河童狂騒曲
台所の扉を開けると、河童がいた。目が合った。扉を閉めた。
解放感に満ちた、爽快な朝のはずだった。両親は「結婚記念日なの」と気色悪いウインクを残して旅行に出ていて、わたし一人がこの家で我が物顔にテレビを独占してゲームに明け暮れたり、口うるさい母親の目を気にせず冷蔵庫に買いだめしておいたスイーツパーティを開催したり、お風呂に父親のプレーヤーを持ち込んで映画観賞会を開こうと思っていたのに、出だしから躓いた。
いや、あれは浮かれすぎたわたしを戒める幻覚かもしれない。そう思って再び扉を開いた。あろうことか、河童はまだいた。冷蔵庫の前に正座して、わたしが楽しみにしていたバスクチーズケーキをフォークを使って器用に食べている。床には手つかずのきゅうりが転がっていた。誰だ、河童はきゅうりが好物だとか言ったのは。転がっている空き容器はすべてスイーツだった。それ以外の未加工品や野菜なんかには一切手を付けていない。
「やい、河童。お前河童か。何の権利があって」、わたしのスイーツパーティを滅茶苦茶にするんだ、と言いかけたが、それより早く河童が土下座して頭を下げるので、わたしも言葉を飲み込んでしまう。
「大変申し訳ないんだぎゃ。あまりにも腹が減ったもんで……。悪気はないんでがす」
河童は口の周りについたチーズケーキをその緑色でてかてかとした肌の腕で拭うと、言い訳がましく言った。
「お前河童なのか」
わたしが訊ねると、「いかにも」と答えて胸を張った。薄い胸には肋骨が浮いていて、顔も頬がこけていて凄みがない。目も自信なさげで、所在なくあちこちうろついている。
「なんで河童がウチの冷蔵庫を漁っているのか分からないんだけど」
「それにはそれは深い、マリアナ海溝より深いわけがあるんでごんす」
河童の口からマリアナ海溝という単語が出てくることに違和感を禁じえない。だが、それよりも。
「どーでもいいけど、語尾統一してくんない? 気になって話が入ってこないんだよね」
「それは大変失礼したずら。ご容赦願いたいべ」
わたしは床に転がっていたこんにゃくを壁に向かって投げつける。びたん、という濡れた音が響いて、こんにゃくは壁を滑り落ちる。その跡はなめくじが這ったようだった。
わたしの怒りがこんにゃくによって伝わったのか、河童は妙な語尾はつけなくなった。
彼(河童はジェンダーは男だと主張した)の話を要約すると、河童の面倒を見ていたゴンゾウというじいさんがいたそうなのだが、二週間前にぽっくりと脳梗塞であの世にいってしまい、行政の人間があれよあれよとやってきてゴンゾウの住処を解体して撤去してしまったがために、河童は住むところも失い、食事もゴンゾウじいさんの世話になりっぱなしだから、魚の捕り方も分からない。よしんばとれたところで生食など恐ろしくてできない、と困り果てて街中を忍び歩いている内に、この家に辿り着いたとのことだ。
河童の話を聞いて、どうしたもんかな、と腕組みして考え込んでいると、外で拍子木を打ち鳴らして、「河童用心尻用心」と叫んでいる野太い男の声が聞こえてきた。
わたしは河童に隠れているよう指示して、勝手口から外に出て道路を覗き込んだ。するとやはり消防団長のサトルおじさんが部下を引き連れて練り歩いているので、「なにごと」と訊ねると、おじさんは険しい顔をして、「河童だ」と唸るように言った。
「どうやら河童が出たらしい。見つけ次第処分するように、と役所から通達がきた」
おじさんの後ろを覗くと、猟銃を持ったハンターが数人。それ以外の消防団員も斧や鉈を手に持っていて、物騒極まりない集団になっていた。
「処分するの? 害があるか分からないのに」
「あると分かってからでは遅いんだよ」
物わかりの鈍い子どもを諭すようなサトルおじさんの口調に、むかっ腹がたつ。河童へたてている分の腹もそこには混じっていたかもしれない。
「大の大人が雁首揃えて、物騒なものまで持ち出して、そんなにたかが河童一匹が恐いわけ?」
おじさんの目が鋭く光ったが、すぐに柔和な笑顔になり、「そうだね。分からないものは恐いのかもしれないね」と帽子を目深に被って顔を隠した。
言い伝えでは、河童が最後に出たと言われるのは大正の頃だという。冬の間に村人数十人が行方不明になり、春の雪解けとともに干からびた遺体が発見されたのだとか。そしてそれは、河童の仕業だと語り継がれた。だが、河童がやったという証拠はない。
「なっちゃんも見つけたらすぐに言うんだよ」
なっちゃんって。サトルおじさんから見たらわたしなんていつまでも子どもなんだろうなあ、と思いつつ、河童を引き渡すかどうか迷って、殺すほどの存在だろうかという憐みの方が強くて、結局言い出さず見送った。
