見出し画像

霧の女

 雨の降る日が続いている。
朝から建坪120のそこそこ大きな建物のエスキス建築デザインを書いていた。外壁は焼杉で黒のモダンさ、一部コントラストの際立つ白塗りのコンクリート壁。大きく突き出す屋根の軒。
依頼主は同じ町内の音楽家、七海さんだ。
古くなった築100年の木造を取り壊し、全体の雰囲気をそのまま残すために2/3をひのき造りに、残りの1/3を重量鉄骨造に、とのご希望だった。重量鉄骨部分を音楽教室にしたいらしい。3年前に一級建築士の資格を取って以来、2件目の僕の一からの設計と施工となる。僕はかなり気合いが入っていた。世界の音楽家たちの自宅や数奇屋造りの日本家屋まで、大量の写真集や現地へと足を運んで観察した。

 また、茶室も欲しいとご希望だった。京都市内で数奇屋大工をしている叔父の知り合いの小嶋さんを紹介していただいた。
僕はきちんとした和室をそれほど手掛けたことがまだ数回しかない。茶室は今回が初めてでもあった。茶室は父親が担当することにはなっていたけれど、僕も勉強させてもらえる大きなチャンスだった。数ヶ月前、京都の小嶋さんの元へ二泊三日で父と2人で行った。

小嶋さんの作業場は僕らの作業場よりやや広く、刻み中の木材がきちんと整列されていた。
なにしろ驚いたのは小嶋さんの容貌だった。
父と同じくらいの歳で50代後半だが、どことなく品がある───小嶋さんは女性だった。
お会いするまで叔父から僕も父も社名しか聞かされていなかった。小嶋さんの下の名前も聞いていなかった。
作業場ですこし過去の数奇屋の修繕の話や茶室の話を父と伺ったあと、離れの茶室に通された。

「鎌倉からここまで、かなり遠かったでしょう」

そう言うと、小嶋さんがお茶を点ててくれた。

「結構なお点前でございますね」と普段とは別人のような返しをする父。「小嶋さんがお茶まで点ててらっしゃることに驚きました。すごいですね」馬鹿丸出しの僕を横目にしながら父が少し自慢げに「大工はお茶も点てられないとなりません。私はもう何十年も点てておりませんが、実践なされているのは素晴らしい」と言い始めた。父が点てているのを一度も見たことがない。

小嶋さんは柔和に微笑んでいるだけだった。

「小嶋さん、お美しいですね」───僕は自然と言葉にしていた。

小嶋さんは目尻の皺を集めて笑っていた。
よくみると、顔にはところどころシミもあった。健康的に日焼けしてツヤツヤした肌と歯並びの良い口元にえくぼができていた。戦争で建材が軒並み値上がりしていることなどに話題は変わった。

可愛らしいひとだな───僕はその夜、ホテルのベッドに潜り込んで小嶋さんの茶室での仕草やえくぼのことを思い出していた。

2日目の朝、僕らは小嶋さんに京都駅まで送ってもらい鎌倉へと戻っていった。

僕らが改札口へ消えるまで小嶋さんは手を振ってくれていた。

雨が本降りになり始めた午後、フルーティーなエチオピアモカの香りが突然部屋を満たした。「どう?エスキスの調子。茶室の部分は俺が一応描いたのがあるけど、あとで見せるわ。コーヒー、置いとくぞ」と、父が声をかけてきた。

「あー茶室、親父描いた?小嶋さんにも一応見せた?」僕は耳からイヤホンを外し、グールドが遠くの向こう側の海の中でバッハのアレッサンドロマルチェロを弾き続けている。

「小嶋さん?」父は不思議そうな顔をして部屋を出て行った。

あれだけお世話になったのに。人の名前くらい覚えろよな───独り言を言いながら京都で撮った小嶋さんの茶室の写真を探した。

6月

iPhoneの写真の検索のところにそうキーワードを入れて探す。6月の写真がずらりと並ぶ。

新幹線の中で眠る父の少しやつれた顔。
京都駅をバックにピースする父。
小嶋さんのハイエースの中から見た嵐山。
小嶋さんが手掛けた数奇屋造りの家。
小嶋さんの茶室で掛け軸をバックにまたピースする父。

スワイプしていくと、写真が茶室の掛け軸や茶器に変わった。
年齢不詳のニンフみたいな小嶋さんを思い出す。小嶋さんの点ててくれたお茶。目尻の皺。愛らしいえくぼ。
小嶋さんの爪は短く切り揃えられてはいたが、綺麗に手入れされていた。
小嶋さんを包む霧のような木の香り。
なぜか勃起していた。

スワイプし続けると、茶器に父の手のようなものが写ってしまってもいた。

それでも香りが僕の記憶を埋め尽くす。
コーヒーの香りがそれを加速させてもいた。
秋の雨が激しく窓を打ち付ける。

僕はそのまま小嶋さんのえくぼだけを思い出しながら自慰に耽っていた。
グールドがハミングしながら延々にバッハを弾いている。

ティッシュにベトベトした白い僕の一部を思い切り出した後、何気なくまた画面をスワイプさせた。

背の高い僕、脳天気そうに白い歯を剥き出しにして笑う父、黒縁メガネに少しヤニで黄ばんだ歯並びの良い爽やかな笑顔の中年男。

小嶋だ。

西の空で雷鳴がした。

※全5話連作です。

いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。