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エッセイ;山道の思考

一面に広がる大パノラマ。360度、見渡す限り一切人工物がない。人の介在しない大自然が、僕の眼下には広がっていた。ありのままの大自然が持つ莫大なエネルギー、その偉大さを思い知らされる。その地に根を張り、どっしりと構える木々には、ある種の神秘性を感じ取ってしまうほどだ。

山頂から、その努力の結晶ともいえる頂の景色を眺めていると、不思議な気分になる。達成感、とはまた違う。何とも言えない、不思議な心境だ。頑張った、疲れた、というよりもポッカリと穴が開く感覚だ。「今日も疲れたね」「お疲れ様」「景色がいいね」「がんばったねぇ~」なんて、周囲の声はあるけれど、僕にその声がかかることはない。
何故なら、僕の登山は一人だからだ。

一人、登頂という目的に対して、ひたむきに向き合う時間でしかない。
登頂するという目標を達成して、次は何をしようか。そう思い迸る心に対して、感情が「もう、体が動かない」と悲鳴を上げる。悩みも何も感じない、晴れやかな心境なのに、なんだか少し残念な気分だった。
もちろん、それがとても贅沢な悩みだとは、自分が一番知っているが。だからこそ、なんだか不思議な気分になる。

「人生は登山に似ている」

誰の言葉だったろうか、本格的に登山をするまでは「知るか」と思っていた。正直な話、人の世の生きづらさを登山に例えられても、欠片も理解できなかった。僕には、子供ころ登った山の記憶しかなく、それはとても満足できるものだったからだ。少なくとも、思わず呼吸を止めたくなるような衝動は生まれなかった。

必死にパソコンと数値に向き合い続けた学生時代。データから何を読み取り、数式を弄り回した。その結果に一喜一憂し、学ぶことの楽しさを、その身で実感していた。就職してからは、なんとも無気力で非生産的な生活が始まった。

何が楽しくて、何のために仕事をして、何処に希望を持っていたのか。自分自身、明確な答えが見つからない。
少なくとも、学生時代のような充足感も、達成感も、目的も目標もなく生きている。ただ、趣味に没頭して時間を潰し、無為な日々を過ごした。

そんな折、僕は導かれるように山に行く。キッカケは、ただの逃避行だった。人間という種が嫌になって、その成果である人工物が見たくなくなった。なんでもいいから、誰もいない場所に行って、一人でのんびりしたかった。

近年は、キャンプ場に行くときまって誰かがいる。野宿をするには、企業勤めの会社員だと面倒だ。バイクで道を走ろうにも、街中をかけらでも通ると、車がいて正直楽しくない。現代人の悩みは、「一人」になれる場所がないことではないだろうか?

そう考えたとき、山の中で孤独になるか、海中に埋まるか。その二つしか選択肢がなかった。「ダイビングは金がかかる」という事実を知って、必然的に僕は山に向かった。何か、悪霊に取りつかれたように、山に向かったことを覚えている。

煩わしさや悩みから解放される、なんて心ではなかった。ただ、「これで終わる」という、何か希望めいたものを感じていた。何が終わり、何が始まるのか。それは、山頂に行くまでは誰も知りえない、そんな小さな人生ドラマが始まった。

そして、それは別の形で叶うことになる。

近場の山々を検索し続けて、1時間ほどで到着できる場所にいい感じのハイキングコースを見つけた。山の尾根を歩くハイキングコースで、一つの山を登頂して、そのまま峠に降りるという道のりだ。そのハイキングコースだけだと、なんだか物足りない気がしたので、更に距離を延ばすことにした。

登山口付近の駐車場にバイクを止めて、さっそく歩き始める。最初は余裕綽綽で、暢気に歩き始める。履きなれたスニーカーで、ちょっとした悪路を進む。元気がいいのだから、多少道が悪くても気にはならない。
小学生も歩ける道なんだから、簡単に行けるのは当たり前だよな。そんなことを思いながら、淡々と前を見据えて歩いた。一つだけ気がかりだったのは、「水がない」「熱い」この二つだけ。

水がないことに関しては、自販機で購入すればよかったんだが、金欠なバカだった僕はそこをケチった。これは、酷い後悔の始まりに過ぎない。

登山が始まれば、目の前の道と向き合うだけだった。非常に簡単な作業で、単純なことだ。ただ、整備されたアスファルトではなく、むき出しの岩や滑る砂利、腐葉土の上がメインだった。少し歩きづらさを感じながら、トコトコと歩く。普段歩く速度で歩くと速攻で疲れると思ったので、普段の8割程度の速度で歩いた。それでも、ほかの登山客をグングン追い抜いて行った。

