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麻薬読書者

 男は後ろをやけに気にしながら歩き、ある小路の入り口に立つと、殊更に警戒心を剝き出しにし、周囲を窺って見ている者がいないことを確かめて小路に入り込んだ。
 うら寂しい小路は、夜の闇を凝縮したような影をそちこちに抱え、降りしきる雨の冷たさと臭いが充満していた。人気はないのに何かの気配で満ちていた。
 切れかけたネオンの看板がじりじりと音をたてて明滅し、風が吹くと居酒屋の古い引き戸ががたがたと鳴る。看板の明かりの消えた店からも、人の笑い声が響いてくる。だが、響くのは笑い声だけではなかった。泣き声や怒鳴り声がざわざわとした声の集合体に紛れてやってきては去って行くことを繰り返すのだった。
 男は一軒の店の前に立ち止まると、周囲を窺い、押し開けて中に入って行く。
 中は橙色のライトで照らされているものの、光量がさほどではなく、薄暗かった。しかし男は勝手に慣れているようで、薄暗さなど物ともせず廊下をずんずんと進み、ジャズが鳴り響くホールに出る。
「いらっしゃい。……ああ、あんたか」
 店主はテキーラをグラスに注ぐとぐいと呷り、ふうと息を吐いてうっすらと赤くなった目を男に向ける。
「マスターはまた飲んでるのか。それにその目。眠ったろう」
 へへ、と口を指で拭いながら笑った店主は、背後の食器棚からグラスを取り出してテキーラを注ぎ、男に差し出す。
「ばれたか。吉岡さんには隠し立てができないねえ」
「誰が見ても分かるさ」、吉岡はグラスを傾けて酒を飲む。
 相変わらず繁盛してるな、とグラスを置きながら振り返り、ホールの中に置かれたテーブルを眺める。
 それぞれのテーブルには本が広げられ、みな椅子に深く腰掛けて眠りに落ちていた。客層は老若男女入り交じり、一人で本を広げている者もあれば、二人組や三人組らしきグループも見受けられる。いくつかのテーブルでは「朗読師」が本を読み上げていて、その声がまざって読経のように聞こえた。
「今空いてる『朗読師』は誰だ」
 店主は生ハムを切り分け、吉岡の前に差し出す。それを受け取ると、そう訊ねながら吉岡はフォークに生ハムを刺して頬張る。ほどよい塩味とハムの味が口の中に広がり、飢えた喉が再び酒を欲し、グラスを傾ける。
「今空いてるのは塩澤さんだな」
「へえ、珍しいな」
 塩澤玲央奈は人気の朗読師で、いつも予約で埋まってしまっているから、この店に通って久しい吉岡も初めてだった。
「それじゃあ、玲央奈ちゃんに頼むよ」
 了解、と言って店主が裏に消えていくので、吉岡は生ハムを平らげ、グラスも干してしまったので、カウンターに身を乗り出して酒の瓶に手を伸ばして掴み、手酌で飲み始める。
 腕時計を眺めると、夜の八時だった。店じまいは深夜二時だから、目いっぱい眠りに落ちたとしても、六時間近くは楽しめるな、と勘定し、外套のポケットに手を突っ込んで、その中に転がっていた金属の輪、指輪を手の中で弄ぶ。
(学歴もない。卑しい仕事だ、と蔑みやがって)
 恋人の父親に交際を反対され、その理由が吉岡の立場の低さにあることを露骨に突きつけられて、彼はそれこそ酒を呷って腐りたい気分だった。
(梢も梢だ。父親の言いなりにしかならないなんて)
 恋人の梢は項垂れて父親の言うがままに任せ、用が終わると父親に連れられて去ってしまった。誰も自分の味方にはなっちゃくれないんだ、と吉岡は父親から突き返された梢に贈った指輪を捨てる気概もなく、ただ弄んでいた。
「こんばんは。あなたが吉岡様ですね」