家の中に戻ると、河童は台所の床に怯えたように震えながら平伏していた。
「なにしてんの?」
「なっちゃん様には、匿っていただき感謝の言葉もなく候。そして図々しいお願いですが、今宵一晩泊めていただきたく候」
なっちゃん様はやめてよ、と顔を顰めて言うと、河童は慌てた様子で、「ではお館さまと」と言い直したが、別にウチはお館でもないし、わたしもただのフリーターでそんな偉いものでもないし、と思ったが、河童に自分の名前を憶えられても何だか気味悪いな、河童の恩返しとかいって山ほどのきゅうりを持って来られたりしたら困るし、と考えて、「まー、いーよ、それで」と投げやりに手を振って了承した。
呼び方はともかく、泊めるかどうかというのは別の問題だ。一応わたしもまだうら若き乙女を自認しているわけで、そんなところに野獣のような男、ではない河童を泊めるのは果たして安全なのかどうなのか。相手は一応人外の存在なわけで、わたしなんかが思いもつかない力をもっている可能性もある。ただ、ゴンゾウじいさんに面倒を見られていたというくらいだから、河童としては大したことないのかもしれない。
「泊めてもいいけど、あんた、この台所から出ないでよね」
「ありがたき幸せで候。心得て候へども、便所はいかがすればよいでござ候」
わたしはうんざりとしながら、「トイレは許す。それからその変な喋り方やめて」とため息をつく。
「お館さま、ああありがたやありがたや」と拝みだしたので、「出ないでよね!」と叫んで踵を返し、台所を出た。
ああ、わたしのスイーツパーティ。
河童を置いて外出するのは不安だったので、結局わたしはどこへも行けなかった。おまけに腹が減ったと三時間おきにせがむものだから、一日中何か料理をしていた。最後は面倒になってご飯を大量に炊いて、卵をボウルに山盛りにして、「これでも食え!」と押し付けてそれっきり台所には入らなかった。
スイーツパーティこそできなかったものの、入浴しながらの映画観賞会や時間を気にしないゲーム三昧は味わうことができた。だがその幸福感に浸る頭の片隅に、常に「河童」の二文字があることが癪だった。
わたしは中学校時代、いじめられていた。すれ違うだけで「ブス」「キモイ」「クサイ」だのと言われたり、私物が隠されたりぼろぼろに破壊されたりするなんてのは日常茶飯事だった。殴られたり蹴られたりすることもあった。腕の骨にひびが入ったときには、親に言い訳するのも一苦労だった。
わたしは存在しているだけで「うざい」、罪なのだった。その罪は中学を卒業するまで続いた。あのときの他者が恐くて仕方ない、怯えた自分と、河童の怯え方が重なって、「そんなはずない」と風呂の中で叫んで一人ばつが悪くなった。
夜は部屋に鍵をかけて、ピアノ線を扉に張って、引っかかれば物音がする仕掛けを急ごしらえで作り、ベッドに入った。
河童のことで頭が疲弊していたのか、ぐっすりと休むことができた。気づくと朝で、河童はまだ寝ているかしら、と階下に降りて行って台所のドアを開ける。
冷凍庫から箱型のアイスを引っ張り出して貪っている河童が、二匹。
わたしは目を擦った。まだ寝ぼけているのかとも思った。だが何度見ても河童は二匹いた。
増えた。
絶句していると、二匹の河童は平身低頭して、「お許しを、お許しを」と繰り返している。これじゃまるでこちらが悪者のようだ。
二匹を落ち着かせ、わたしはリビングから椅子を持ってくるとそこに腰かけて、増えた二匹目の河童をまじまじと見る。見られていることに羞恥心を感じるのか、二匹目の河童は頬を赤らめて顔を背ける。
二匹目は乳房が大きく膨らみ、尻も突き出ていて、体つきが曲線的で、女性を思わせるものだった。顔も最初の一匹よりはふっくらとしていて、目許には穏やかさが漂っている。
「で、これはどういうわけ」とわたしが厳しく一匹目に詰問すると、彼は朴訥と説明する。彼のまとまりのない話を要約するとこういうことらしい。
ゴンゾウじいさんのところでは二匹で世話になっていて、二匹は夫婦の契りを交わした仲だそうだ。一匹目が食べ物を探して来ると出て行ったきり帰らないので、心配になって臭いを頼りに二匹目、奥さんの方が追ってきた。今朝は夫婦で住めるところはないかと相談していたところだと。
「住まいの条件は?」と訊ねると、奥さんの方がおずおずと口を開く。
「水辺の近くで、三食食事つき。掃除家事完備」
わたしは額に手を当てて天を仰ぐ。「そんなところがあるならわたしが住みたいよ」と言って、今の自分もそう大差ないのでは、と思ってしまう。三食母親が食事を作ってくれるし、共用のスペースは父親が掃除してくれる。
「あと……」と奥さん河童は言いにくそうに上目遣いにもじもじとしているので、「なに」とぶっきらぼうに促す。
