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【表現研】「仮面ライダークウガ」における徹底されたリアリティーと隠された理想

※この記事にはネタバレが含まれています.ご注意ください.

序文

「平成」という元号が,天皇陛下の生前退位という形で幕を閉じ,それに伴って「平成ライダー」という一つの歴史も幕を閉じた.

20年紡がれてきた平成ライダーの歴史を知っている我々が今,改めてその始祖である「仮面ライダークウガ」を視聴し,評論することには何かしらの意味があるだろう.

ここでは現在放送中の仮面ライダーゼロワンと仮面ライダークウガを安易に比較することはせず,「2020年という時代に仮面ライダークウガのような作品を制作することは可能なのか」について,「技術」「商業」「物語」の三つの観点から論じることで,20年の月日で仮面ライダーというブランドがどのように変容したのかを概観することにしたい.

技術

少しだけ自分語りをすると,私は2008年に放送を開始した「仮面ライダーキバ」で仮面ライダーデビューし(当時6歳),その後熱心ではないが起きられれば視聴するといった形で,2012年に放送を開始した「仮面ライダーウィザード」まで一応は見ていた(ベルトなどを買う意欲はなかった).

その後は周りの仮面ライダー離れもあり,二年前まで仮面ライダーというコンテンツからは完全に距離をとっていた.(この二年間で私は少年期以上に平成ライダーにどハマりし,30000円以上する仮面ライダーの変身ベルトを人生初のバイト代で買うまでになるが,なぜそうなったのかはまた別の機会に話すことにしよう.)

そんな仮面ライダー人生を送ってきた私にとって,デフォルトの特撮技術水準は少なくとも2008年以降のものであり,正直な感想を言うとクウガに使われている特撮技術を最初に見たときは「強烈な時代感」を感じた.変身エフェクトは明らかに違和感のあるものであるし,敵が弾丸を跳ね返す描写などもチープに感じた.

だが当然のことながらこれは目の肥えた現代人としての感想であり,当時の子供達や制作スタッフにとっては最先端の技術であったことは間違いないし,それを馬鹿にしようという意図は微塵もない.

むしろ問題は「現代において,クウガに使用されたような特撮技術を再現可能か」という点にある.特撮技術というのは上で見た通り進化をすることはあっても退化をすることはない.したがってこの問いの答えは自明にYES...といえるだろうか?

結論から言うと,純粋な技術水準の観点では答えはYESだが,総合的な演出という観点では答えはNOだろう.

仮面ライダークウガという作品は徹底して特撮の「お約束」を排除し,「リアリティー」を追求して作られた.具体例を挙げれば,「場面が変わるごとにその物語内での場所と時間が正確に表示され,現実の電車の時刻表などに矛盾しないようになっている」「必殺技の名前を叫ばない」「掛け声を『変〜〜身!』などではなく『変身!』という自然なものにした」などである.そんなこだわりの一つに,「殴ったときの火花の演出が少ない」というものがある.

冷静に考えれば殴って火花が出るというのは金属同士でもない限りありえない.よってこの描写はリアリティーの追求そのものである.だがリアルを追求すれば派手さを失うことになる.なぜクウガでは派手さを失っても良かったのかは後述するとして,2020年にこのこだわりを貫くのは「不可能」に近い.なぜならあまりにも「浮いてしまう」からだ.

基本的な大原則として,持っている技術は使うべきだ.それを意図的に低クオリティにすることは難しい上に,視聴者に強烈な違和感を与える.そして意図せずしてそれ自体が何かしらのメッセージ性を帯びてしまう.そのことを考えると,この現代で戦闘時に火花のエフェクトが少ないといったある意味で「地味な」戦闘演出をすることは,視聴者に意図しないメッセージを意識させ,押し付けてしまうことになるだろう.

クウガにおいてこのような演出が可能だったのは,ある意味では特撮に関する演出の最高レベルが今よりも明らかに低かったからこそだと言える.このことによって,違和感を必要以上に伝えることなく,視聴者に現実とファンタジーの「狭間」をいい塩梅で伝えることに成功したのだ.

