イステリトアの空(第11話)
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■本編
正宗は出立前に母と妹にあいさつして、旅支度を整えると家を出て、町はずれの三の地蔵のところへ向かった。先ほどまですっきりとした青空が見えていたのに、空には薄暗い雲がかかりつつあった。どこか鬱々とした空気が漂っている。
三の地蔵の元に辿り着くと、地蔵に手を合わせる。
三の地蔵は平安時代中期に建てられたものと伝わっており、かつてこの地方に住んでいた荒くれものの三人、仁太、義助、礼剛を祀ったものだった。町の外れにあり、この先にある大橋は山道に続いていることもあり、山越えをする旅人くらいにしか顧みられておらず、ひっそりと町を見守り続けている。
仁太たちは半ば山賊紛いのことをしていたが、ある日麓の村が鬼に襲われ、娘は攫われ年寄りは殺され、役人に納める米も奪われると甚大な被害をこうむっていた。それを知った三人は相談し、山からやってくる鬼を大橋の元で待ち受け、激闘の末に鬼を討ち果たした。村人の中には仁太たちに家族を奪われた者もおり、鬼退治の祝宴と称して三人を招き、したたかに酔わせて嬲り殺しにしてしまった。しかしその年からイナゴが大発生して稲を食い荒らし、翌年には雨が降らず干ばつし、水不足に食料不足に陥り、多数の死者を出した。
いつからか村では仁太たちの祟りであると噂されるようになり、そこへ偶然この村を立ち寄った高僧が耳にして、村の石師に地蔵を彫らせて社を建て、七日七晩読経をして魂を鎮めたという。それ以来村では災いが止み、仁太たちは村の守り神として崇められるようになった。
三人なのに地蔵は一つなのは、殺害される酒席で、義助が「我らは三人で一人なのだ。生まれたときは違えども、死すときは同じだ。古の漢の英雄たちのように」と嘯いていたため、三人で一つとして祀らせた。高僧が唐から渡来した僧であり、山賊が漢の歴史を知る教養をもっていたことに感銘を受けたことが大きかったのかもしれない。
正宗は社に上半身を入れ、地蔵の後方の台座を探る。指が引っかかる切れ込みがあり、そこを引き上げると石の蓋が開く。そこへ紙片を差し入れると、再び蓋を戻す。
地蔵に野で摘んだ捩花と饅頭を備え、そこを後にする。
大橋に辿り着くと、そこには既に長曾根が待っていた。編み笠の端をついと上げて正宗の姿を視認すると、長曾根は人懐っこい笑顔を見せて、「や、来たな。では参ろうか」と先に立って歩く。
旅程は長い。一旦江戸を目指し、そこから北上して下野の国に入る。そして宇都宮藩の城下町を経由して日光街道に向かい、西進して日光の地を踏む。目的の細尾という村は東照宮よりも西で、関東八州有数の湖である中禅寺湖の麓にあると聞くから、日光に入ってからも道のりは長いだろう。
当然旅の供である長曾根とは様々な言葉を交わした。最初は他愛ない話ばかりだった。長曾根家は金沢藩の藩士で、今でこそ与力の立場に甘んじているが、戦国の世には前田利家公と轡を並べて戦ったこともあるのだという。お互いの藩の当たり障りない話ばかりだったが、旅程も相模国に差し掛かる頃になると、段々と深い話をするようになっていく。
長曾根家は江戸の初め頃に宗家と分家が骨肉の争いを繰り広げたのだという。宗家の宗隆が分家の嫡子、公知に無礼があったと難癖をつけ、城内で公知を斬りつけた。だが公知は剣の達人として知られ、ほとんど反射的に反撃し、宗隆を斬り殺してしまった。これに激怒した宗家の嫡子宗臣が藩主に訴えて出て、公知は切腹を申しつけられた。
これに納得がいかなかったのが分家の者たちである。一方的に難癖をつけられて殺されかけた上、反撃して身を守れば咎ありとして腹を切らされる。沙汰に納得がいかないと分家の当主公親が抗議し続けたものの、藩の回答は変わらず、冬の雪が散る中、公知は腹を切って果てた。
宗家の宗臣はこれに気をよくしたか増長して、分家の勢力を削ろうと公知の悪評を各所で吹聴して歩いた。これが分家の耳に入らないわけはなく、公親はやはり藩に抗議して出たが、どういうわけか黙殺された。
こうなれば、是非もない。と当主の公親を始めとする十三人の義士が集い、宗家の暗殺計画を立てた。この中には驚くべきことに公知の妻である椿(つばき)が交っていた。
