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獅子座と射手座εへの楽観的モールス信号

霞がかった季節から薄い緑色の季節に移り変わろうとしていた。
去年、病院の待合室にいた俺。
ぼんやり彼女の診察を待ちながら窓を見ると、いつものように上空には鳶が舞っていた。

「旦那さんですか?おめでとうございます」
俺と彼女はまだ結婚していなくて、結婚していないことではなく、旦那さんと言われたことが何故か照れ臭くなった。

地球から70光年の獅子座と144光年の射手座εそれぞれにモールス信号を気まぐれな鳶が発した。
愛の歌を高らかに乗せた信号は光速よりも遥かに速いスピードで大使館と市役所と産婦人科を駆け巡り、恋する2人に奇跡を授け、遥か彼方の2つの星座を縁取った。そうして1年後の再び今、二人の元を過ぎていく。
波の静かな夕暮れ時、オレンジ色の海を駆け抜け遥か向こうから流れ星のようにやってくる信号。
暫く2人の間にまとわりつきながらまた水平線の向こう側へと消えていくそれを眺めて、2人は砂浜の上を裸足でまた歩き出した。

去年までピアノ演奏学科にいた彼女はロシア人とフランス人の詩集を少しとクラシック音楽やピアニスト、ピアノにまつわる本と絵の本しか読まなかった。
京王線沿いの大学に通うのも稲荷町の彼女のピアノの先生の元へ通うのも呆気なく辞めてしまった。

ロシア人の昔の詩人が書いた「夜」という詩と恋人へ送った手紙のような詩を彼女はスラスラと暗記していた。
フランス人の波の音が貝殻のように静かに響く詩も暗記していた。
彼女にとって俺はその貝の耳らしい。

気分が乗ると8時間以上彼女はピアノの練習をしている。
気分が乗らないと大きなピアノの上の蓋をばちんと乱暴に閉めてその上に座り込み何時間も俯いている。
時々、俺のせいでそうなっているのか考える。

地元に出張で、戻ってきた際、偶然コンビニで数年ぶりに再会し、気づいたら一緒に寝て、気づいたら素敵な女の子が彼女の中に鳶が運んできた。
10年お世話になった叔父の工務店をあっさりと辞めて、女の子の為に地元に戻り、親父に頭を簡単に下げ、親父の建設会社に収まった。
だから全ては偶然で、それを考えたところで意味もないかも知れない。

全く日本人の書いた本を読まなかった彼女だったが、昔俺が好きだった小説家の薄い本を最近彼女は読み始めた。
小説家のでっち上げた架空の作家を本当に存在する作家だと思い込んでいる。天気の良い日に日向ぼっこしながら、その本を読んでいる。コンビーフのサンドイッチを作って、牛乳と一緒に流し込みながら読んでいるらしい。

薄い雲が太陽を時折隠している。
20キロほど離れた場所のトラックの中で俺は、いつものように今朝、彼女の作った弁当を食べる。
彼女が小さな女の子をベビーカーに乗せて庭で日向ぼっこしながらサンドイッチを食べる姿を想像する。
太陽がたくさん出てくれることを願って、雲を少しだけ恨んだ。

射手座は銀河の中心近くに浮かんでいる。
俺の世界でも射手座の2人が中心に在る。
あの日鳶が気まぐれに発した楽観的モールス信号は、今日も俺と彼女と、そして、とても素敵な小さな女の子の間をすり抜けて空を駆け巡っていく。

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