持っている技術水準で,あえて低クオリティのものを作ることはできても,技術水準そのものを下げることは不可能である.そういった技術進歩の不可逆性から鑑みると,クウガはまさに2000年のあの時代だからこそ作ることができた作品だと言えるのである.

商業

「仮面ライダー」というのはもちろん一つの「商業」であり,ただの自己満足の個人制作で成り立っているものではない.したがって,作品の中身にも少なからず「大人の事情」的な要素が入り込むことになる.

最近の仮面ライダーにおいて顕著な販促要素は「メインライダー以外のサブライダーの増加」「フォームチェンジに必要な数多くのアイテム及び専用武器」「戦闘時の武器の過剰なエフェクト」などが挙げられる.大人の事情という大きな括りで言えば「バイクアクションの減少」なども挙げられるだろう.

サブライダーに別の変身アイテムを与えれば,世の中の仮面ライダーファンは別の変身アイテムを二つ三つ買うことになり,単純計算で売り上げは上がる.またフォームチェンジアイテムを多種多様なものにすることで,一つ一つのアイテムを集めることにコレクション的な価値が生まれ,壮絶なおもちゃ争奪戦が玩具屋で繰り広げられることになる(詳しくは「オーズ_メダル争奪戦_リアル」で検索してもらいたい).そしてそれらのアイテムを買わせるために緻密に「出番」を作り上げ,視聴者に販売を促すのである.(決して最近の仮面ライダーを貶しているわけではなく,そういった現実もあるのだという話である.)

さてクウガ はこの点に関してはどうなのか.クウガにでてくる仮面ライダーはクウガただ一人であり(そもそも劇中でクウガは一度も「仮面ライダー」とさえ呼称されなかった),各フォームに専用武器はあっても,コレクション的なアイテムの類(いわゆるガイアメモリ,オーメダル,アストロスイッチなど)は存在しない.そして先述したように,戦闘シーンからは不必要に派手なCG演出が排除され,リアルな殴り合いが多く描かれている.(ちなみにバイクの規制は緩かったのもあり,バイクアクションはとても多い.)

なぜこのようなことが可能だったのか.一つはクウガのプロデューサーである高寺成紀の目標が「これまでの特撮の常識を壊す」ということであり,主人公を演じたオダギリジョーもいわゆるコテコテの「特撮ヒーローもの」が嫌いな俳優であったことが挙げられるだろう.

このことはクウガを語る際に必ずと言っていいほど言われていることであり,オダギリジョーと高寺成紀の二人がこれまでの特撮の要素を否定して生まれたのが仮面ライダークウガであることは間違いない.

今から語ることはあくまで予想の域を出ないが,仮面ライダーというブランドが古い,過去のものとして扱われていた当時,クウガの制作は少々「実験的」であり,おそらく「おもちゃを売ってやろう」という意識はそもそもあまり強くなかったのではないか.結果的に興行的には成功という形になり販売した玩具はかなり売れたらしいが,それは結果論であり,博打に成功したようなものだったのではないだろうか.

クウガが成功を収めたため,仮面ライダーは今日まで続く人気コンテンツとして復活を果たした.だがそれゆえにどうしても「販促的な」側面が強くなってしまっていると感じることが多い.先も言った通りこれは至極当たり前の事であり,それが悪いと言っているのではないが,ある意味実験的であった2000年の平成ライダー一作目だったからこそ,徹底したリアルな作風の維持ができたのではないかと思う.販促と表現の間で悩み抜いた「仮面ライダー鎧武(メインライター虚淵玄)」のような作品を知っている我々からすると,販促の縛りをあまり受けることのない貴重な一作目で,あのようなリアル路線に吹っ切れた完璧な物語を制作してくれた2000年の東映には足を向けて寝られないのである.