十三人は襲撃計画を練り、装備を整え、いざ実行と分家の屋敷を出たところで待ち構えていた藩兵らに捕縛された。襲撃計画が漏れていたとしか考えられない。公親が捕まった面々の顔を眺め回して、あっと叫んだ。息子の嫁の椿だけがそこにはいなかった。密告者は椿以外考えられなかった。
だがその頃、宗家の屋敷は阿鼻叫喚の図となっていた。家族から下男下女に至るまで皆殺しにされ、宗臣は全身を切り刻まれてひどい拷問の末に殺されていた。そして宗家を裏で庇い立てして便宜を図っていた家老島田家でも同様の虐殺が起こり、家老島田権左は眼球をくり抜かれ、舌を引き抜かれ、四肢をばらばらに切断される凄まじい有様だったという。
藩はこれを公知の妻、椿の仕業と断じたが、これも苦渋の決断だった。それぞれの家では帯刀した武士が警護を務めていたのだ。惨殺された二人にしても武士だ。それが女一人にあえなく殺されたとあっては、武士の面目丸潰れとなる。だが藩としても椿は尋常の女ではないと判断し、下手人として流布する道を選ばざるを得なかった。
公親もよもや嫁の椿がそのような鬼神のごとき力を持っているとは知らず、襲撃計画を立てていたとはいえ、未遂だったため、藩士十人は遠島、公親の次男の公仲は藩より追放、当主公親は甥の公孝に家督を譲り、蟄居。と比較的穏当な刑が科された。
だが、椿はいくら探しても見つからなかった。藩が威信をかけて総力を挙げて捜査に当たったにも関わらず、椿の痕跡すら掴むことができなかった。文字通り煙のように消えてしまった。それから百年近く経つ今でも、椿の存在はまったく謎に包まれたままだという。そもそもどこから来て、公知と婚姻することになったのか、その記録すら残っていない。椿はやはり得体の知れない妖のような女なのではないかと噂されるようになった。
もし椿一人が事を為したのだとしたら、椿は尋常ならざる剣の使い手ということになる。腕自慢が集まる武家屋敷二か所を一晩で壊滅させることなど、普通はできることではない。
長曾根は三男の公紘の血を受け継いでおり、宗家が壊滅したことから分家が宗家となった今、跡取りの候補だが、長曾根自身には家督を継ぐことに興味はなく、野心家の従兄の方が継げばよいと考えていた。従兄は事件直後家督を継いだ公孝の直系であり、血筋の面からも優遇視されている。
「家督だなんだと、くだらないと思わないか、正宗殿。我らは籠の中の鳥ではない」
正宗も同意する。母と妹の顔が浮かんで思わず苦笑する。
「籠の中でぴいちくぱあちくやっているのが好きな奴に継がせておけばいいのさ。我らのように自分の力で空を飛び、獲物を狩れる鳥は籠から出て行くべきだ」
長曾根は足元の雀を五月蠅そうに蹴散らす。雀は一斉に飛び立って逃げる。
「しかしその椿という女は、粋だな。一人ですべてを為したのも一族郎党の者に罪を犯させないためであろう」
正宗が感心していると、長曾根は「それはどうかね」とひねくれた笑みを口元に浮かべて首を振った。
「おれには折角の獲物をとられまい、独り占めしようとする獣の性が見える。もし本当に正宗殿の言うように慈悲深い女だったとしたら、決行の準備が整う前に先んじてやったはずだ。そうすれば誰も罪には問われなかった」
「ふむ、一理あるが」と正宗は腕を組んで考え込む。「だとしたら密告したのはなぜだ」
「ふふ。惜しくなったのよ。土壇場になってな。獲物を少しでも余人に分け与えるのがな。血に飢えた獣が、獲物を前にして気遣いや慈悲を見せるか? ただ単に他の者には渡したくなかった。そう考えればすっきりするさ」
正宗殿は素直だな、と長曾根は笑った。長曾根殿は老獪なようだ、と正宗は返す。長曾根はそれを面白そうに受け取って声を上げて笑う。
「お、見ろ。箱根の関所だ」
長曾根が前方に見えてきた門を指さすので、正宗は懐に手を入れて、家老の国宗心徹から預かった手形を出そうとする。長曾根はそれを押し留めて、「箱根は心配ない。江戸に入る分には厳しい詮議もないから堂々と構えていればいいさ」と言った。
門を潜ると、中は旅人で比較的賑わっていた。休息所に腰を下ろしてのんびり休んでいる者もいれば、商人風の男が槍を持った番人の男と何やら話している姿も見受けられる。
