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痛くて怖くて醜くて醜悪で不細工な鎧の相談事

ふと思うのだが、今の時代多くの人が「ペルソナ」なしでは生きていけないのではないだろうか。自分に正直に、まっすぐに生きる人間には、ずいぶんと生きずらい世界になった。
昔から生きづらさは感じていたし、「正直に生きる」といろんな人に騙されて終ぞ人間不信になっていることも、否定はしない。
それでも僕は「鎧を着こむ」ということを、極力しないように心がけている。それは、僕の人生を生きる生き方に反するからだ。

人に必要とされるには、何が必要だろうか?成績か?力か?名誉か?権力か?君は、何もをもって恋人を選ぶのだろうか。その答えは、結構単純で分かりやすいものかもしれない。
僕が同年代に質問すると、「顔や金」と正直に答える人は結構少ないと思う。でも、みんな心の奥底では「美人」「かわいい」「金持ち」と思っていながら、それを口に出すことを憚る。なぜだろう。

小さな鎧で薄皮一枚、世間体を気にした一枚の薄皮なのかもしれない。でも、似たような問いかけに常に「薄皮一枚」を継ぎ足していく。それは、まるで老舗定食屋秘伝の甘辛たれのように。徐々に濃厚に、濃く、複雑な味わいになるタレと同じ。薄皮は、徐々に肥大化していき気が付いた時には、自分の体を覆い隠してしまう。まるで、大けがをして前進包帯まみれになった主人公のように。

物理的な鎧なら、結構簡単だ。壊して脱げばいい。でも、そう簡単に問屋は降ろさない。だって、その薄皮の鎧は表皮と一体化するように引っ付いて離れないのだから。生きるために必要不可欠な物になってしまい、自分でコントロールできる領域に収まっていないのだ。
その薄皮で作られたペルソナという名の、強大な鎧は自分の人生において必要不可欠になる。人を見るとき、僕はいつも「この人はどこにいるのだろう」という感覚に陥る。人間不信が入っているので仕方ないが、それでも「今誰と会話しているのか」と怪しくなる時も多い。

それくらい、僕と同年代の人は「ペルソナ」が分厚くて、大変そうだ。その分厚い鎧がないと、きっと生きていくことはできない。そのペルソナが無自覚のうちは幸せだ。でも、自覚してしまうと「俺の人生は何だったのか」と、相談されることもある。気が付いたらダメなんだ。

その人は別に生活に困ることはない。年収だって高くて、平均年収の倍近くあるし、美人な奥さんと子宝に恵まれている。趣味だって、いくつかある。性格は、少し人に優しすぎる嫌いがあるが、自分の芯がある人だった。
でも、ふとした瞬間にどうしようもない焦燥感に駆られて「自分の人生の無意味さ」を嘆くと、何故か相談される。なぜ10歳も年下の僕にそんな相談をするのか不思議だったが、「お前は表裏がないから」と面と向かって言われて逆に驚いた。

普通、こういうデリケートな相談は「表裏のある人間」にするべきだからだ。だって、そうしなければ「優しいほしい言葉」は投げかけてくれないからだ。僕は正直に「ほしい言葉なんて、言えないですよ?」と前置きをして話を聞いてみた。

結局、自分の人生を生きてみましょうよと、僕は話をしてみることになったが。結局のところ、「優秀」であるのはそう見えるように努力したから。人と競争して、そこで勝つことでしか自分を保つ方法が見つけられなかったから。家族がいるのに「孤独」を感じるのは「本当の自分」という、幼き自分を見失っているからでした。

本当の自分というのは、常に正直です。くだらない欲求もあれば、感情に振り回されるだけの幼稚園児のような側面もある。それを、理性とよくわからない常識と、自分で無意識に課したルールで縛りつけている。その上に、薄いベールを何百枚と重ねていくんだ。僕がしたのは話を聞きながら「薄いベールをはがす」という作業。別に難しいことはなくて、先輩の話を聞きながら淡々と、言葉を投げかけていく。

相談が終わって、いろいろと問題を解決した後に「あの時のお前は感情がなくて怖かった」と言われて、少しだけ反省した。そういえば、僕も「感情を模倣する」という、汚らしい分厚い膜を作って張り付けていたのだった。すっかり忘れていた。

こんな感じで、だれもが自分の薄膜に築かずに生活している。高度監視社会だ、過ごしやすい社会だという。でも、ふとした瞬間に思わず身投げを考えるこの世界は、僕のような人間には生きづらいな。
改めてそう思った。

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