 振り返るとカウンターの中にスーツを着た女性が立っていた。黒髪を肩口で切り揃え、目許涼やかな女性だった。声にも濡れたような艶があって、聞いていると背筋がぞくぞくするような声だった。
「人気ナンバーワンの玲央奈ちゃんにお願いできるなんて、今日はラッキーだ」
「あら、お上手ですね」と微笑む。
 玲央奈は藤かごを差し出して、「どれになさいますか」と小首を傾げて見せた。
 かごの中には様々な本が収められていた。有名な作家のものから、世にほとんど出回らない作家のものまで、幅広く取り揃えられていた。
 吉岡は口に手を当てて、かごの前でじっと考え込んでいたが、やがて一冊の本に手を伸ばし、「これがいい」と引き出す。
 本のタイトルには「背反のシャドウ」と書かれ、補足情報に「近未来」「SF」という文言が付け加えられていた。作者名は書いていない。無名の作家の作だ。多分あまり人気がない作品だろうと吉岡は当たりをつけた。朗読師が持ってくる本は無作為に選んでいるらしいが、必ず有名作品と無名作品が交じって出てくる。大体の客は得体の知れない書き手が書いた小説よりも、有名な作品の方を選ぶ。
 だが、その選び方が必ずしも正しいとは限らない、と吉岡は思っていた。無名な作者の中にも掘り出し物は多くある。作家の中には死後有名になる類の作家も歴史上多い。逆に当時流行していたものが後世には跡形も残らないということもある。無名作家の中にも、評価されて然るべき書き手が埋もれていることは往々にしてあることなのだ。
「かしこまりました。それでは、『麻薬読書』のお席へ案内いたします」
 玲央奈の後について吉岡はホールに入ると、中ほどの空いている席に案内され、弾力のあるソファに腰かけ、肘掛けに腕を置き、背もたれに包まれるように凭れる。
「吉岡様はご存じのことと思いますが、当店の規定上、説明させていただきます」
 そう言って玲央奈が反応を窺うように顔を上げて吉岡を見るので、吉岡は頷いて先を促した。
「ありがとうございます。当店の『麻薬読書』は、わたしたち朗読師が朗読申し上げることで、眠りに誘い、その眠りの夢の中で本の世界の出来事を体験できるというサービスです」
 玲央奈は吉岡の足元に跪き、吉岡の選んだ本を掲げて、表紙をめくる。するとそこにはいくつかの条項でなる注意書きが記されていた。
「ひとつ、夢の中であっても傷を負わないこと。夢の中で負った傷は精神へのダメージとして残ります。命を落とすようなことがあれば、最悪夢の中から出られないこともあります。
 ひとつ、夢の中には『警察官』が現れることもあります。物語の登場人物とはまったく別個の存在で、見れば分かります。その『警察官』には絶対に捕まってはいけません。捕まれば、夢の中の牢獄に囚われ、夢から出ることが困難になります。
 ひとつ、睡眠導入の前に、夢の中の滞在時間をお選びください。規定時間を超えてもお目覚めにならない場合は、朗読師の判断で覚醒措置をとらせていただきます。
 ひとつ、夢の中の出来事には、当店では責任を負いかねます。夢から出られなくなった場合でも、当店では何ら責任を負いませんので、予めご了解くださいませ」
 玲央奈は読み上げると、にっこり笑って「まあ、出られなくなることなんてそうそうありませんけどね」と明るく言った。
「大丈夫だ。六時間で頼む」と吉岡は酒で火照った体に雨で濡れた服が張り付くのが気色悪く、襟元を扇いで風を送っていたが、手を止めて、肘掛けを掴むようにして腕を置いた。
 それでは、と玲央奈が次のページをめくり、小説の冒頭から朗読を始める。玲央奈の声は寄せては返す波のように、遠くで響いていたかと思うと徐々に近づいて聞こえ、また遠ざかり、近づき、ということを繰り返し、吉岡の意識を強烈に揺さぶった。
