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辛く悲しく耐え難い時には本を読むと救われる

こんにちは、レイです。

人生って、生きづらいじゃないですか。その原因は様々なものがあるんですけど、僕は「自分の物語を生きれていなかったとき」が一番つらかったです。

人生、生きづらいよね。呼吸もできないくらい、明日に希望が持てないくらいに、つらいですよね。
毎日が、楽しくないですよね。同じ景色、同じ感情、同じ思考に、変わらない自分。動けずに、ずっと足踏みして何となく流されている、そんな自分。
大嫌いですよね、世界が。楽しくなくて、面白いこともなくて、希望もない。世界は常に自分の敵で、脅威で、立ち向かう勇気もない。でも、一番大嫌いなのは、わかっていて行動できない自分ですよね。

生きづらいし、何もかもが大嫌い。それで、考えることをやめて、逃げて。
その先で、同じ壁にぶつかるんだ。生きづらさっていうのは、問題を先送りにし続けても、結局は立ち止まることになってしまうから。

だから、簡単に解決できないんだ。難しい問題なんだと思う。

だからこそ、解決するために全力を尽くす必要がある。
自分が幸せに生きるために、必要な能力とモノを手に入れよう。そのために、僕は読書という最強の自己投資を強く進めたいと思います。

読書というのは、失われたあなたを取り戻す為の行いです。
自分を取り戻して、充実した毎日を送りましょうよ。このnoteを見た、今が行動の時なんです。今こそ、自分を取り戻すときなんです。

ただの幻想?勘違い?思い違い?
そう思われたって、問題ない。
だって、「自分を見失って、生きる意味も価値も見失っている状態」よりは、全然マシだから。明日に希望をもって、自分の人生を歩けることのほうが、何倍も幸せですよ。

退屈な毎日、下らない疑問、やる気のわかない日常の繰り返し。
そんな、光も何もない人生を再度送りたいとは、僕は思いません。今のほうが、毎日楽しいし、色づいているからです。

誰かの視線や、誰かの評価を気にして生きたって、もったいないです。
本当のあなたを見てくれて、本当の自分を見失わずに生きていきましょう。

後悔のない、充実した毎日にするために。
見失って、取り逃した自分を、この手に取り戻していきましょう。
今回のnoteは、自分を取り戻す第一歩になります。


「結果を知っていれば良い」という生きづらさ


簡単に言ってしまうと、僕らは「答えを知れればいい」という状況に陥っているんだ。失敗しなければいい、集団の中で下にいなければいい。そんな思いをもって、行動している空っぽな人が多い。
それだけの価値観で、「成功したい」とか「優れたい」という、強い意志や思いはないように感じる。

それは、「周りがそうだから」行動しているだけで、本心からの叫びなのだろうか?どうにも、同調圧や空気を読んだ行動に思えてならない。
そもそも、「失敗できない」という思い込みはどこから来たのだろうか?

正解は正義で、間違いは悪という教育

今の若者は「失敗できない」という問題が、ネットニュースですら取り上げられている。「失敗できない」という、この思い込みのような強迫観念は、どこからきているのだろうか。

それは、学校教育や親の教育からだろう。大人に過剰なまでに守られてきたぼくたちは、あらゆることにおいて「できて当然」なことが多い。テストで80点取るとか、偏差値が60以上だとか、そんなことすら「当たり前」と判断される。不思議で、とても窮屈な世界で生きている。

親や町、学校という大人たちに、非常に制限された環境を用意されている。その中で、何か自分で選んでようで選択させられて、「成功するような挑戦」をし続ける。結果、「安易に失敗できない」状態になる。

集団心理も実は邪魔

僕がよく言われたのは「なんで普通にできないのか」「なんでお前だけできないのか」「なんでお前だけ」と言われ続けました。正直言えば、「知らないよ」と心は叫んでいたのですが、「ごめんなさい」と謝るばかりでした。

本当に窮屈で退屈でした。何より、「面白くない」ですよね。
集団の誰もができるから「できて当たり前」だ。同じ年頃の人ができるのだから、「できないはずがない」という、親や教員側の思い込みや願望が、子供たちの生活をひどく脅かすんだ。

「怒られる」「叱られる」ことに、必要以上に恐怖をしてしまいます。そして、「集団に馴染めない」と、なぜか怒られる。簡単な失敗ですら、怒られたり、場合によっては居残りの対象になったりします。
それは、集団の雰囲気や、明らかな嘲笑、苛めという形で可視化されていきます。

それを見てまたは肌で感じて育ったので、「失敗したくない」「周りと同じくらいのスペックでありたい」と思うのは、至極当たり前でした。

結果だけを見る安っぽい人間ができる

過程ではなく、結果で評価される
これは、至極当然で当たり前のことだと思います。だって、努力しようが何をしようが、結果が出なければなにも始められないからです。

ただ、ここで言っているのは「成功」「失敗」どちらでもいいんですよ。もちろん、成功するのが理想ですがね。ただ、失敗していても「成功の方向に修正すればいい」という話で、難しいことはないんですね。一回落ち込んだだけで、その後はいくらでも変化させられるじゃないですか。

そこの、「何かしらの結果を出す行動をした」「考えて何かをした」ことが重要です。あなたのスペックが高ければ、最初から良い結果を出せるでしょう。でも、自分のスペックなんて、自分が一番理解しているじゃないですか。

ここで最初の、「過程ではなく結果で評価する」という所に話が戻ります。
結果だけを見るのであれば、いくらでもごまかせます。仕事でも学校でも。外注すればいいし、ネットで調べて適当にソレっぽく仕上げることもできます。それで、見た目上は完璧で、実際問題困ることはないでしょう。

でも、あなたが感じている生きづらさってこの延長線上にあるって気が付いていますか?

