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アスファルト

 駅を降りて、右手に曲がり、まっすぐ海の方へ伸びるアスファルトの上を駆け抜ける。途中にある川の近くでいつもひと息入れていた。
 丸いお月さまと星々が囁き合う冬の夜、僕らはその川沿いの桜の木のそばで出会い、恋をした。
 その日から、僕らはいつもそこで落ち合うようになった。冬が終わり、春がきた。いつものように、彼女の待つ場所へと向う。アスファルトの上で観光客の捨てたくしゃくしゃの紙袋が転がっているのを僕は少し高いところから見つけた。その中に、まだ何かが残されていたのも僕は確認した。別れ際、彼女にその話をすると、無邪気な笑顔を僕に向けた。
「明日、晴れてたら見せて欲しいな。お腹の子どもも多分喜ぶわ、お父さん。」
 僕がお父さんになったのを知った春。お父さん。
それは、素敵な響きだった。

 翌日、あのアスファルトを確認することにした。待ち合わせはいつものように夜ではなくて、昼間。かなり危険をともなうのはわかっている。それでも、彼女の体調を崩さぬよう、暖かい陽の光があるうちに見せてあげたかった。
 
 どこまでも広がる青い空。少しざらざらとした砂埃の匂いがするアスファルトと緑色の木々や遠くの海。それらを分ける境界線のように電線が伸びている。雲ひとつなくて、彼女の家の桜の木も色づいていた。アスファルトの上には、まだくしゃくしゃのまんまの紙袋が残っていた。
 
 僕は、車が通りかかっていないのを確認し、一気に境界線を飛びだした。眼下に広がるアスファルト。紙袋まであと2メートルもないところでタイヤの振動音を感じ、右がわの後ろを見つめる。あの夜と同じ丸いお月さまみたいに明るい何かが僕に近づく。
 痛みは感じない。紙袋がカラスに奪い去られてゆく。その光景を僕はただ、アスファルトの上に横たわったまま見つめることしかできない。僕は少し目を瞑り、彼女ともうすぐ生まれてくる僕らの子どものことを想像した。さっきのカラスが今度は僕のすぐそばにやってきた。黒い影が僕に覆い被さり、容赦なく焼けつくような鋭い痛みを首筋に幾度となく感じる。僕は薄れゆく記憶と痛みの中、僕の魂が彼女の元へ連れていってもらえるよう神さまにお願いした。 


 不意に鋭い痛みが止まり、カラスの黒い影の代わりに男の影が僕に近づいてくるのを感じた。目を少しだけ開くと、悲しそうに僕を見つめる男が見える。男の瞳には、遠く上空でカラスと男を牽制する鳶たちが数匹写っている。「リス轢かれとるやんけ」
 僕は名前を持ったことがない。初めて男から貰った名前に何となく照れ臭くなった。
 やがて、道路脇に僕は置かれた。男は何か言いたそうに僕をしばらく見つめていたけれど、すぐに立ち去っていった。きっと忙しいんだろう。僕に名前を付けてくれたことなんて、すぐに忘れてしまう。みんな、それぞれ生きるのに必死なんだ。


 あたりはもう暗闇しか映らない。
だけど、柔らかい草と土の匂いが春の風に漂っているのはわかる。同じ匂いの中できっと彼女は僕が現れるのを待ってくれている。

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