※追記(2020/06/25)

高寺成紀のTwitterにて,「クウガ」での商業活動について以下のように語られた.

https://twitter.com/taka_69s/status/1275798927007076352?s=20

憶測や悪意に基づき「スポンサーと無意味に対立したり、年間計画を無視して暴走する」的な物言いをされることもありますが口を開けて冷や汗をかいた笑顔むしろ自分はMDには熱心だと思ってますほっとした顔番組終了後もファンの方が喜んでくれる物=売れる物が作られるのを願って可能な範囲で担当の方に協力してきたつもりです(例外を除く)
『クウガ』美術費への誤解、アメマイをB社に隠し登場させたというデマ、『響鬼』ジュブナイル押しへの嫌悪などが原因ですかね。時代を超えて楽しまれる文化財でありつつ、単年の消費財としても成立させるにはB社と東映、双方の知恵が組み合わされ初めて効果を生みます。だけに舞台裏はモザイク的です

「商業」の章で事実と異なる記載をしてしまったため一部表現を修正した.また最後の私の予想もかなり的外れだが,これは単に「予想」なので結果的に外れてしまったということで書き残しておく.

クウガが販促の縛りを現在に比べて受けていないのかどうかは比較の基準がないため現時点でもなんとも言えない.

だが確かに言えることは,「クウガが商業活動を意識していなかった」という私の予測は大外れであり,むしろ効果的な販促の手法として新フォームや専用武器を登場させるためのドラマ作りに注力していたことがわかった.

私としては,クウガ以降の作品でストーリーの脈絡がない武器やガジェットが登場して販促の押し付けを感じてしまうことがあったため,それを感じさせずにドラマ内での演出としてうまく溶け込ませたクウガの演出の巧みさに関しては,本文執筆時と同様に高く評価したい.

物語

ここまでは内容の「外側」,つまり現実での制作過程について焦点を置いてきた.ここからは内容の「内側」の話をしたい.

仮面ライダーという作品群はそのファンタジー性もあり必然的にメインのターゲット層は小さい少年少女であるということになる.したがってその作品に込められるメッセージは教育的要素を不可避的に含む.

クウガの中でとても色濃く教育的側面が出た場面の一つとして,「EPISODE 26 自分」において,主人公五代雄介の恩師である神崎先生と,五代の妹であり保育士でもある五代みのりとが会話するシーンが挙げられる.

会話を一部抜粋する.

神崎「時々,子供たちが痛々しくなってしまうんです.今の子供は悩めない.まず悩む時間がない.それに,悩んだり傷ついたりするのが辛いだろうからって,それを忘れさせるためのもので溢れてるでしょう」(中略)
「最近,時々テレビを見ていて恐ろしくなってしまうんです.『悩んだりなんかしなくていい.もっと面白いものをたくさん買って,面白い場所でお金を使って,何も考えずに生きよう.』誰も彼もがそう言っているように聞こえてねぇ」
みのり「悩ませたくないというのが,お父さんやお母さんの気持ちかもしれません.本当は自分たちに考えさせたりして,その家ごとのしつけをきちんとして欲しいんですけど.厳しくするより,可愛がる方が,親御さんにとっても楽なのかな」
神崎「でも,大切ですよね.悩むってことは

同エピソードにおいて主人公五代雄介も,将来について悩んでいる少年に向かってこのように言っている.

五代「(悩んでも答えは)出ないだろうねぇ.だって,そんな簡単に出たら,悩むことないじゃん.何年かかったっていいんだよ.みんな悩んで大きくなるんだから.君の場所は無くならないんだし.君が生きてる限りずっと,その時いるそこが君の場所だよ」(中略)
「その場所でさ,自分が本当に好きだと思える自分を目指せばいいんじゃない」

2000年の頃でさえ,この調子である.2020年の今はどうか.あの頃に比べて比にならないほどの娯楽で溢れている.悩むことを放棄し,快楽に溺れた若者が溢れている状況が平成の間変わらなかったことを思うと悲しくなるが,主題はそこではない.私がここで言いたいのは,『仮面ライダークウガは一年間を通して,子供たちに「悩ませる機会」を与えていたのではないだろうか』ということだ.

もっと具体的に言おう.仮面ライダークウガという作品は私たちに向かって,「五代雄介(=仮面ライダークウガ)のようにあなたは生きることができますか?」というメッセージを一年間かけて投げかけ続けていたのではないだろうか.この仮定のもと話を進めることにする.

