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希死念慮

※重い話をします。
命を大切にしようと思った時の話をします。

私は、希死念慮の経験があります。
世間的には、親から貰った命を大切にしなよと言われるかもしれません。
そう考えてしまう人の中には、親と分かり合えなくて苦労してる人も居るかもしれません。私がそうでした。
それは望む人の意思でも無いし、本当に苦しくて息をするのも辛かったらその言葉は逆効果になる時もあります。
本当に追い詰められると物事は良い方には捉えられなくなります。
苦しい時の「頑張ろう」も「頑張ってるよ」も辛かったです。
私は、誹謗中傷だけが人を追い込むのでは無いなと思ってます。

それでも容赦無く、他人は追い込んでくる時もあります。
まるで相手の死を望んでるかのように。
その行動はいつか自分にも返ってくることを知らずに…です…。

会社員で働いてた時…。
我慢を重ねて上司からの中身の無い無駄に長い説得を4時間された時は流石に私も辞められないと思いました。

ある日、自分を追い込みすぎて会社に行けなくなりました。
その時に思い返した時に友情関係でもイザコザだらけ、家族関係も疲れて、職場環境も怖くなって、恋愛関係でも上手くいかなさすぎて、息をするのも苦しかった…と。良い思い出が全く浮かばなかったです。
良い思い出を考える余裕も無かったです。辛いことの中にはきっと良いこともあったと思います。でも、そんな余裕は当時無かったです。

親友はいましたが『自分の居場所が何処にも無い』と思ったらある感情がよぎりました。「死のう」と。
引き金を引いたキッカケは上司の言葉でした。
私は声を震わせながら上司に電話しました。「もう無理なんです。頑張ろうとしても無理なんです。」と。
上司に「会社に来れないなら近くのコンビニまで来てみよう」と言われた時最後の最後まで追い込まれました。

私がもし同じ状況になったら何も言えなくなります。
どんな言葉でも引き金になる時があるからです。
それに死と向き合う時は『ひとり』なのだと思います。

話が戻って
私は親友が大好きです。親友から貰ったブランケットを首に巻き付けました。そこから怖いと楽になりたい気持ちがずっと戦ってました。
冷静になると怖いって気持ちがあるのならまだ救えるのかもしれません。

最後に「もし、私がこの世にまだ存在して良いならきっと誰かが救ってくれるはず」とよく分からない賭けをしだしました。

号泣してると窓をコンコンする音が聞こえました。
見ず知らずのおじさんが声をかけてきました。
「大丈夫?本当に大丈夫なの?」と。
私は、見ず知らずのおじさんに救われました。
落ち着くまで窓の外で寄り添ってくれました。
コンビニの駐車場でいつもなら人は声を掛けてこないです。

私は心の何処かで神様を信じてました。
学生時代に神様は居るなと感じた出来事がありました。
その時に直感で「まだその時では無いのだな」と感じました。
落ち着くのに時間は相当かかりました。
後に本を読んでであの時はもしかしたら天国のおばあちゃんが助けてくれたのかなとも思いました。
そうだとしたら御先祖様の力って凄いです。

私は、死にたかったのでは無く、救われたかったのだと思います。
見ず知らずのおじさんには本当に感謝してます。

時間はかかったけど、少しづつ前を向けるようになりました。
私の命が生きることを許してくれる限り、命を大切にしたいと思います。

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