山行で考えているのは、今にすれば、本当に下らないことだった。「なんで生きてるんだろう」「何がしたいんだろう」「生きてて、何が楽しんだろう?」なんてこと。本当に、これだけを考えて山を登り始めた。時にため息をついて、時には泣きそうになりながら、ほぼ整備されていないような道を歩く。(今では整備された登山道だと判断できる。)

面白いもので、時折すれ違う人は、皆笑顔で挨拶をしてくれる。普段は「ぉふぁぉうございまぁふ」なんて、まともに挨拶もできないない僕。不思議なことに、ここでは「おはようございます」と、仏頂面であいさつができた。同じ挨拶なんだけど、何が違うんだろうか?心のありかだろうか。心の在処だとすると、それはきっとベクトルの問題だ。向きと大きさ、その両方が普段とは全く違うのだろう。ただ、決定的に違うのは向きなのかもしれない。

心の向きを考えようと、思考を加速させた。普段は、自分を見ているのか、他人を見ているのか。何がそんなに、面倒だと感じるのか。何が嫌なのか。自分が、他人に何を期待しているのか。自分自身には、何を求めているのだろうか?
そんなことを考え始めて数十分、僕はそれどこではなくなった。

目の前に、何か大きな岩があった。それは、まごうことなく岩だった。風化し、人に踏まれ、かなり欠けて痛んでいるけど、どう見ても岩だ。迷うほど迷宮でもない、小学生でも歩ける山道。その途中に、どれだけ目をパチクリさせても、やはり目の前に岩がある。

少しフリーズした頭を振り、僕は足をかけてその岩を登る。実際には、ただの岩肌だ。目の前に急に登場され、脳が現実を拒否しただけ。とはいえ、平坦な道やちょっとした階段、木の根とは違う。思い切り足を上げて、何の意地か手をつかないように岩肌を登る。置いた足が、小石や砂利で滑らないか確認し、時には踏み固めるようにして、慎重にのぼった。自分が億秒でちっぽけで、すごく馬鹿な人間であることを再確認しているような、そんな気持ちだった。

息が切れて、呼吸が苦しくなることにそんなに時間はかからなかった。「はぁ、はぁ、はぁぁぁ」という、自分の声だけが脳裏にこだまする。僕の息切れ音は大きくないというのに、その音だけが頭に入る。すごく気持ちの悪い感じがして、少し周囲を見渡して、息をのんだ。何もないのだ。

人間も、人工物も、動物も。そこにあるのは、物言わぬ植物と、時折吹くそよ風のみ。樹林帯と呼ばれる、木々の生い茂る場所では、実は風が吹かない。木々が邪魔だから、当然だった。考えればわかることだが、ここにきてそんなことに気が付いた。「へぇ~」なんて興味深く声を漏らしたけど、普段なら「なんで気が付かないんだろうね」と馬鹿にしているだろうなと思うと、滑稽に思えた。

乾いた、微妙な笑みが僕の表情に張り付いた。
意味なんてない、ただ乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
それくらい、頭が回らないし、悩みもない。さっと吹いた風が、それまで抱えていた鬱々としたナニカを、勢いよく運んで行ったようにすら思えた。

少しだけ軽くなった心が、そういえばと思い出した。イヤホンも、ヘッドホンもなく外を歩いたのは、ずいぶんと久しいことだった。スマホがなくても困ったことは少ない。だが、外界音を遮断できず、困ったことは山のようにある。それが、今は困らないのだ。何も音がせず、人間がいない場所って、自分にとって凄く居心地が良くて、いい場所だと思った。インターネットも繋がらない、不便な場所ではあるが。迷子になれば、地図見てどうにかするしかない。

