、『高瀬舟』なのでしょうが、大昔受験問題で森鷗外が出題されて感動した記憶があり、その作品を探して再度読みたくなりました。それが「かのように」です。
「かのように」あらすじと背景
「かのように」が書かれた背景として、当時流行っていた社会主義を抑えるために山縣有朋から森鷗外に頼んだ、というようなことが、色々なところでまことしやかに書かれています。
学術論文とかは読んでないですが、インターネットをサーフィンする程度だと、そういった背景もあって、日本の神話と天皇制に切り込んだ作品、という読み方が多いようでした。
個人的にはそういった背景を知ることは必須であるとは思いますが、それに囚われるとテキストの解釈が単一的になってしまうので、もっと敷衍して自由に読み替えて良いのではないか、と思っています。
本編自体は、ささっと読める短編で、ストーリーも大きな展開があるわけでもないのですが、ぎちぎちに濃密な抽象的な思考の語りが大半を占めています。
あらすじを要約してしまうと、お金持ちで頭の良い主人公がヨーロッパに留学し、色々勉強をして当時の日本の在り方(父親も)に対して疑問をもつ。
帰ってきて、ドライな友達に想いをぶつけてみるが、理解は得られない。父親とも完全な相互理解に至れない。
そんな程度のストーリーです。
しかし中身が良くも悪くも小説的でないくらいに哲学対話が繰り返されていて、難しすぎはしないけれど示唆に富む内容です。
かのように、の哲学
作中にもでてくるように、元々はヨーロッパで流行した書籍がテーマとなっています。
※ ハンス・ファイヒンガー『かのようにの哲学(Die Philosophie des Als Ob)』
数学は純粋な円や三角形など図形が描けることを前提にして成り立っています。
しかし純粋な線、点は物理的には表現できません。
数学はそれがあたかも存在する【かのように】振る舞うことで公理や公式を生み出すことができました。
これは宗教や神話なども同じで、神様は我々には認知することはできませんが、存在する若しくはかつて在った【かのように】考えることで成立します。
この神や三角形などの実際は認知できない純粋な概念を古代ギリシャでは「イデア」と言われたり、近代ドイツでは「物自体」と言われたものだと理解しています。
証明はできない、さらには論じることもできない、そんな前提なわけです。
ネタ本を直接読めていませんので分かりませんが、思考の体系をあたかも実在する【かのように】考えることが「かのようにの哲学」というようです。(原著は翻訳もされておらず、再度価値を見直す機運はあるようですが、基本的に現在学術的に評価はされていないもののようです。)
鷗外は、教育がなくて盲信的に存在を信じているのとは違う、と言います。他方でただ宗教を否定するのも危険思想と喝破します。
それらと違って、理性的に認知できないことを理解した上で、存在する「かのように」振る舞うことがドイツの強さだと、作中で語らせています。
先の日本の問題に戻すならば、歴史という事実の部分と神話という事実がわからない部分を切り分けるのか、共に扱うのか、ひいてはそれが天皇制、権威の問題に繋がっていくわけです。
ただ私としては、モダンの課題というより、ポストモダンな問題に読み替えられるようにも感じました。
二元論を乗り越えようとする試みのようにも解釈できると思います。
先の背景にあった山縣有朋の要請に適した小説だったのかはよくわかりません。
森鷗外の印象
森鷗外は頭が良過ぎるというか、理系的な理路整然とした側面が強いので、哲学的なことをしっかり語らせるとしっくりくるなという感覚があります。
20歳くらいに読んだ時は、森鷗外の作品が読めたことと、この作品の深さに感動した記憶が残ってます。「かのように」というのがゴリゴリの学術的な響きとは違ってなんともカッコいいです。
今も読み返してみると、同様の感覚ではありますが、小説を楽しむというより、やはり寓話的で引用しやすかったり、思索の補助線としての作品として自分は評価しているように感じます。
まだまだ歴史小説も含めて多くの森鷗外は読めていません。
これからもう少し理解を深めて色々な作品に触れてリベンジしたいと思います。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?