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ケレイブ・エヴェレット『数の発明』読んだ

この本を読んだのはもう1年前なのか、、、この本を読んだのは数字とか統計に対して感じる胡散臭さからであった。

そのもやもや感はいまだに解消されない。またサピエンスの脳は数をうまく処理できないのだが、それについてもっと詳しく知りたいと思っていた。

そんなわけで本屋で見かけたこの本を読んでみたのだ。またみすず書房だ。

著者毛レイブ・エベレットは言語学者であり、宣教師だった父ダニエルについて幼少期にアマゾンのピダハン族とともに暮らしたことがある。

ピダハン族は3より大きい数を表す言葉をもたない。世界にはいくつかこうした部族があり、数の起源を研究する上で大きな手がかりを与えてくれる。


本の内容はだいたい以下のとおり。

話はまず10進法から。1日24時間とか1時間60分などの例外は多くあるものの、ほとんどの文化でまとまった数は5、10、20であることが多い。おそらく1つの手や足の指が5本であること、両手で10本、両手両足なら20本だからだろう。

しかし5とか10とか20を数えられるのは当たり前のことではない。

どんな民族でも赤ん坊でも、きっちり数を感覚を持ち合わせているが、生得的なのは3までである。ピダハンのような多くの数を数える文化をもたいない人々は4以上のものを認識するのに齟齬をきたすことが示されている。
(当たり前だがピダハン族が認知能力に劣っているわけではない。アマゾンで何百年も生き延びてきたのだ)

一方でサピエンスは、ざっくり数を把握する感覚も持っている。ピダハンのような人々でも8と16なら16のほうが多いと認識できる。この感覚は多くの動物ももっている。

つまりきっちり数えられる感覚をより大きな量まで拡張するには、あるいはきっちり感覚とざっくり感覚が接続されるのは、言葉や数学のような文化の助けがいる。

数を数える文化はおおむね農耕定住社会と相関している。余剰生産物が数学や会計を必要としたというのは間違いなさそうだ。遺伝的素因の関与はさほど大きいとは思われない。


以下、感想。

数学的能力は後天的素因も大きいと思われ、幼児期からの継続的教育でかなり改善できるような気がした。

本書には人間には数をざっくり把握する感覚はみなに備わっているとあるが、それには上限があるのではなかろうか。
ある一定以上の数になると、数字としては認識できても、実感をともなった量として把握できないのではないか。

例えばビル・ゲイツの年収が1兆円といわれても意味がわからないだろう。大谷翔平の年俸よりはだいぶ多いくらいのことはわかるが。

あるいはもっと少ない数。日本では毎年約130万人が亡くなっていると頭ではわかっているが、実感としてはよくわからない。新型コロナウイルスで数千人とか何万人亡くなったという話のほうにショックを受けてしまいがちである。もっとも千や万のオーダーでも具体的に認識できているというわけでもないだろうが。

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