【きみはだれかのどうでもいい人】 伊藤朱里

地方の県税事務所で働く4人の女性。同じ職場、同じ空間。しかしそれぞれ4人ともがみている景色、思いは全く異なっていた。

「だからなに?そんなこと、わたしとなんの関係があるの?」

思えば物心ついたときから、私たちはものごとや人をカテゴライズしてきた。かわいい子、運動ができる子、おとなしい子…。

思春期に入ると、自分たちがどこに区別されているか敏感になり、時には入れてほしいカテゴリーに入れるように自分をコントロールすることだってあった。

「明るくて、イケてる女子」のカテゴリーに入るには何が必要か。

好きな人の「気になる子」に入れるために容姿を磨く。

がむしゃらに、入りたいカテゴリーを見つけて突っ走ることに夢中だった周りに比べて、私は「入れられたくない」カテゴリーから自分を遠ざけることに敏感だった。「暗くて、近寄りたくない人たち」に入りたくないから、なりたくない「明るい女子」になるのに必死だった。

社会人になってからも、見えない区別はあったはずなのに、仕事に追われて、目の前の業務に精一杯になってしまった私は、一度職場で倒れただけで「体の弱い子」にカテゴライズされてしまった。どれだけ仕事で取り返そうにも、「無理しないで」と言われるたびに、「弱い人間」のレッテルを貼られている気分になった。被害妄想がパンパンに膨らんで破裂寸前で、退職した。

「きみはだれかのどうでもいい人」では、同期の休職で異動になった環が初めに登場する。仕事ができて、出世間違いなしの彼女にも、少女趣味が止められない、引きこもりの妹など悩みや言えないことがつきない。それでも、環の周りは、彼女に期待している上司、大人しくて仕事ができない人間ばかり。

心の病気で仕事ができず、復帰支援というかたちで、入社してきた須藤深雪が、休職中の環の同期を心配し、環に「彼女を気にかけてほしい」と言った時に環はこう思う。

「傷つきやすくて、繊細で、病んでしまった者同士だから、人の気持ちがわかる。そうでしょうね。美しいですね、生きることに挫折させられた者同士で。わかりやすい病名ひとつもらっただけで、この世で自分たちにしか、傷つく権利はないって顔をして」(p75)

そういう思いをひとまとめに、「知らねえよ」で済ます。この言葉は共感と発見、だった。

もう「弱い人間」と思われたくなかったから、今の職場では1度も体調理由に休んだり、相談したりしなかった。その結果、「大丈夫な人」になり、自分と同じ年代の子たちがストレスや、心の病気で辞めていくのをたくさんみてきた。

私は環であり、深雪であったのだ。勝手に「強い人間」と上司に偉そうにレッテルを貼り、辞めていく後輩たちを「弱い人間」へカテゴライズした。

他人を見えない区別化して自分を正当化していたことに気づき、自己嫌悪に襲われたが、タイトルの「きみはだれかのどうでもいい人」に少し救われた。

きっとそれは、他人からみてどうでもいいことなのだ。

自分は、自分が思っているより価値がない。だから少しだけ気楽に生きてみよう。

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