そんな新しい発見に心を躍らせることができる時間は、実際のところ僅かだった。理由は簡単で「暑い」のだ。気温が想定外に上がってしまい、外気温が22℃を超え始めた。当初予定では、15℃程度だったので、この温度差は正直異常事態だ。この日の僕は、冬用のパーカーを着ていた。つまり、普通に厚着をしているのだ、気温に対して。ベトッとしたまとわりつくような汗の不快感を強く感じながら、僕は片道2時間の道を歩くことになった。要所要所で、木がなくなりチョコチョコと日が差し込む。最初のほうは、「気の木漏れ日が~」なんて、余裕があった。ただ、太陽が当たると一時的にだが表面温度が一気に上がるのだ。お洒落さんなら、洋服の色にバリエーションがあるだろうが、僕は黒一択。太陽光を一身に吸収して、すでに暑いと悲鳴を上げているなか、更に太陽光の熱を蓄えようとする。

「むりだ、もう帰りたい」
僕の心が悲鳴を上げるのに、時間は必要なかった。一度発した言葉は戻らないというが、一度吐露した心の衝動というのも、戻らない。一度口にしてしまうと、何故か抑えきれずに次々とあふれ出す。

「なんで山にいるんだっけ?」「なんで登山してるの?」「いや、歩きにくいわ」「自然のマイナスイオンって何だろう?」「疲れた」「歩きたくない」「何が楽しいんだろう、登山って」「もう疲れたな、登山」

そんな、身もふたもない愚痴のような感情があふれ出る。ただ、残念ながら愚痴をこぼし続けても、僕の登山に終了は来ないんだ。歩かないと、前を見なくてもいいから進まないと、残念だけど救いは来ない。この旅路の最高で最低なところは、終わりがあることだ。その終わりはある種、可視化されている。だからこそ、僕に絶望を与える。一歩一歩確実に歩みを進めようとも、残念ながらゴールすることができない。

むしろ、ゴールが遠ざかっているような感覚を、僕に与えるんだ。不思議なものだ。ゴールさえ見えれば何とかなる、そう思っていたはずなのに。今は、その可視化されたゴールが自分の心を、情け容赦なく抉ってくる。こういう感情を抱いたことを自覚すると、僕は凄く「ああ、人間だなぁ」なんて思ってしまう。立ち止まって「ふぅ」と息を吐いて、少しだけ手を見る。

汗と途中で触った地面で汚れた、少しゴツイ手がそこにはある。確認するように、数回開いては閉じる動作を繰り返し、自分の中で何も変わらないことを確認する。「おおぉ、やっぱり人間なんだなぁ」と、つぶやいた。
偶然通りかかった老夫婦に、ギョッとした視線を向けられたが、何のその。どこ吹く風で、僕は無理やり体を動かし始めた。

うん、やっぱりいつも通りだ。この偏った、捻くれた面倒な思考回路もいつも通りだ。安心した、この状態でも人間らしいぞ、僕は。

よく友人には「お前は主語がでかい」といわれるが、こういうことなんだろうなぁと思う。でも、仕方ないではないか。普段は「変人」「宇宙人」「キチガイ」と口をそろえて、みんな言うのだから。あまり、「君は普通だ」と言われることはない。だから、つい「この人たちは同じ人間なのか?」なんて思うんだ。でも、こういうことがあると「ちゃんと人間だなぁ」と納得できる。不思議だ。それに、この「人間らしさ」を実感しているとき、たいてい僕自身は苦労している。苦労して、どうしようもなくなって、何かを嘆いているときなんだ。面白い。

「人間が嫌いだ」と公言している自分でも、「ああ、人間なんだ」と思うと、こうも安心できる。帰属意識など、とうの昔に捨て去ったものだと思っていたが、一応残っているようだ。安心する、ということは何か心の中で重要なことなんだろう。考えても、「何」が引っ掛かっているのか、わからなかったが。そも、考えるより先に「登山辞めたい」という感情が先に走る。

体の疲れというのは、基本的に心を凌駕するらしい。小説では、精神が肉体を凌駕するシーンが大量にあるが、基本は逆なんだ。体が疲れたら、心も休憩だし、体が疲れたら、心が元気でも行動できないんだから。

そんな、至極当然の事実を確認しながら、疲れ切った足を動かす。小学生を追い抜いて、グループで登山している方々を追い抜いて。疲れた体に、鞭を打ちながら進んでいく。考えるのは「いつまで山を登るんだ」ということだけだ。本当は、山頂で優雅に本でも読んで、下山しようと思っていた。でも、この両手だと無理だし、何より早く寝転んで寝たい。いや、「本当に何のために登山しているんだろう?」という、意味のない問いをかけ始めた。