二人はそのまま江戸口の門の方に向かうと、槍を持った番人と帳面のようなものを持った小袖に羽織の男に呼び止められる。
「お二人はどちらへ」羽織の男は事務的な淡々とした口調で問う。
「日光へ遊山にね。江戸に立ち寄ろうと思っているが」
「なるほど。では、手形を」
一瞬長曾根の眉が動いて不愉快そうな表情になるが、すぐににこやかな笑みに戻り、「金沢藩の長曾根家の者だ。それで証明は充分じゃないかね」と強い口調で言った。
羽織の男は動ぜず手を出し、「手形を」と有無を言わせぬ口調で言う。
「へえ、随分無礼な態度をとる御仁だ。君の名は覚えておこう。名乗りたまえ」
「手形を」、羽織の男の言葉には抑揚がない。感情が読めなかった。槍を持った番人が緊張しているのが分かる。長曾根の口角がひくひくと動いている。これ以上はまずいと悟った正宗は懐から手形を出して渡す。
羽織の男はそれを検めると、「問題ないでしょう。どうぞお通りを」と言いながら二人の前から身を引いた。長曾根は舌打ちして、それっきり不機嫌だった。
その日は箱根宿の旅籠に逗留し、一晩を明かした。翌朝は朝餉のヤマメの焼き魚や煮物や漬物に舌鼓を打ち、早くから出立した。小田原宿には昼過ぎに到着し、腹ごしらえと短い小休止を挟むと大磯を過ぎて平塚まで辿り着いたところで宿をとり、夜を明かした。
翌日は足を速め、品川宿まで辿り着いた。品川に辿り着いたときにはまだ日は高く、日本橋くらいまでなら辿り着けたのだが、長曾根が旅籠屋の軒先にいた飯盛り女に目を留め、「いい女がいるな」と品川で宿をとることを決めてしまった。そこからは別行動で、長曾根は口説いた飯盛り女を連れてどこかに行ってしまった。
正宗は暇を持て余し、旅籠屋の二階の部屋で夜風に当たっていた。
江戸か。いつ以来だろうか。と雲にかかる叢雲を眺めながら、酒をちびりと口に含んだ。
江戸には幼い頃に父に連れられて来た。父と同じ年ごろの男が同行していて、それが国宗心徹だったと後から聞かされて驚いたものだ。
覚えているのは鍛治町だ。ちょうど十一月八日のふいご祭りの日で、もろ肌脱いだ職人たちが屋根の上に立って、蜜柑を投げているのが衝撃的だった。子どもたちがきゃあきゃあと言いながら蜜柑を拾っていて、正宗もうずうずしながら見ていたのだが、武門の子だから、そんな浮ついたこと、と思っていたら国宗心徹に背中を押されて、その後は夢中で蜜柑を拾った。
砂埃に塗れながら拾えたのは蜜柑五つばかしだった。さすが江戸の子どもは慣れていて、正宗が拾おうとすると横から手が伸びてきてひょいひょいと攫って行ってしまう。だが誇らしげに笑いながら父に報告した正宗の鼻の頭に砂がたっぷりとついていて、父も国宗心徹も笑っていたのをよく覚えている。
その後小網町を訪ね、正宗は生まれて初めて刺身を食べた。それが鰹の刺身だったものだから、その美味さに自分の分をぺろりと平らげ、見かねた父が差し出した父の分も食べ、それを後から聞いた母にしつこく苦言を呈されたものだった。晩飯に食べた鮎飯も美味で、母の作ってくれた香ばしい醤油の山菜ごはんも美味かったが、これまた別格の美味さだった。鮎なら郷里でも採れるし、母にぜひ作ってほしいと思った。
国宗心徹の元で修行を始めた十三の年には、もう剣の腕は父を超えていた。父も巧者で知られた剣士だったが、正宗の才はそれを遥かに超えていた。正宗は父を凌ぐ腕を身に着けた後でも、深く父を敬愛していたし、それだけに父が三人程度の野盗に後れをとり、命を落としたことが納得いかなかった。
父に同行していた同心の話によると、敵は最初から父を狙っていて、しかも野盗によくある、ただ振り回すだけの剣術ではなく、使う剣には型があり、正規の剣術を学んだ剣士である様子が窺えたという。それも並大抵の腕ではなかった。
任務に出る前夜、父は暗い顔で酒を飲んでいた。正宗が訊ねても「何でもない、心配するな」の一点張りだったが、正宗が眠るために席を立つ直前にぽつりと、「柳沢様は見誤ったかもしれん」と呟いたのが妙に耳に残った。「柳沢様」がまさか大老の柳沢吉保公を指しているとは正宗も思いも寄らず、そのときは見落としてしまったのだが、後になってこの呟きをもっと重要視する必要があったのでは、と思わずにはいられないのだった。