何回も述べた通り,クウガはリアリティーを重視した作品であった.そのような作品の雰囲気において,ヒーローものでは当たり前であるような「自己犠牲の精神」「綺麗事」といったものは,より存在感と違和感を放って私たちの前に立ち現れる.

主人公である五代雄介は一貫して,そのような「善」の要素を貫き通した人間として描かれている.クウガとは決して主人公の成長物語ではない.「周りの人間が主人公の影響で変化していく様」を描いた物語なのだ.ここで「病的なまでに作り込まれたリアリティー」が効いてくる.周りの人間や五代の普段の様子をあまりにもナチュラルに描いているので,自分の隣に五代雄介という存在がいて自分に変化を及ぼしてくるような,そんな気持ちにさせられてしまうのである.

クウガが「現実と理想の塩梅」が非常に上手い作品であることは誰もが認める事実だろう.実際に五代は劇中で,理想では乗り越えることが困難な現実を突きつけられることがあった.ただ結果的にはどれも五代が理想を貫き通し,それを周りの人間が受け入れる形で収束することがほとんどであった.この過程を病的なまでに丁寧にそしてリアルに描ききることにより,五代の理想は現実でも通用するのではないかというある種楽観的な気持ちにさせられてしまうのである.況や子供たちをや,である.

五代に憧れてしまった子供は現実社会の荒波にもまれるなかで,「純粋な人間の悪意」といった,理想ではどうしようもできそうもない困難に立ち向かったとき,悩むことになる.「どうしてだ.五代はあんなにも理想を貫いていたのに,僕はどうして..」と.

クウガにおいて,五代は「人間に対しては」全て理想を掲げて立ち向かっていた.そして周りの人間はその理想を受け入れて変わっていった.五代が理想ではどうしようもできず,拳で立ち向かった相手というのは劇中ではグロンギ(いわゆる怪人)しかいない.要するにクウガでは「人間が善,怪人が悪」なのである.このことはあまりに巧妙に隠されているが,冷静に考えればこれは大層な「綺麗事」である.

このような綺麗事を,徹底したリアリティーの影に巧妙に隠しながら一年間かけて視聴者に訴えかけた挙句,「さあ現実はこうもいきませんが,あなたはそれでも理想を貫けますか?」と仮面ライダークウガは我々に問いかけているわけである.これは少年少女にとっては大きな「悩み」となるであろう.実際私もあまりに眩しすぎる五代雄介の姿に,今の自分の情けなさを反省させられる部分はかなりあった.私を含めた視聴者は,心の片隅に「理想」を具現化した五代雄介という存在が植え付けられてしまったのである.

ここまでして一人の人間のヒーロー性に迫るのは,昨今の仮面ライダーの風潮では到底なし得ないことであり,つまらない結論ではあるが,特撮の常識を否定しながらも超王道な「仮面ライダークウガ」という作品は2000年に制作された平成ライダー一作目だったからこそ完成させることができた,ある意味で完璧なヒーロー作品なのだと結論することにしたい.

跋文

理想から目を背けるのは簡単だ.「それは綺麗事」だと片付けてしまえば何も考えなくて良いのだから.そんな私たちに五代雄介は真っ直ぐにこう投げかけてくる.

「そうだよ.でも,だからこそ現実にしたいじゃない.本当は綺麗事がいいんだもん」

クウガを否定して新時代の仮面ライダーを作るということは決して「綺麗事を否定し,トリッキーな要素を詰め込むこと」と同義ではない.メッセージの根幹を維持しながら,どのように魅せ方を変えていくのか.今後も続くであろう後続の平成ライダー評論に加え,新たなブランドとなるだろう令和のライダーに関して評論する際も,この視点は忘れないようにしたい.

おまけ

クウガのタイトルが全て漢字2文字であるのに合わせて,記事の見出しを全て漢字2文字で統一しようとしたところ,「跋文」だけ見慣れないものになってしまった.序文の対義語ということらしい.語彙力は大事だなぁ.

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