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『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹

かなり雑なあらすじ紹介

パラレル・ワールド記号士ややみくろの襲いかかってくる《ハードボイルド・ワンダーランド》(以降《世界の外縁》とする)から一角獣のいる高い《壁》に囲まれ穏やかな《世界の終り》へ行く過程における《実体:僕》と《影:俺》の関係性の物語

1985年 新潮社から刊行。

安部公房と村上春樹

村上春樹 のこの作品が発表される前年に安部公房 は『方舟さくら丸』を刊行。

安部公房の『壁』『砂の女』や『箱男』などから、強い影響を受けている気がする。村上春樹が安部公房を意識したかどうかはわからない。

1996年、村上春樹は

「安部公房は奇妙な話を書きますが、変かというととくに変ではないですね。その奇妙さは良くも悪くも一貫した奇妙さであって、「変」ではない」
『若い読者のための短編小説案内 』p.66

としている。

特に、設定は『壁』(1951年)のなかの第二部、影を狸に奪われてしまう『バベルの塔の狸』そのものでもあり、高い壁に囲まれた世界は第一部『S・カルマ氏の犯罪』の壁のようでもあり、また、《世界の終り》にとどまることは、『砂の女』の主人公の男の末路でもある。

本書でもスタンダールの『赤と黒』や『パルムの僧院』が出てくるが、『バベルの塔の狸』でもスタンダールが出てくる。
話は逸れてしまうけれども、僕はスタンダールがとても好きだ。子どもの頃、祖父が世界文学全集を全巻押し売りで買わされてしまった。僕の読書のベースはそこから作られた。スタンダールの巻には『赤と黒』と『恋愛論』が収められており、僕は子どもながらジュリアンの社交界でのし上がっていく姿とナポレオンの姿を心の中で重ね合わせ、夢中になっていた。訳は大岡昇平だったように思う。
特に『赤と黒』のジュリアンを通して見えてくる支配と従属の社会とその社会階級に対する鋭い批判は、今でも通用するのではないだろうか。僕の名刺がわりの10冊のうちの1冊でもある。

人生というエゴイズムの砂漠では、皆、自分本位なのだ
『赤と黒』 スタンダール  

話をもどすと、時代を安部公房が鋭く描いていたからなのか、村上春樹がそうした安部公房の描いた時代を生きていたからなのか、村上春樹が安部公房から相当な影響を受けているように見えなくもない。

安部公房の方が端的で視座の高度がひとつの作品の中で多数あり、社会に開いている。
村上春樹作品全般において

【登場人物は全員、主人公の中の様々なペルソナ】

という印象を僕は抱いている。

安部公房からの強い影響を感じるとは言えども、この本が村上春樹作品の中で『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』と並んで好きだ。

個の内側の世界と共同体の記憶

読み方を
①個の内側に向けたものとする
②個と共同体の記憶
とするかで最後の印象も相当に変わるのが面白い。

一番僕が重要な箇所だと思うのは以下である。

僕は大佐に借りた帽子を脱いで積った雪を払い、それを手に持ったまま眺めた。
帽子は古い時代の戦闘帽だった。布はところどころですり切れ、色あせて白くなっていた。
おそらく大佐は何十年も大事にその帽子をかぶりつづけていたのだろう。
僕はもう一度きれいに雪を払ってから、それを頭にかぶった。
「僕はここに残ろうと思うんだ」と僕は言った。 
影はまるで目の焦点を失ったようにぼんやりと僕の顔を見ていた。「よく考えたことなんだ」と僕は影に言った。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
村上春樹 新潮文庫下巻p406

①個の内側の世界

人間は様々なペルソナを引きずって生きる宿命にある。これは安部公房が『他人の顔』や『箱男』、『壁』のいくつかの短編で端的かつ明確に社会に開いたスタンスで描き出してもいる。

そして、各々のペルソナ同士は、お互いの間で自己欺瞞を抱き葛藤してもいる。

その葛藤というのは完全に無くすことなど、よほどの聖人君子でもない限り無理であろう。

葛藤するからこそ、人間であり、ある意味では、「罪」を背負ってそうやって生きている。

《僕》は罪を背負って、あるいは罰として、とどまり、《影》は罪を背負う世界へあるいは罰として世界を出た。

大きく違う選択の様相が《世界の終り》と《世界の外縁》であり、その差異は自己欺瞞そのものだろう。

その場合、いずれの住人たちも、《僕》の中の様々なペルソナの表象に思う。

②共同体の記憶

とどまる=個や共同体の歴史を背負って生きること
を選択すれば心を無くす時もあるかもしれない。

なぜそこに行き着くかというと、僕は職業軍人だった曽祖父を間近で見ていたからだ。
彼はほとんど喋らず、不機嫌なのかどうなのかも生きていて楽しいのかすら子どもながらわからなかった。時々、夜中に夢のせいかうなされていた。
戦時中、前線にいて帰ってきたひとたちは皆そうだったんじゃないかなと今なら推しはかれる。

心を無くすくらいなら、歴史や記憶を忘却の彼方に残して、新たな時代へと向かう、というのが《影》の意識なのかもしれない。

誰だってそんな経験したら忘れたいと思うかもしれない。
あるいは、共同体として「修正する」など。

そうした読み方をすると、やはり、《世界の終り》で、物語を締めくくるのは自然かもしれない。

テクストの余白─事物の影というのは実体の投影

光源のないところでは影は投影されない。
投影される《壁》あるいは《土地》がないと影は存在しない。

共同体としての《僕》と《影》の関係を考えると《僕》の未来を常に背負うのが《影》でもある。本来なら、《僕》がなければ《影》はない。つまり何が言いたいかというと、歴史を背負う選択をしなかった《影》の先は《虚》である。あるいはループ的に過去への回帰。

もっと踏み込むと《影》は反省をしない社会で生きるリスクを背負う。

倫理的に《僕》はそうすべきではない=歴史を忘却の彼方においやって生きるべきではない、と決定したから「とどまる」を選択した、とも解釈できる。

少し前から吉本隆明の共同幻想論を読み返してみたり、安部公房を読み返したりしていたせいか、本書を久しぶりに読み返していたら、共同体、国家と個人、そこに流れる歴史など様々に想いを馳せた。
僕は娘にどんな未来を残すことができるだろう。
ふと、そのようなことを考えた。

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