結局長曾根は帰ってこなかった。翌朝起きて階下に下りると、昨日とは違う飯盛り女をからかいながら茶を啜っている長曾根がいた。
「やあ、遅いお目覚めだな、正宗殿」
「長曾根殿。我らは物見遊山ではなく、任務中だということをお忘れなく」
長曾根は立ち上がって正宗の肩を軽く叩き、「心得ているさ」とふてぶてしく笑む。
「そう息を詰めていては、いざというときに剣が鈍るというもの。もっと気楽にいこう、正宗殿。折角江戸に来たんだ。吉原でもどうだ」
長曾根殿、と抗議するように正宗は鋭く声を上げる。
「まあ、そうだな。吉原ではちょっと道を逸れるか。根津あたりの岡場所がちょうどいいかな、うぶそうな正宗殿にも」
正宗がきっと睨みつけると長曾根は心底愉快そうに「ははは」と声を上げて笑った。
そのまま二人は出発したが、道中一言も言葉を交わさなかった。
日本橋を経由して千住まで辿り着いたのだが、そこから先先導する長曾根の足が向く方向がどこかおかしいことに太陽を見上げて気づいた。北上するのではなく、南下しているのではないか。
「長曾根殿。一体どこへ向かっている」
長曾根はちょっと振り返ると編み笠の先を摘まんで上げ、にっと笑む。「まあ、おれに任せておきな」
正宗には地理勘がない。長曾根と袂を分かっても迷うだけだろう。まさか長曾根も任務を放棄はしないだろうし、仕方がないと割り切って後をついて行く。
隅田川を渡った辺りで、正宗にも察しがついた。やがて道を進んで行くと、町家が立ち並ぶ町中に入って行く。長曾根は勝手知ったる素振りですいすいと角を曲がり進んで行く。気づいた時には神社の社殿の前に立っていた。
「家宣公の誕生に伴って根津権現がこの地に移されたのさ。参っていくのも悪くないと思ってね」
二人は手を合わせ祈念する。長曾根が何を祈っているのか、正宗は考えたくもないが、ただ任務の成功を祈って頭を下げた。
「では参ろう」と陽気に長曾根は踵を返す。渋々正宗はついて行く。
門前は町家や料理茶屋で賑わっていた。人通りも多く活気がある。さすがは江戸、みな垢ぬけた格好をしているなあ、と感嘆しながら歩いていると、長曾根が「色男なんだからそうきょろきょろするな。黙って歩いてれば正宗殿はそれだけで粋だ」
「浅葱裏でもか」
ふふ、と長曾根は含み笑いをして、「我らは田舎者の方が都合がよいのさ」と目配せをする。
通りの影には女が茣蓙を敷いて立っていて、目が合うとにっこり笑って手招きをする。その手は細く筋張っていて、顔に血色もない。
「おいおい、夜鷹なんかに目をくれるなよ。ここはおれの奢りだからな。吉原ほどとは言えないが、ぱーっと遊ぼうぜ」
さて、着いた、と案内されたのはやはりというか、遊女屋だった。
「おれの馴染みの店でな。ま、そう辛気臭い顔をするな。英気を養っていくとしようぜ」
暖簾を潜り、出迎えた初老の女将に長曾根は愛想よく「しばらくだな、女将」と手を挙げてあいさつする。
「あらあ、これは長曾根様。お越しになるのを首を長くしてお待ちしていたんですのよ」
「悪い悪い。いやあ、金沢は遠いよ。任務にかこつけて遊びに来るのも一苦労だ」
そこで女将は長曾根の後ろにいた正宗に目を留め、「あら、お連れさん?」と訊ねた。
「ああ、こういう場所は不慣れな御仁でな。芙蓉をあてがいたいんだが」
「芙蓉を?」と女将は微かに驚いて目を丸くし、声を潜めた。
「そうだ。おれにはいつものように牡丹を頼む」
正宗は話に置き去りにされたまま進んで行くのが気色悪く、「芙蓉とは」と女将に向かって訊ねた。
「芙蓉はこの店で一番格上の遊女ですよ。吉原でも通用するような器量です。吉原なら間違いなく呼出になれる器です」
呼出がどういうものか正宗には分からなかったが、長曾根が随分上等な女子を自分のために呼ぼうとしているのは分かって、「長曾根殿、私は」と抗議の声を上げかけたが、長曾根はそれを遮って、女将ににこやかに「頼む」と言った。
「承知しましたが、芙蓉なら最低二千文はいただきますよ。あとは芙蓉の機嫌次第です」
二千文、と正宗は絶句するが、長曾根は涼しい顔で「構わん構わん」と手をひらひらと振った。後から長曾根から岡場所の遊女の相場は高くても六百文だから、芙蓉は別格なのだと聞かされてさらに絶句したのだった。