「この家じゃ子育てには手狭なので、もっと大きな住処を」
わたしはここで育ったんだから、子育てに手狭もなにもない。子どもは育つように育つ。あまりにも頭にきたものだから、言い返してやろうと腰を浮かせかけたところで、庭に無数の足音が響き渡り、勝手口が蹴破られた。
何事かと浮かしかけた腰のまま勝手口を眺めると、先頭にいたのは猟銃を構えたサトルおじさんだった。おじさんの他にも三人の猟師が銃を構え、銃口を河童たちに向けている。
震えあがった河童たちは互いに抱き合って歯をがちがちと鳴らして、怯え切っていた。
「おじさん、これって」
サトルおじさんはわたしを一瞥したが、その目はおじさんとは思えないほど冷たい光を宿していた。
「なっちゃん。河童を庇うことは重罪だ。知っているだろう」
市の条例で、河童を匿ったり庇ったりしたものは川流しの刑に処す、と決められていた。
川流しの刑は、川を木舟で下った後、河口にある河童堂というお堂に幽閉され、長い期間そこで過ごさなければならないというものだった。衣食住も最低限しか保証されず、病気になっても医者にかかることもできない。だから川流しの刑になったものの多くは刑期をまっとうする前に死ぬ。
「でも、おじさんが市長に掛け合って、なっちゃんの罪は見逃してもらえることになった」
ほっと胸を撫でおろす。川流しの刑はさすがのわたしでも恐い。
おじさんは構えを解くと、猟銃をわたしに差し出す。わたしはその意図が分からず、いや、分かりたくなくて引き攣った笑みを浮かべて首を傾げた。
「だがただで見逃しては示しがつかない。なっちゃん自身が河童を駆除したなら、罪を見逃そう、市長はそうおっしゃっていた」
わたしはいやいやをしたが、「なっちゃん!」とおじさんが鋭く、これまで聞いたこともないような低い声で叫ぶので、震える手で猟銃を受け取ってしまった。
「お館さま!」と二匹の河童が悲壮な声を上げる。
「さあ、なっちゃん。撃つんだ。構えて引き金を引く。それだけだ。鳥や猪を撃つのと、河童を撃つことに何の違いがある? 獣を駆除するだけだ。そこに憐憫の情は必要ない」
わたしは体の芯から震えがきて、銃口など定まらないながらも、構えた。構えさせられた。わたしが首を振っていると、おじさんが耳元で「川流し」とか「河童堂」と囁くので、構えずにはおれなかった。
「で、でも、河童とは意思疎通でき、できた」
わたしは懸命に抗弁するが、おじさんはせせら笑う。
「意思疎通できたからなんだい。意思疎通できたら、重罪人も見逃せと言うのかい」
わたしはスコープを通し、怯え切り、絶望した河童の青い顔を見つめる。
「彼らは、何の罪を犯したの。誰にも危害を加えてない。罪なんて」
「存在することが罪なのだ」とおじさんは反論を許さないほどきっぱりとわたしの言葉を切り捨てた。
「誰がそんなことを決めたの」
わたしの指は引き金にかかる。
「行政だ。法がそう言っている。さあ、子どもじみた議論はもうたくさんだ!」
撃て、と剥き出しのナイフのような声でおじさんが命じる。
ソンザイスルコトガツミナノダ。
わたしの頭の中でそのおじさんの言葉が何度も、草食動物が反芻するように繰り返され、声が徐々にわたしをかつていじめていた主犯格の女子生徒のものに変わる。
わたしを、だれも助けてくれなかった。友だちも、教師も、親も。わたしは一人で耐え続けた。死んでしまった方がましだと思う毎日だった。それでも生きたのだ。生きて、生きた。今わたしの手の中にはかつての自分を救う武器がある。なら、その武器で自分にとどめをさすのか、救い出すのか、答えなんて、考えるまでもないでしょう?
わたしは息を吸うと振り返って銃口をサトルおじさんの胸に向け、躊躇うことなく引き金を引いた。銃は轟音をたてて弾丸を発射し、過たずおじさんの胸の中心を撃ち抜いた。おじさんは信じられない、という表情のまま後ろに倒れ、台所の床に血だまりを広げた。群衆の中から悲鳴と怒号が上がる。
「なにしてんの! 早く逃げなよ」
わたしはボルトアクション式の銃のレバーを引いて次弾を装填すると、振り返って河童に向かって叫ぶ。河童はあたふたと台所の床に滑りながら立ち上がると、引き戸を開けて出て行く。
「お館さま。どうかご無事でずら」と二匹の河童は一礼して、ひたひたと走り去って行く。
逃げるぞ、という叫び声が上がって、群衆の意志が雪崩のようにこちらに向かってくるのを感じたので、わたしは銃を構えて引き金に指をかけた。ちょうど正面にいる若い猟師の男も、わたしに照準を合わせていた。
銃声が鳴り響いた。残響のように、いつまでも耳に残っていた。
〈了〉
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