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太陽の男と月の女 第1話 月の女

全2話 七夕の季節の短編
6月が過ぎ去った7月の日曜日。サルトル仮称は辻堂の書店で風変りな女と出会う。

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第1話 月の女

 昨日は雨だった。日曜なのに夕方セルロースファイバー断熱の施工の件で西村さんと現場で打ち合わせすることになっていた。打ち合わせの前に、久しぶりに一人で本屋でぶらぶらしようと思い、現場近くのカフェが併設されている少し大きな本屋に立ち寄った。ニューヨーク三部作と呼ばれるポール・オースターの作品のうち、「鍵のかかった部屋」が欲しかった。目的の本はすぐに見つかった。その後少し、最近の日本人作家らの新刊が平積みにされているコーナーでパラパラといくつか立ち読みしていた。海外作家の文芸や時代遅れのような明治から昭和初期ぐらいまでの日本文学や思想の本が昔から好きでSNSで流れてくる最近の本や自己啓発書にはあまり興味が持てなかった。けれど日々流れてくるタイトルや写真が目につくので全く興味がないわけでもない。そんなこともあって、流行りのような作家たちの新刊をぼんやり手に色々取って眺めていた。あまり印象に残るものがなく、その後、1フロア下の実用書や自己啓発書フロアへ行くと、エスカレーターを降りてすぐの場所に「嫌われる勇気」という本が平積みにされていたのでまたパラパラめくっていた。
「あ、これ、面白かったですよ!普段からどんな本をどんな風に読まれているんですか?」
唐突に、見知らぬ女にそう言われて、俺は、しばらく呆気に取られていた。「新手の逆ナンかなんか?」と思いかけたが年齢不詳のその女は俺の顔をまじまじと見ながら、「今日は雨凄かったですよねー、わたくし、ハナオカハナコと申します。アラサーです!」と聞きもしないのに勝手に自己紹介をし始めてきた。俺はこの少しキチガイじみた逆ナンに薄笑いしそうになったが、必死に堪えて、「あー、そうなんです?僕も今年27になるんで、歳近いんすね」と適当に返した。女は江戸時代バリのおしろいのような白いファンデーションを塗りたくって真っ赤な口紅と太いアイライナーを引いていた。おかめ納豆の包装を思い起こさせた。それでも、彼女の月のような憂いをどこか持った瞳と鼻筋の通った綺麗な鼻のせいで、彼女自身の中に置き去りにされた孤独な美しさは隠しきれていなかった。「顔立ち自体はパーツが整っていて美人なのに勿体ないな」、と思っていると、おかめ納豆の女は、俺の手にしていた「嫌われる勇気」を取り上げ、代わりに名刺のようなものを渡してきた。その時は名刺を見もせずに名刺入れに入れた。
「わたくし、読書あまりしたことがなくって、オススメの本とかございます?その青い本以外で。少し、コーヒーでも飲みましょ」
「あ、えーっと、あんま時間ないんすよね」
「えー!良いじゃない!ポール・オースター男子。わたくし勧誘とかそういうんじゃなくって、ただの読書女子ですから」
そんな訳でかなり強引におかめ納豆の女と併設されているカフェに行かされた。7月なのに冬物の茶色いスーツに厚手の焦げ茶色のタイツを履き、黒いピカピカのピンヒールを履いていた。手には白いタクシードライバーのような手袋をはめている。店内は日曜日なのに俺たちとあとは2組の大学生ぐらいの男女のカップルしか居なかった。
「お決まりでしょうか?」
「んー、どれにしようかしら、とりあえず、ブルマンのブレンド2つ」
 おかめ納豆は俺に選択の余地を与えることなく、ウェイトレスの女の子にそう告げた。ウェイトレスの女の子は少し太っていて、ぴったりとした黒の制服のようなスーツに身を包み、官能的で完璧だった。一杯900円のブルマンブレンドを注文しているおかめ納豆は何故か腹話術の人形のようだった。それで俺はまた笑いそうになってしまい、必死に堪える為に窓の外を眺めるフリをしていた。コーヒーが持って来られるまでの5分間、二人は黙っていたが、おかめ納豆は俺を上から下まで品定めするかのように見ていた。完璧な女の子がコーヒーが持って来て、にっこりとおかめ納豆に微笑んで、奥へ戻って行った。俺は心底憤慨しそうになった。そうして、おかめ納豆のマシンガントークが始まった。詳細は書くとかなり長くなる為省くが、要するにこうだ。「ハナオカ的にはどういうの読んだら良いかな?どんな本とかどんな作家のとかそういうのくわしーく教えて!」初対面でいきなり自己紹介し始めたと思ったら勝手にこちらのコーヒーまで決めた女だ。だから「ハナオカ的に」とか言われようが驚かなかった。
「うーん、そうっすね、、、いきなり言えと言われてもアレなんすけど……。僕結構偏ってますし」
「えー!かわいい!オースターとか手に持ってたじゃない?海外モノが好き?」