正宗と長曾根は二階の角部屋を案内され、委縮していた正宗に、「まずはおれがいてやるから、楽しく飲もうぜ」と背中を何度も叩いて笑っているのを見て、なぜ長曾根と同じ任務にあてたのか、国宗を恨みたくもなってきていたのだった。
ちょっと小用、と長曾根がいなくなってしまったので、正宗は仕方なしに一人座敷に座して待った。襖を閉め忘れていたことに、通りがかった遊女がしなを作って口元を袂で隠し、くすりと笑ったのを見て気付き、正宗は赤面した。
二人は座敷に落ち着くと、運ばれてきた料理や酒に少しずつ手をつけ、しばらくすると女の声がしてするすると襖が開いた。三つ指をついた女がそこにはいて、女はおもむろに顔を上げる。銀のかんざしがしゃらんと鳴った。「牡丹と申します。長曾根様はお久しゅうございますね」
「おお、待っていたぞ、牡丹。こちらに座れ」
牡丹はしゃなりしゃなりと畳の上を滑るように歩くと、長曾根の隣に腰を下ろす。
「芙蓉はどうした?」
「姉さんはもう少ししたら参ります。あちしなんかと違って支度やなんやありますから」
ふむ、と頷いて長曾根は酒を飲み干し、牡丹に向かって杯を差し出す。牡丹はすっとお銚子をとると酒を注いで杯を満たす。
「あちしのこと、お忘れかと思いましてよ」
牡丹は恨めしそうな目で長曾根を見上げる。
「あはは、忘れるものかよ。だがな、牡丹、そう色気を振り撒くのはもうちいと後にしたらどうだ。この場には正宗殿もおるのだぜ」
牡丹はすっと整った笑みを浮かべて正宗の方を向き、「あら、あちしってば御無礼を。お許しくださいましね、正宗さま」と小首を傾げて見せた。
「おいおい、おれ以外の男に色目を使うってのはどういう了見だい」
言いながらも愉快そうに長曾根は笑っている。牡丹も悪戯っぽく笑みながら正宗に目配せし、「だって、長曾根様より真面目そうだし、色男じゃない」とふふと声を上げた。
正宗は居心地の悪さを感じて、愛想で引き攣った笑みを返したが、気を紛らわせるために酒や料理に手を伸ばした。この遊女屋は岡場所でも位の高い店なのだろう。酒も料理も悪くなかった。鯵の煮びたしは骨まで柔らかく煮えていたし、味もよく染みていた。最初は米の味が強い酒が出されたが、鯵が運ばれてくる頃には水のようにすっきりとした味の酒に変わっていた。正宗としては飲んで食べているだけで満足だった。
ちりんちりん、と鈴の音が鳴って、幼い子どもの声で「芙蓉の参上にございます」と口上が述べられ、襖が開けられる。そこには鈴を掲げて膝を突いたおかっぱの少女と、色鮮やかな花や鳥の刺繍が散りばめられた打掛を纏った女が立っていた。
女の頭には金のかんざしが行燈の灯を受けて輝き、光り輝くばかりに白い肌と形のよい唇に塗られた鮮烈な紅が目を引いた。そして女の顔形はその印象に負けぬほど強烈で美しかった。やや垂れた眦は穏やかそうな印象を与えるとともに母性のような包容力を感じさせ、秀でた額に落ち着いた鳶色の目が聡明さを加えていた。
「芙蓉と、申します。ようこそお越しくださいました、正宗さま、長曾根さま」
芙蓉は腰をやや傾げあいさつをすると、打掛を翻してゆっくりと進み、正宗の隣に腰を下ろす。鈴の稚児は一礼して襖を閉めると、ぱたぱたと廊下を去って行く。
「ほうほう。おれも見るのは初めてだが、噂以上だな、芙蓉。これは美しい」
芙蓉を称えて酒を傾けながら見つめていた長曾根だったが、尻を牡丹につねられて、「いや、牡丹、お前も美しいぞ」としどろもどろ言い訳をしていた。
「一献、いかがです?」
そんな二人をぼんやり眺めて笑っていた正宗だったが、芙蓉からお銚子を差し出されて我に返り、恐縮しながら杯を差し出して受ける。
「お国は長曾根さまと同じですか」
正宗は酒を飲み干し、芙蓉の酌を再び受けながら、「いや、私は……」と自分の生まれた国や藩のことについて話した。
芙蓉の顔を眺める度、鈴鳴るような声を聞く度、桜華のことが思い出された。二人にはどこか似た雰囲気がある。それだけに、正宗は今自分がここで芙蓉と酒を飲んでいることに罪悪感を抱かずにはいられないのだった。
