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やっさんとのお風呂戦争②

やっさんとのお風呂戦争①のつづきです。


なにがなんでもお風呂にはいることを拒否するやっさんの言動にゲンナリしてたわたしは、母にそっこうでチクることにした。

すると「身内がいると甘えが出るから、その場にいなくていい」との助言が飛び出す。
どうやら何度も来ている看護師さんたちは、わが家の内部やお風呂場の仕様を熟知しているので、まかせてしまったほうがうまくいきやすいとのこと。
いやいや、それはやくおしえてよ……。

ということで、さっそく次の週にリベンジをすることになった。
気持ち的には「やっさんとわたしの七日間戦争」である。
が、ただ黙って訪問看護を待っているわけにはいかない。なぜなら、やっさんの下着は今すぐにでも替えるべきだからだ!

よくわからない使命感に燃えていたわたしは「風呂は昼間にはいらない」をいわせないため、天気のよい日の夕方を狙って夕飯前に促してみた。
もちろん、すべての準備は万端だ。

「もうすぐ晩ご飯にするから、先にお風呂にはいってきちゃえば?」
他意はない。すんなりと、流れるように、いった!いってやったぞ!

やっさん「………なんで?」

(「なんで?」ときたかー、そうですか…。)

「はいらないよ」

「…………………………お湯をはっちゃったし、もったいないよ。わたしは夕飯作ってるからはいれない。せめて着替えだけでもしてくれないかな。脱衣所に用意してあるよ。あっためてあるから寒くないよ」


「…………………………」


おーい、無視かいっ!!!

やっさんは、なぜか異常に聴力がよいので聞こえてないはずがなかった。
夕飯前っていったのが失敗だったかな、気持ちが完全にごはんにむかってしまったか……。
日がな1日TVを見るか新聞を読むか、ごはんを食べるかしかしてないのに!!!!! 
たまにはいうこと聞いてくれ!!!


介護において、こちらの努力などというものは総じて報われない。
デフォルトで報われない。
この世の報われないことランキングがあるなら圧倒的NO.1が介護だ。

「こうしたほうがいい、ああしたほうがいい」と時間をかけて深く吟味をしたり、「これをしてあげた、あれもしてあげた」という介護者側の“やりました”という感覚は、勝手な思い込み(=自己満足)の可能性があることを忘れてはならないなと思う。

介護される側が、本当にしてほしいことかどうかなんてわからないからだ。
もちろん、よいとおもうことをするのは決して間違いなんかじゃない(間違いであってたまるか)。

美しい数式で導き出せるような完全な“解答”などないということ。

当時の自分にはその感覚のズレを察知することができなかった。一方的に「風呂にはいれ」と促すだけで、やっさんの気持ちや感情が蔑ろになっていることに気づけなかった。

+++


お風呂チャレンジはまったく成果をあげることなく、次の訪問介護の日がやってきた。

もはやなす術がないわたしは、母の言葉を思い出していた。
「身内がいると甘えが出るから、その場にいなくていい」

これだ。もうこれしかない。
看護師さんが訪問する時間を見計らって、やっさんの部屋から2階へ上がる階段にすわり息をひそめた。
家族の目がないなかでやっさんが看護師さんにどういう接しかたをするのかを見極めたかった。
うまくことが運べば、この部屋には看護師さんとやっさんが下着や着替えをとりにくるはずだ。

しばらくして、玄関のチャイムがなった。
リビングにいるやっさんは、家のなかにわたしがいることをすっかり忘れていた。玄関を開けて看護師さんたちがはいってくる音が聞こえる。
いつものように血圧を測ったり、談笑している様子。
前回の対応とはまるで違うじゃないの、ちょっとー。

わたしが隠れている部屋に、ひとりの看護師さんとやっさんがやってきた。
思ったとおり着替えをとりにきた様子。明るくほがらかにやっさんに語りかける看護師さんの声に、こっちが勇気づけられてしまう。

「◯◯さん(やっさんの本名)、きれいな下着、ここにありますね」
「着替えはこれ、ほら、上下そろってますよ〜」
…うまい! なんてスムーズなんだ……。

「じゃぁ、これを持っていけばいいんだな。タオルはあっちにあるから」

上機嫌な声で答えるやっさん。
看護師さんはやっさんが自分で下着や着替えの準備をしたようにうまく誘導してくれた。どうやら自らお風呂にはいる選択をした気分になったようである。

あまりにすんなりお風呂場へ直行したので、「おい!今も昼間だぞ!外明るいですけど!なんで!今日は入るのですか!」と発狂したい気持ちを飲み込む。
前回の強烈な拒否は一体なんだったんだ……。

脱衣所からお風呂へ。
やがて風呂場からやっさんの笑い声が聞こえてきた。
そういえばこんなに四六時中一緒にいたのに、やっさんがわたしに笑ってくれたことなんてなかったじゃんよー。



なぜか、だばーーーーーーっと涙が溢れた。
仕方なく、階段にすわったまま気がすむまで泣いた。



やっさんが3週間ぶりにお風呂にはいってくれたのがうれしかったのと、一生懸命やったけど微塵も報われなかった自分の無力さと、プロの仕事とはなんと無駄がなくうつくしいものなのか。
まとまりのつかない感情たちが次から次へと押しよせてきて涙が止まらなかった。

すっかり出ていくタイミングを無くしてしまったのだが、やっさんがお風呂から上がるときを見計らって看護師さんに挨拶をした。

「いらしてたんですね。きょうはしっかりお風呂はいってくれましたよ」
ふふふっと笑う看護師さんたちの顔を見て、またぼろぼろ泣いた。

「ありがとうございました…やっとお風呂にはいってくれました! ありがとうございました」



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(看護日誌より)


尚、やっさんとのお風呂戦争は今もなお継続中である。

認知症患者にとって入浴拒否はとてもあるあるの問題なのだ。
服を脱いだり着たりが単純に面倒くさくなってしまうことや、いつお風呂にはいったのかを覚えていないため自分はキレイだと思っていること、そして、単純にお風呂のはいりかたがわからなくなってしまうなど、理由はいろいろある。

やっさんはこのころすでにシャワーの使い方がわからなくなっていた。
温水、冷水の切り替えはもちろん、シャワーと蛇口の切り替えができない。

特にご機嫌なときは自ら「風呂にはいる!」といってはいるときもあったが、こっそりのぞいて見ると湯船に浸かっているだけで髪の毛やからだを洗っている様子はなかったりした。
よく考えれば、シャンプーとボディソープの区別もつかないわけだから当然かもしれない。

上記に記したお風呂のやりとりのあと、たった一度だけ。
やっさんがお風呂あがりに髪の毛をドライヤーで乾かせてくれたことがあった。うすくうすくなった後頭部に温風をあてすぎて「もういいっ!」って怒られた。

わらった。しあわせだったよ、ありがとうね、やっさん。

またドライヤーかけさせてね、やくそく。






もれなくやっさんのあんぱん代となるでしょう。あとだいすきなオロナミンCも買ってあげたいと思います。