実はこの時、山頂まで残り10分くらいだった。この登山ももう終わりだな、佳境だなという場所なのだと、山頂に到着して初めて知った。ただ、当時の僕は「早く山頂で楽になりたい」という、そっちばかりに思考が、割かれていた。目の前の事実を淡々と受け入れて、もう無理だ、いやだという体を動かして、歩いていた。自分が「限界だ」「もう無理だ」と思っても、意外と元気なんだ。自分の体って、命令すれば動くのだから。自分が諦めが早くて、自分のことすら見れていないのか、よくわかる。

「はぁ、自分のことすら中途半端だなぁ」なんて思いながら、僕は淡々と歩いた。最後は、ずっと階段を登った。膝が痛かった、腰が悲鳴を上げ始めた。置いた左足が、急に曲がってバランスを崩した。足を持ち上げようとして、重心が嫌な傾き方をした。呼吸が整わなくて、酸欠で気が飛びそうだった。ふくらはぎが限界で、足の力だけでは体を持ち上げられなかった。膝についた手が、汗で滑る。いやな感触と共に、背筋が凍って反射的に重心を下げて、転倒だけは回避した。転んだら、絶対に起き上がれないという確信だけはあった。

登頂という目標を達成するのは、思ったよりも大変だったらしい。何事も、準備をしないと、下調べをしないと。そして、ちゃんとした心構えで挑まないと、すぐに疲れてしまう。それは、肉体的、精神的にも疲れてしまうのは、当然だった。
いまさらながら、僕はそんなことに気が付いたのだった。

人生と登山、その二つを同列視して表す理由は、未だ明確にはならない。だって、「人生のゴールはないだろう?」ということが、ぼくの意見だ。登山は、登頂か、途中の見晴台などの、任意でゴールを設定できる。でも、僕らの人生は、「死んだらゴール」なんだ。それは、ひどく恐ろしい登山ではないだろうか?

ただ、ふと思ったのは「人生って今回の登山と一緒」なんだろうなと思う。「社会は厳しいぞ、大人の世界は甘くないぞ」
そう言われ続けて、育った子供は多いのではないだろうか?だが、実際のところ、その「辛さ」を学んで、知って社会に出る人は少ない。社会に出たら、良くわからないし、可視化もできない、縛りが増えるんだ。然も、色眼鏡を始める、様々な偏見が「自分」という存在に纏わりつく。
アルバイトや、インターンでは知りえない、「学生」「社会人」の違いを、思い知らされる。

正直、バカみたいな生きづらさを感じても、文句ないだろう?
学校や教育機関は、社会での生き方も、知恵も、辛さも教えてはくれない。
自分で開拓する方法も、向き合い方すら教えてくれなかった。

そうすると、僕のように初めは少しだけ「達成感」のようなものを感じるかもしれない。でも、体が疲れて、それを無視して、今度は心を消費する。
その先に見える未来は、はっきり言って真っ暗だ。

「もうやめたい」と思っても、「仕方ない」という言葉で、自分の辛さも、悲しさも、むなしさも。全てを飲み込んで、生きていくしかない。
それは、圧倒的に不利な戦いの始まりだった。

今回の登山では、登頂という目標があった。ただ、人生の目標と聞かれても、僕は明確な回答を持っていない。どうしたらいいのだろうか?

表面的過ぎて、その答えを持つことはできなかった。明確にありたいビジョンを描くことは、難しいだろう。だから、まずは明日に希望をもって生きるしかない。疲れた体、疲れた心、すり減った精神。この状況を緩和して、自分の道を歩き始める必要があるのかもしれない。

僕は今、人生の岐路にいるのだろう。
考えついた先でどのような選択をするのか。でも、あの日、導かれるように登山をした日。僕は一つ、学んだ。

「自分でした選択は、不安や不満はある。後悔も、ないとは言えない。でも、得るものが絶対にある」

これは、間違いないだろう。何を得るのかは、自分の行動と考え方次第だ。流されず、自分のための道を選択していく勇気と行動が、今の僕には必要なのだろう。

どれだけ続くのだろうか、この人生は。一つだけ、この登山で分かったのは、自分の生き方だ。僕は、自分の為の人生を、自分らしく生きていく。
そうしなければ、明日を楽しく満喫するという、簡単な人生目標すら達成できない気がするから。

明日笑って、最高の一日にするために。まずは、今日という日を全力で駆け抜けて、幸せになってみようではないか。

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