「正宗殿。おれたちは別の部屋に移ることにした。この部屋は貴公らで好きに使うとよい。それから、この酒はおれからの餞別だ。必ず飲んでくれよ。いざというときに効くからな」
長曾根はにやにやしながら言って、牡丹の腰を抱いて部屋を出て行く。すぐに女が二人やって来て、長曾根の膳を下げていく。
二人きりになって、正宗は気まずさを感じた。芙蓉と何を話せばいいか分からない。自分のことをべらべらと喋るのは品がなく無粋に思えるし、芙蓉のことを訊いていいものかどうかも分からない。ここで流行りの芝居や歌舞伎の話だとか、面白おかしい仕事の話ができればいいのだが、正宗にはそうした話の引き出しはない。これまで実直一本でやってきた身の上なのだ。遊女が喜びそうな話などとんと見当もつかない。
「正宗さま」
芙蓉に呼ばれて、正宗は彼女の顔を見ることができず、正面を向いたまま、「は。なんでしょう」と上役に答えるように返事をした。
芙蓉はくすりと笑って、「正宗さまの心の中には、どなたかおありでしょう」と咎めるのではなく、それを喜ぶ姉のような優しい声で訊いた。
「なぜ、そう思われます」
芙蓉はかぶりを振って、「こうした世界に生きておりますと」、顔を上げる。それはどこか悲し気な顔だった。
「分かってしまうものなのですよ」
さ、一献。と芙蓉は酒を勧める。箸をとって筍の煮物を口に運ぶ。うん、柔らかく煮えている。味も塩辛くはない。杯を傾けて飲み干す。
「ですから、今宵のことは一夜の夢とお忘れください。あたしは夢の住人です。あなたの夢の中で一時だけ夫婦だった幻の女」
だが、と正宗は芙蓉の顔を見て、何も言えなくなってしまう。
「まだ夜は長ごうございます。よろしければ、夢物語の一つとして芙蓉の話を聞いていただけますか?」
芙蓉は銚子を正宗の手に握らせ、その白く小さな手でたおやかに杯をとる。正宗がその中に酒を満たしてやると芙蓉はくっと傾けて酒を口に含み、ゆっくりと飲み込む。頬がほんのり桜色に染まる。
「銀助。お前いるんでしょう」
芙蓉が襖の向こうに呼びかけると、「へい」という年老いた男のしわがれた声がして、すーっと襖が開く。
「三味線でしょうか。お嬢様」
銀助は三味線を抱えて部屋の中を迷いなく進み、芙蓉の足元に三味線を置いた。正宗は驚いて目を見張った。何しろ銀助は目を瞑っていたのだ。盲目なのだろう。両目の周囲には火傷の跡らしき痛々しいひっつれがあった。それなのに、まるで見えているかのように動きには淀みがない。
「相変わらずお前は察しがいいね。ありがとう。下がっていいよ」
はっ、と短く返事をして銀助は頭を垂れ、下がろうとする。ざんばら髪はほとんど雪を被ったように白くなっていて、手足はやせこけて骨が浮いて見える。生ける髑髏、とでも言えそうな風貌だが、所作には無駄がなく洗練されていた。正宗がいることも察しており、そちらに注意を向けることも怠っていない。
「銀助さん、と言いましたか」
銀助はそこで初めて正宗に気付いたようなふりをして驚いてみせて、おどおどと「へえ、そうですが」と恐縮して見せた。
「あなた、何か武術を修めていたんじゃありませんか。足さばき、手、気の張り方。とても素人のものとは」
芙蓉は袂で口を覆ってくすくすと笑い、「さすが、同じ達人には見抜かれてしまうみたいね、銀助」と銀助に声をかけると、銀助もおどおどとするのを止めて、猫背だったのを背筋を伸ばして座り、「左様ですな」と苦笑いした。
「銀助は元武士で、小野派一刀流の免状を受けたほどの腕前でございます。今はあたしの身の回りの世話や護衛をしてくれております」
失礼ですが、と正宗も銀助に向き直り、「両目の光は」と声を抑えて訊ねた。
「もう二十年になりますか。住処が燃えましてな。中に残されていた女房と娘を助けようと飛び込んだときに失いました」
「奥方と御息女は……?」
銀助は渋い顔をして頭を搔いた。
「死にました。女房は焼け死に、娘は一命をとりとめましたが顔をひどく焼かれましてな。将来を悲観して川に身を投げました。そのとき思いましたわい。いくら剣を極めて他者より強くなろうと、守るべき者を守れねば何の意味もないと」
銀助はわしわしと白髪の目立つ髪を掻き乱しながら、「わしの話などしても仕方のうございますよ」と手を突いて平伏し、立ち上がると淀みなく部屋を後にし、襖を閉める。
