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残酷なエッセイNo.1。「くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集」

「面白くない・・・」

3つ目のエッセイを読み切ったときに判決は下った。現在手にしている「くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集」は面白くない。ツマラナイではなく面白くない。

では作者の力量はどうなのかというと、素晴らしい。それは素人でもわかるほど素晴らしい。言葉が輝いて見えるほどの上品さを漂わせている。つまりこれを一言で表すならば、「美文で書かれた面白くないエッセイ」というところだろうか。なんじゃそりゃ。

具体的に何が面白くないのかというと、冒頭に書かれる著者のモテる遍歴だ。女性が彼に寄ってくる。色々なにかと世話をする。これを世のモテない男子が読んで面白いわけがない。

次に家族の幸せアピールだ。家庭を持たない独身者にとって、これほど面白くない文章はないでしょう。

次に頭の良さアピールだ。能力に自信がないひとにとって、こんな面白くない文章はないでしょう。

同じように、仕事のこと、友達のこと。世の中には、彼が題材とするものの全てにネガティブなイメージを持っている人がいる。仕事に恵まれない人、友達に恵まれない人、そういったひとたちのこころを泡立てて、逆立てる。キレイな文章が鋭さを増す刃物のように美しくひかり、読者の隠したがっている本音を炙り出し威嚇する。

しかし、ふと考える。たしか村上春樹も似たような題材を書いていた。しかし村上春樹におこる人は少ないであろう。氏の書く小説に対して拒否反応があったとしても、氏のことを面白くないと批評する人は少ない。つまり松浦氏はNGで、村上氏はOKである。その違いはいったいなんだろう?

そこで村上春樹の本をひらいて1ページ読んでみる。すると、氏の文章は対象となるモノそのものを書いている。それ以上でも、それ以下でもない。氏が女性から口説かれたとしても、それは氏を口説く女性の問題だ。

戻って松浦氏の作品を再読する。松浦氏の文章は対象と自分のとの関係性を書いている。だから書かれているのが素晴らしい女性であれば、素晴らしい女性に口説かれているカッコいい自分を語ることとなる。素晴らしい作家について語れば、その作家の素晴らしさを理解できる自分を語ることとなる。確かにこれは面白くない。

とはいえ、翻って考えると、面白くないと感じるこころの反対側に位置するのは嫉妬心だ。自分にないものを誇らしげに語る人に対しての情動だ。

そこで思う。この松浦弥太郎の文章が素晴らしさは誰も否定できない。ゆえに、このエッセイを面白いと思う人は満たされているか、大いに諦めている人か、情動に動じない人である。それに対して、このエッセイに心を乱される人は現在幸せに至らないひとであり、学びが足りないひとであり、人間らしいひとである。

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