生きる能力が著しく劣る


「生きる能力」と定義したが、現代では「想像力」と「思考力」であると、僕は考える。自分で未来を想像して行動し、何が必要で何がしたいのかを、考えて言語化する能力だ。

この二つの能力がないと、ひどく生きづらくなる。だって、自分の感情や考えていることも整理できない。未来だって、何も想像できない。本能的に、嫌なことや避けたい未来は見えるから、お先真っ暗なことは想像できる。

でも、それだと「いやな現実」「大嫌いな過去」しか、自分の中に存在しないことになる。

退屈で空っぽな自分

「結果だけ知ればいい」の究極系が、空っぽな自分だ。
自分の中に物語や、経験がない状態を指す。そして、この状態で社会的な欲求。すなわち、承認欲などを満たそうとすると、非常に苦労する。

だって、「中身がない」からだ。中身がないというのは、自分だけの物語がない、という状態になります。
結局のところ、「ふとした瞬間に、空虚な自分に気が付く」という事です。
もう一歩踏み込んで考えると、「自分を見つめて対話する経験不足」とも言えます。

自分の中身が空っぽで詰め込めばいいのですが、知識や情報は詰め込みできると思います。でも、そこに何かあるかといわれると、実は何もない。

情報も知識も、誰でも簡単に手に入れて消費できる事実だからだ。特別なものではないし、何か進むこともない。自分の知識を増やしているが、そもそもの話、「そんなに知的好奇心が旺盛なのか?」となる。
そして、この答えは必ずNOとなるんだ。

表面上の結果で満足できない私がいる

最終的に「自分を見失い生きづらさを感じる」状態になる。
これは、「空っぽな自分を空っぽなまま考える」ということを、繰り返し続けた結果だ。正直言って、当然の結果だろう。

では、空っぽで満足できなくなるのはなんでだろうか?
それは、ふとした瞬間に自分を見つめる機会があるからだろう。他人のSNSと比較したでも、仕事の合間に思い浮かんだでも、何でもいい。
でも、隙間時間が生まれると、つい考えてしまうんだ。
その隙間時間が生まれないように、必死にSNSやネットサーフィンをしている。情報を入手して、何かに簡単になろうとする。

でも、僕も含めて多くの人は結果だけ知っても、空虚な自分になるだけだ。
だって、そこには物語がないんだ。しかも、表面の結果だけ知っていても、その奥に何があって、どんな理論で考えで何が生まれたのかまでは知らない。そんな、中途半端な状況になってしまう。

何かあっても、知識があるだけでは何もできない。むしろ、知っているだけで何かになることのほうが、圧倒的に少ない。

物語は経験で生まれる

結局、僕たちが生きづらさから解放されるには「経験」を積むしかない。何かを経験することは、そこに自分の感情と思考が生まれる。その感情と思考を、更に自分で見つめなおしてみることで、君の経験は濃く深いものになるんだ。

僕の言う「面白い人」というのは、やはり経験豊富だ。何事に関しても。そして、面白い人たちの話は、そこでしか知りえない情報が山のように詰まっているから、内容が深い。

この、人の深さとも、面白さともいえる物が、結局は人の中身なんだ。空っぽな状態では、この物語になる経験が足りなさすぎる。この物語になるような経験は、決して無料で簡単に得られるようなものではない。

実体験をするのが、一番手っ取り早い。それに勝つ物は、おそらくは存在しないだろう。だが、限られた資産と時間で、地球上のあらゆることを体験して、考えて、向き合うことは現実的ではない。

そこで、『読書』という選択肢がまるで天啓のように、舞い降りる。僕らの頭上に、一番星のように輝くのだ。

読書だけが僕らの生きづらさを救う


今現在、生きづらさを感じている人は、きっと検索くらいはしているだろう。ということは、既に「ブログ」「ネット記事」「YouTube」「SNS」くらいは試しているのではないだろうか?