「剣の達人だったからでしょうか。銀助は勘や耳がとても優れておりまして。ここの中なら物に当たらず自在に歩けるというわけなのです」
芙蓉は三味線を抱えて、撥でべべん、べべんと二度ほど音を鳴らしてみる。
「ただあたしの物語を聞いても退屈ですから。三味線にのせて語れば平家物語を語った法師のようでおつでしょう」
ゆっくりと撥を振るって弦を鳴らす。棹の部分を滑る手は優しくも滑らかで、そのせいか奏でる音もどこか柔らかく優し気に聞こえる気がした。
「あたしの生国は出羽国にある矢島藩という小さな国でした。冬の寒さが厳しい土地でして、雪が降りますれば壁のように積ることもあるという豪雪地帯でございました。あたしはその藩の算用方の家の長女として生まれました。兄が一人あり、弟と妹がおりましたが、下二人は流行り病であっさりと死んでしまいましたので、否応なくわたしと兄の結束は強くなりました。
父は温和な人で、困っている人に手を差し伸べねば気が済まず、何より争いを憎む方でした。そうした性質だったからでしょうか。弟、あたしから見れば叔父ですが、その叔父に利用されて多額の借金を押し付けられて心労が祟り、失意の内に病に罹り死にました。叔父はわたしと母を女衒に売りつけ、家督を相続して我が物に振舞ったようです。ちょうど国元を武者修行で離れていた兄はそのまま出奔し、紆余曲折あって江戸である方のところに身を寄せることになりました。
兄はそれからあたしたちを懸命に探してくれていたのですが、母は売られて間もなく死に、兄があたしを見つけたときには、もう客をとる年になっていました。兄は悲しみ、必ず身請けしてやるからと約束してくれましたが、その約束が果たされることはありませんでした」
べべん、と芙蓉は弦を弾き、俯く。
正宗は銚子を傾けて酒が尽きていることに気づき、長曾根が置いて行った酒瓶を手に取って開けると、手酌で酒を注いで飲み始める。
三味線の音が再び部屋の中を巡る。音が翼を得て飛び回っているように、正宗には感じられた。
「兄には剣において天賦の才がありました。小野派一刀流を極めた銀助をして、元服前の兄は銀助を上回っているというのです。それも両目の光を失う前の全盛期をです。やがて兄の剣名はいよいよ高まり、矢島藩、出羽国だけでなく、江戸まで届くようになりました。そして叔父の家督簒奪が起こり、逃れた兄はその剣才を買われ、幕府に新設される特別な組織の一員に選ばれました。兄を見出したのは柳沢吉保様でした。
組織の創設者は柳沢吉保様となっていますが、実体は違うようです。その組織は遥か古から存在していたものを、組織の影響力を強めるために幕府を半ば脅して組織化したのが真実とか。柳沢様は嘆いておられました。幕府にとって最も毒となる蛇を、幕府自身が守らねばならぬと」
剣杖のことだ、と正宗が察し、芙蓉は正宗が剣杖だと知っていてこの話をしている。そこに何か危険な匂いを感じ取り、体を動かそうとして正宗は異変に気付く。
最初は指先がぴりりと痺れる程度だった。だが、ほんの僅かな間に四肢の自由が利かないほどに痺れが回っている。まずい、と思いつつもどうすることもできない。
「兄は組織の一員ながら、柳沢様の密命を受けて動いていました。組織の影に潜み操っている存在を炙り出し、あわよくば斬って捨てることを目論んで。しかし兄がどれほど調べても敵の存在は分かりませんでした。一見、首魁の国宗心徹が怪しそうです。けれど心徹は信じがたいほどの剣の達人ではあっても、権謀術数を巡らせて事を成し遂げるような人物には見えなかったそうです。
そして敵はやはり人智を超えた存在なのか、兄が探っていることを突き止めると、即座に刺客を差し向けました。一度目は二人。二度目は三人に襲われましたが、兄はすべて撃退して逃れました。ですが兄は逃げきれないことを悟ったのか、すべてを記した手紙を信用のできる友人に預け、一人逃避行に走りました。しかし甲州街道の上野原宿を過ぎた人気のない原で刺客に追いつかれました。