「まあ、そっすね」
「へー!やっぱりねぇ、あなた日本人?ハーフ?」
「ハーフっすけど」
「やっぱり!で、海外モノが好きなんだ?どれ?1番好きなというか、読むべき!みたいなの、教えて」
俺は図々しいこのおかめ納豆に心底教えたくなかった。おかめ納豆じゃなくてコーヒーを持ってきてくれた完璧な女の子が仮に聞いてきてくれたら、俺がどれほどアントニオ・タブッキやフェルナンド・ペソア、サン=テグジュペリらが好きか死ぬほど語って、ポルトガルの海の一節を暗唱してあげて、続きを読んであげるからデートしようって言ったのに、今、俺に聞いてきている相手は、おかめ納豆の方だ。世の中思い通りには行かない。
「サルトルとかカミュとか、ヤスパースとかキルケゴールとか。ですかね」
適当に知っている名前の哲学者を列挙しておいた。
「ヤスパース、哲学的思惟の小さな学校ならわたくし読みましたわー、これでもわたくし、哲学科でしたので。今は主婦!でも仕事もしてますけど哲学とは全く関係のない外回り系の」
「あー、なら、僕なんかド素人で独学っすから、専門家なんすね。」
俺は少しだけハナオカの氷山の一角を理解した気がした。外回り系、やっぱり、保険の勧誘の人かなんかだ。
「他には?なんか文学とかでお願い」話し方がいちいち感に触る女だなと思いながらも、出来る限り温和にやり過ごすために、笑顔を振りまいておいた。
「文学だったら、うーん、僕も他人さまに教えれるほど読んでないっすね!むしろ教えてほしいくらいっすわ」
そこまで言った瞬間に、俺は間違いを犯したことに気付いた。
「うふふ、じゃあ、お友達になりましょ。あなたかわいい人ね」
俺は飲みかけのブルマンブレンドをそのままにして、その場を立ち去りたかった。「初対面でこんな事言うのはやっぱりキチガイかなんかなんだろう。でもおかめ納豆なら納得するわ」と言いたかったが、そんな事できるはずもなく、無理矢理LINEを交換させられた。どうせブロックするからいい。おかめ納豆はすでにコーヒーを飲み終えていた。お冷も空っぽだった。
「すいませーん、お冷、お願いします」
 俺の完璧な女の子に向かって偉そうにそう言い放つおかめ納豆を死ぬほどアイスピックか何かでズタズタにしたかった。俺はまた窓の外を眺めた。雨が激しくまた降り始めてきていて、窓には俺とおかめ納豆と完璧な女の子が映っている。完璧な女の子は俺の顔をそっと撫でて俺と唇を合わせておかめ納豆が見つめる中で俺と激しくセックスする。完璧な女の子に最後しゃぶらせておかめ納豆の顔面に射精して俺は完璧な女の子と二人で店を後にする。そんな馬鹿げた妄想をしてたら、おかめ納豆がいきなりピンヒールで俺の股間に触ってきた。
「君、わたくしと寝たいの?」
「まさか。僕は既婚者ですし、それにもう行かないと。仕事絡みで人と会わないといけませんので」
「あら、残念、じゃあ、わたくし、これでお先に失礼しますわね」
あっさりとおかめ納豆は席を立ち上がり、伝票も持たず、そのまま何処かへと去っていった。ウェイトレスの完璧な女の子を呼んだ。
「お会計お願いします」
「1980円になります」
完璧な女の子はニコリともせず伝票を俺の手から引ったくって行った。カフェを出ると、まだおかめ納豆がいた。「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」を手にした禿げ上がった80代ぐらいの老人に俺と全く同じようなことを延々と語りながら、禿げ頭を撫でまわしていた。俺は禿げ頭とおかめ納豆を横目にLINEのおかめ納豆をブロックして、少しホッとしながら本屋をあとにした。
 約束していた打ち合わせで、新築現場に着くと、既に西村さんが来ていた。西村さんは清潔感溢れる精悍な顔つきの男だ。一つだけ残念なのは彼がカツラを時々着けるという点だ。毎日ではないのだ。禿げたり生えたりしている。今日は湿気が高いという理由からなのか禿げの日だった。
「雨、ひどいねえ、とりあえずさ、現場監督変わるよ、聞いた?」
「いや、聞いてないっすよ」
「急に変わるらしいわ。監督の補佐してた女の子が監督するってさ」
 何故か俺は嫌な予感がしたが、気のせいだろうと思うことにした。打ち合わせは1時間かからず終わった。俺は新しい監督があのハナオカハナコでない事を少し願った。今朝、現場に着くと一台の軽乗用車が停まっていた。きっと現場監督だろうと思い、缶コーヒーを飲みながら、今日の段取りをトラックの中で確認していた。軽乗用車の運転席のドアが開き、スーツにヘルメット姿の女が見えた。「可愛い子だといいな」と思いながら、視線をそのままにしていると、冬物の茶色いスーツに厚手の焦げ茶色のタイツと黒いピカピカのピンヒールが見えた。ハナオカだ。

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