だが、本気で聞きたい。そんな、ただの情報で、自分のこの生きづらさを改善できると、本気で信じているのか?と。舐めないでほしい。

少なくとも、僕の感じた生きづらさは、そんな軟じゃない。

読書がもたらす経験

本を読むというのは、「金を払って誰かの世界を買う」「誰かの頭の中を買う」「誰かの経験を買う」ということなんだ。それは、非常に価値のあることで、本来1000円で購入できるようなものではない。

ネットでも、似たような記事や内容を無料で得ることができる。でも、そこに乗っている情報とは、圧倒的に練度が違う。紙で出版されている本というのには、多くの人間が携わり、時間と労力をかけて出版している。

それには、とてつもない情報量が含まれている。決して無料で提供できるレベルではない。精査されて、鍛え上げられた情報というのは、一種の体験になるんだ。

その体験は、自分の体験として積み重ねることができる。ものとしては、とても小さく、か弱いものだろう。それこそ、チリ紙のようなものかもしれない。ただ、その小さなちり紙を積み重ねて、集めていったとき。
人生というのは、今の何倍も充足して光のある毎日になっている。

散り積もの読書体験

読書によって得られる体験は、非常に小さい。でも、それは最初だけだ。
徐々にその経験は大きく、深く根付くようになる。自分の中で、塵が小さな丘を構築したころに、急に「空っぽな自分」が姿を消すんだ。

それは、「対話する能力」が身についたからなんだ。ある意味では、「中身のない会話をしない能力」ともいえる。読書というコンテンツを、ただ消費して捨てるものではない。読書を通じて、考えて、感じて、自分と対話して。時には、作者と対話することで、新しく何かを得ることができるんだ。

その対話を積み重ねるうちに、空っぽだった自分の中に小さな丘ができる。その丘は、君の経験であり物語だ。本を通して体験したことに対して、君自身が考えて、感じたことなんだ。それを、自分なりに言語化して、さらに考えてみた結果なんだ。

小さな丘になったころ、それを初めて実感できる。読書というのは、他人を気にせず自分の為に、時間をかけて自分だけと向き合う時間だ。その時間は、とても濃密で自分自身を知って理解していくのに重要な時間になる。

自分だけの物語を歩み、自分の人生を考える基礎能力を築くことができる。

ネットや動画だとだめなの?

読書と言って、すぐに敵対勢力で出るのがインターネットで提供される媒体だ。ただ、一つ言いたい。

じゃあ、なぜ今の君は悩みが解決せずに、言いようもない悩みが蓄積して堆積しているのか?それは現状、君が安易かつ簡単にできる手法では、手に入れることができない、貴重なものだからではないか?

これに尽きる。
結局、その簡単に手に入って、わかりやすく誰かに与えられる。
その状況では、簡単にそれらを消費するし、自分の物にはできないんだ。

だから、読書でなければだめなんだ。もちろん、一定数の人間は、動画を見るだけでもいいし、適当にネトサしたら解決できる人もいるだろう。
でも、それで解決できないんなら。もう、本を読むしかないんだ。

コスパやタイパが悪いというが、同じ悩みを抱えて数日過ごして何年も引きずるほうが、何倍ももったいない。自分で解決する能力、その場をしのげる能力。自分を認めて、自分の物語を歩くことができる能力を、自分で身に着けて生きたほうが、何倍も生きやすいはずだ。

だから、読書をするしかないんだよ。本を読んで、練度の高い体験を得て、自分と対話して、咀嚼していくしかないんだ。そうしなければ、僕らはもう幸せになれない。

最後に


生きづらさは、様々なことが原因で感じてしまうものです。
現代病ともいえるかもしれません。
でも、それは自分だけの自分の物語を歩けば、改善できるものです。
もちろん、どうしようもないことはありますが。全ては無理でも、一部切除して、今まで一杯一杯だった心のバケツを、軽くすることはできるはずです。

そして、それは読書によってでしか達成できないと思う。
それは、自己啓発本でもいい。小説でいいし、わかりやすい物語がいいなら、ライトノベルでもいいだろう。
少し読める能力があれば、エッセイや伝記から入ってみると、かなり面白い。

読書だけが、この生きづらさに光明を与える。
少なくとも、僕はそうであると思います。

僕は、僅か20と少しの人生しか歩んでいません。
その中でも、何度も生きづらさに直面して、その度に考え込んで、悩んできました。時には、泣け叫んで、子供のように喚き散らして。
時には大人ぶって、旅に出て、意味もなく日向ぼっこをして。
そうして、たくさんの時間をかけて、自分と世界と向き合ってきました。

そんな僕に、常に答えとよりどころを与えてくれたのは「読書」でした。
小説でもいい、エッセイでもいい、SFでもいい。
まるで、本物の魔法使いのように、本が紡ぐ物語に救われてきました。
そして、そんな僕も今では自分の物語を自信を持って歩いています。
人からしたら、「不幸」だといわれるかもしれませんね。「寂しい人生」だと思われるのかもしれない。

でも、僕は幸せだし、今は充実した毎日を送れています。
そのために重要なのは「自分の人生を歩く」ということです。
本を読む、物語に触れるというのは、この生きづらさを意識して感じてしまう現代では、一番必要だと思っています。
もしも、生きづらさを感じているのであれば。
自分の人生を変えたいと思っているのであれば。
今からでも遅くないんです、動き出してみませんか?

レイに関して

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