相手はたった一人でした。それもまだ随分若い、あどけなさを残したような美丈夫です。とても剣の腕が立ちそうには見えませんでした。ですが相手が剣を抜いた瞬間、兄は己の過ちを悟りました。刺客の体から立ち昇る剣気のようなものは、これまで相対した誰よりも強かったからです。数合打ち合わせて、兄は己の不利を認めないわけにはいきませんでした。純粋な剣の腕で上をいかれている上、身のこなしの俊敏さや膂力では差がない。なら経験値では、と考えると、刺客の剣はあまりにも人を斬り慣れた剣でした。一人や二人ではありません。屍の山ができるほど人を斬ったものの剣です。その点でも兄は及びませんでした。
次々と襲いくる刺客の剣を捌いていた兄ですが、限界は訪れます。受け損なって肩口を斬られよろめいたところを、逆袈裟に斬り下ろされ、力尽きて倒れました。刺客は兄が死んだことを確かめると淡々と去りました。兄の死など何でもないことのように」
べべん、べべん、と激しく弦がかき鳴らされ、弦の一本が切れる。
正宗は最早姿勢を保っておくことすらできず、膳の中に突っ伏す。毒を盛られたことは疑いようもない。だがいつ、どうやって。食事の膳の中にか。いや、長曾根も膳のものは食べていた。それに先に座に着いていたのは正宗の方だった。お猪口や徳利に細工をされたことも同様の理由で考えにくい。思考の中にぼんやりした空白ができたように朧になっていく。
自分だけが口にしたもの。と考えて、はっと思い至り畳の上に倒れた酒瓶へと懸命に首を巡らせる。
とすれば、長曾根が一枚嚙んでいることは間違いない。だが、なぜだ。正宗は必死に思考を巡らせる。
「死んだあたしの兄の名は、雨月重太郎。正宗様。あなた様が三年前に斬殺した同僚ですよ。覚えていらっしゃいまして?」
雨月重太郎。その名はよく覚えていた。国宗心徹から内々に下された任務で、剣杖への背信行為が認められる裏切者を処理する仕事だった。そうした裏切者を斬る仕事は何度も請け負っていた。正宗ほど剣の腕がたつものはそういなかったし、何より正宗はそうした任務を仕損じたことがない、という点で信頼が厚かった。
雨月重太郎はそれまで始末した相手の中でも抜きんでて手強かった。剣の腕にしてもそうだが、状況判断力や思考力の早さと正確さが尋常ではなかった。もし一手でも読み違っていたら骸になっていたのは自分だろうと正宗は思う。
そうか、あの雨月重太郎の妹御か、と正宗はどこか清々しく思った。唇も痺れていたが、震える口角を上げて笑みを作ると、「見事、見事だ。兄の無念を晴らした。見事です」と言って近づいてくる芙蓉の顔を見た。
芙蓉は腰帯に隠した家紋の蒔絵が施された短刀の鞘を払い、片手に構えつつゆっくり近づいてくる。いつの間にか部屋の中には銀助がいて、隅で影のように控えている。
芙蓉の顔は曇っていた。復讐者の憎しみも、愛する兄を失った悲しみも、そこにはなかった。人は人を殺すとき、自分に纏わりついていた他者をすべて引き剥がしてしまうのだ。最後の瞬間には、我と彼。殺すものと殺されるもの。その二者の関係があるに過ぎない。芙蓉はそこに踏み込んだとき、刃を握っている己という存在に戸惑いを覚えたに違いない。兄のことを除いたとき、自分に正宗を殺す理由があろうかと。
「あなたのことはよく調べました。正宗様。中々評判のいい同心様のようですね。その裏で人斬りの暗殺者をしている。いくら罪があろうと、沙汰にかけて裁かれず、私刑で殺される。そのことがおかしいとは思われませんでしたか。あなたほどの人なら、当然疑問に思ったのではありませんか」
白州で詮議が入り、余計なことを喋られてはまずい。だから口封じも兼ねて暗殺する。それに後ろ暗いことがないなんてことはありえない。だが、それでも正宗はその任を勤め続けた。恐らくそうでなければ、次に暗殺者を差し向けられるのは自分だからだ。つまりは自己保身だ。雨月重太郎と比べれば、見下げ果てた人間だと思う。けれどそのように生きる以外、どう生きていいか分からなかった。国宗心徹が教えてくれた生き方はそれだけだった。
「あなたの命は今、あたしが握っています。生かすも殺すもあたし次第だと、そうお思いになりません?」
芙蓉の短刀が目の前に迫る。美しい、よく研ぎ澄まされた刃だった。鏡のような刃に映った苦しそうな自分の顔を見て、最後に見るものとしては、自分には相応しいのかもしれないなと思って、それ以上意識を保っていることができず、正宗の意識は暗闇の淵へと落ちた。
〈続く〉