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【#しおりを挟む】Ep.1:若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』③

こんにちは。

思いがけず、長いnoteとなってしまいました。以前の①と②についても、以下にURLを掲げますので、よろしければご参照ください。今回もよろしくお願いいたします。


◯◯さん、こんにちは。

今回で、若松英輔さんのご本についての「事前の」お手紙は、完結させたいと考えています。書ききれなかったことは、11月13日(日)に、(Zoomで)お会いした時にお話ししようと思います。ご了承ください。

以前の2通のお手紙では、
①ぼくが本を読めるようになった理由がわかれば、今本を読めずに悩んでいる人に寄与できるのではないかと思っていること、
②読書とは、自分を外と内に向けて開いていく、「世界との関係のレッスン」ではないかと考えていること、
についてお話ししたつもりです。

そして、今回の第3信では、読書は自らを、「世界」に対してだけではなくて、「幸福」に向けても開いていくものではないかと考えていることを書いてみようと思います。しかしもちろん、読書が「最も」有効とか効果的であるとか、あるいは「唯一の」方法であると申し上げるつもりは全くありませせん。先述しているように、そうした方法や手段は、世界に満ちていると考えます。

また、ぼくがここで、あなたにとっての「幸福」とは、こうこうであると固定するつもりはありませんし、その権利や資格はないものと考えています。さしあたって、「仮設」的に申し上げてみると、人生を「充実」させることが「幸福」であることとつながっているのではないかと思います。

ここからは少し、昨今の読書(論)「ブーム」への批判的なことに進みます。実際、若松さんのご本でも、そういった記述が若干見られます。昨今の読書(論)ブームで吹聴されている「成功」とは、ぼくが考えている「幸福」ないし、人生の充実ということとは、ちょっと違っているからです。むしろ、そうした読書論または読書法は、ヘタをすると、読書(の楽しみ)から、人を遠ざけてしまうことさえあると、ぼくは考えています。ぼくが考えているのは、あくまでもその人の「身の丈に合った」「楽しい」読書というものです。昨今の読書論(ないし、読書法)は、そこから人を遠ざけてしまうのではないかと憶測しています。

若松さんに同意できる点を挙げると、読書には「正しい」方法があるとは思わない方がいいということです(もしかすると、「まちがった」方法はあるかもしれませんが)。昨今流布している、「正しい」あるいは「よい」とされている読書とは、
①速く
②たくさん
読み、③一度読んだら(極力)忘れない、ということだろうと思います。もちろん、仕事の上でそれが要求される場合はありますので全て退けるつもりはありませんが、そればかりを「正しいこととして」目指すのは、ちょっと違うだろうと思います。代わって若松さんが提起されているのは、「たしかに」読むということでした。

ここで挙げた、「たしかに」読むということ、それから、「楽しく」「深く」読むということが、読書に際しての「理想」です。それを「喜び」としてページを繰る、出会った章句に人生の支え、人生の伴走者を見出すようにも、本は読めるのではないか。そんなことを、13日にはお話しできるといいなと思っています。よろしければ、「あなた」のお声もお聞かせください。

それでは、「前置き」はこれくらいとして、13日を待ちたいと思います。最後までお読みくださって、ありがとうございました。

しょうじ拝


「手紙」noteの①、②及び、上掲を前提にして、さらに13日は展開して「語り下ろ」すことができればと考えています。それはZoomで収録した上で、YouTubeにも登録しますので、ぜひご参照くださいますようお願い申し上げます。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!






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