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06. 北海道の遊廓考~40か所もあった遊廓はいったいどこへ消えたのか

あなたが今住んでいる土地の、昔の姿を知っているだろうか。土地の記憶は、人が忘れても、土地自身が、そして地図が覚えている。

「遊郭」「遊廓」と言えば吉原が有名だが、全国津々浦々人が集まるところに存在していたことは一般的に知られていない。売春防止法が施行されてから半世紀以上が経過した今、地域の歴史から「遊廓」「赤線」は消され、建物の老朽化もあり、かつての姿を知ることは難しくなってきている。特に、明治期に本格的な開拓が始まった北海道では、遊廓の存在した年月が本州と比べて短いため、地域経済に完全に食い込む前に姿を消してしまった遊郭が少なくない。このnoteは、人の記憶から消えた場所のサルベージである。

『全国遊郭案内』日本遊覧社 昭和5年 

(国会図書館蔵 デジタル資料より)

①北海道地方 函館本線付近の部

・函館市大森町遊廓・江差町遊廓・森町遊廓・寿都町遊廓・岩内町薄田遊廓
・小樽南仲桝遊廓・小樽市梅ヶ枝町(北)遊廓・札幌白石遊廓・江別町遊廓・岩見澤町遊廓・歌志内町遊廓・瀧川町遊廓・浜益村茂生遊廓・深川町花園遊廓・留萌町遊廓・鷲泊村遊廓・香深村遊廓・虻田郡田村遊廓・増毛町遊廓・羽幌村遊廓・旭川市中島遊廓・旭川市曙遊廓・室蘭市遊廓・幌泉村遊廓・苫小牧遊廓・浦川町遊廓・帯廣町遊廓・廣尾遊廓 計28か所

②北海道地方 根室本線

・釧路市米町遊廓・厚岸町遊廓郭・標津港遊廓・根室遊廓 計4か所

③宗谷線 其の外

・枝幸村遊廓・稚内遊廓・船泊港遊廓・瀬棚町遊廓・静内村(下下方)遊廓・古平町遊廓・石狩町遊廓 計7か所

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◆北海道における遊廓の成立場所の分類
1.ニシン漁場(枝幸・森・寿都・岩内・浜益・留萌・増毛・羽幌等)
2.松前藩以来の漁場(幌泉・浦川・廣尾・厚岸・標津・根室・枝幸等)
3.炭鉱町と石炭集積地(歌志内・瀧川・深川・釧路)
4.鉄道開通に伴い発展した商業地(小樽・岩見沢・室蘭・苫小牧)
5.屯田兵入植による開拓地(旭川・江別)

明治33年に定められた貸座敷免許地の新設条件に「付近に貸座敷免許地がないため新設の必要がある」という表現があるが、明治以降の北海道では、一次産業の勃興と開拓の進行により、新しい街が次々と形成されていった。そのため、上記のような遊廓の設置条件を満たす街が雪だるま式に増えていった。結果として、遊廓設置のハードルは内地に比べて格段に低くなり、昭和5年時点で40近くもの遊郭が認識される、いわば"乱立地"となっていった。

この様に、最盛期には40近く存在していた北海道の遊郭地区だが、現代までその名残をとどめている例はほとんどない。道内で大規模な遊郭であった札幌白石・小樽梅ヶ枝・旭川中島・釧路米町は、現在までに遊郭の痕跡はほとんど消え失せ、住宅地に埋没している。

◆札幌 白石遊廓の今昔

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例として、札幌白石遊廓地区を紹介する。白石遊廓は大正9(1920)年に、薄野地区から白石村(当時)に移転してきた遊廓だ。昭和18(1943)年に戦況悪化のあおりを受け、休業状態に。その後、進駐軍相手に数件が営業を開始するも賑いは戻らず、昭和26(1951)年に札幌市が制定した「風俗取締条例」と売春防止法の施行を受けて正式に廃止となった。妓楼建築は昭和末期まで1件残っていたが、現在はすべて取り壊されている。

上記は、昭和33年頃の地図である。すでに廃業してはいるものの、妓楼特有の奥に長い建物が、幅の広い大通りに面して並んでいることがはっきりと見て取れる。また、周囲の街並みと明らかに異なる区割となっていることも分かる。中央の広い通りは、かつて大門通と呼ばれていた。その名の示す通り、遊廓の大門に通じる通りだったからだ。現在はその通りの名は廃されている。

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最新の旧札幌白石遊廓地区。独特の区割りや道路幅はそのまま残っているものの、近代的な街並みとなっていることが分かる。ちなみに大型の建物の多くは医療機関で、風俗店はない。しかし、街にを妓楼を囲うように割られた細い地区には、個人商店や米屋・酒屋などがいまでも残っており、当時の雰囲気を伝えている。また、昭和5年創業の銭湯と、敷地角(地図中右上、木立に囲まれた公園)にひっそりと佇む神社は、この地区に遊廓があったことを明確に残す標となっている。

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◆北海道の「遊廓地」はなぜ消えたのか

遊廓という存在が「法的」に廃止されたのは、昭和21年~22年にかけてである。GHQおよび占領下日本政府は「娼妓取締規則」(=公娼制度)を名目上廃止したが、赤線地帯(特飲街、私娼・街娼許容地域)は半ば公認される形で放置されていた。昭和33年4月、売春防止法の施行に伴い、業として売春を行うことが刑事罰の対象となった事で赤線が実態として廃止される。

本州の旧遊郭地区・赤線地区が、売防法後も風俗営業地区として残っていった一方で、北海道ではそのほとんどが遊廓とは無縁の「普通の土地」になっていった理由については、主として以下のような点が指摘できるだろう。

1.存在した年月の短さ
2.高度経済成長期における市街地の急速な宅地化
3.ニシン漁獲量の激減(日本海沿岸部)

なかでも、2の理由が最も大きかったと考えられる。白石遊廓は、当初開拓使はじめ公官庁が多くあった札幌中心部から豊平川を渡った「農村(果樹園)地帯」に移設された。当初は「辺鄙な土地」だったが、人口の急増により周辺の宅地化が急速に進んでいく。昭和初期の時点では、遊廓の南側にはまだ田畑が広がっているものの、住宅が建ち始めていることも見て取れる。遊廓廃止後の土地活用については議論があったのだろうが、昭和27(1952)年に国立病院(現:北海道ガンセンター)が近隣に移転してきたことで開発が一気に進んでいる。時を同じくして市立助産院も開業、のちに勤医協も建てられ一大医療地区として現在に至っている。「不要となった建物が多い再開発がしやすい土地」であった旧遊廓地区が、高度経済成長期、都市の肥大化が要求する施設へ土地を提供する流れこそが、北海道の遊廓地区消滅の理由であり、特色と言えるのではないだろうか。

◆おわりに

今回は、北海道最大の都市札幌を例に北海道内の旧遊廓地区について見てきた。しかし、成立過程や地域が異なればまた消滅の過程もさまざまであり、特に小規模な街(特にニシン場)では町割りすら消滅し痕跡を辿ることすら困難な場合もある。指摘を待つまでもなく、遊廓・赤線は「不要な」都市機能だ。しかし、負の歴史であっても存在した以上は社会構造と無縁ではない。その足跡をたどることで見えてくる人々の営み抜きに、地域の歩みは語れないのではないだろうか。

店主敬白

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