 この朗読の技術が、人気ナンバーワンの秘訣か、と頭をぐらぐらさせながら吉岡は考えていたが、やがて頭の奥がぴりぴりと痺れる感覚になり、意識がブランコに揺られているように大きく揺さぶられ、暗闇のトンネルの中に飲み込まれて、落ちる。

 はっと吉岡が気づいたとき、彼は空飛ぶ車の中に腰かけていた。隣では自分よりも年配の男がハンドルを握って煙草をふかしていた。
「よう起きたかい」
 男は制服を着ていた。複雑な意匠のエンブレムをあしらった帽子などから見て、警察官のようだった。一瞬「警察官」か、と思ったが、すぐに違うと気づく。もし「警察官」なら見た瞬間にそれと分かる、独特の気配を放っている。だが男にはそれがない。恐らく物語の登場人物の警察官だろう。
 なら自分は、と思って身なりを確認すると、同じような制服を着ていた。同じ警察官という設定の夢らしい。
「どこへ向かっているんだ」
 吉岡の問いに男は「おいおい寝ぼけてんのか」と呆れたように言った。
「これから学校に行くんだよ。立てこもっている強化人間の捕縛にな」
 強化人間、と訝しそうに吉岡が繰り返したのを見て、男は手を額に当てて天を仰ぎながら、「まじかよ」と絶句したように言った。
「人間の遺伝子をいじくって産まれた人間のことだよ。身体能力も頭脳も人間より優れちゃいるが、攻撃性が強い個体ばかり産まれるっていうんで、廃棄処分が決定された」
「廃棄されずに生き残っている個体がいるのか」
 そうだ、と男は頷く。
「運よく生き延びた奴がな。そういう奴が今あちこちで問題を起こしてる。だから俺たち警察は大忙しってわけさ。思い出したか」
 ああ、と頷いて吉岡は背もたれに沈み込むようにもたれ、腰の辺りを確かめる。銃を持っている。今回は身の危険がある世界か、と緊張感を抱いて窓の外を眺める。
 空は車が縦横無尽に飛び回っていた。見たこともない形状の高層の建物が密集するように建ち並び、建物の外壁には映像や文字が映し出され、何もない空間に女性の像が浮かび上がってにっこり笑っていた。喋っている内容などから察するに、自動車保険の宣伝をしているらしかった。
 覗くのは建物の高層ばかりで、下層や地面は建物に遮られてほとんど見ることができなかった。
 警察車両は音もなく空を切り裂いて飛び、やがて大きな鐘の塔のある建物に辿り着くと、その屋上に着地した。既に先着の警察官がいるのか、同じような車両が幾つも止まっていたものの、警官の姿は見えなかった。
「立てこもってる奴はどんな奴なんだ。……ええと」
 吉岡が名前を言えずに手をひらひらさせて口ごもっていると、「相棒の名前を忘れるかよ」と男は口をあんぐりと開けて呆れた。
「ゴメスだよ。忘れんじゃねえ。それからホシはこんな奴だ」
 ゴメスは吉岡の肩を小突いて、小さな板状の端末をポケットから取り出して映像を再生する。そこには長髪の若い男が映っていた。くたびれたコートを着ていて、手には銃を持っていることが確認できる。目つきが鋭い。猛禽類を思わせる凶暴さと冷徹さを持ち合わせていそうな目だ。
「ありがとな、ゴメス」
「一応俺の方が階級は上なんだがよ」
 まあいいや、とゴメスは髪をくしゃくしゃと掻き乱すと、腰の銃を抜いて屋上の扉に手をかける。
「いいか。まずはホシの位置を抑える。だが気を抜くな。奴は手強い。報告じゃ、先着隊も三人、既にやられてる」
 ごくりと唾を飲み込む。
 吉岡も腰の銃を抜き、安全装置を解除する。以前の夢の中でも、銃を扱った経験はある。そのときは右腕に銃弾を受けて怪我をした。そのせいで精神にダメージを受け、覚醒に手間取ったのだった。
 まかり間違っても死ぬわけにはいかない。たとえ夢の中でどれだけ子どもが虐殺されようと、自分だけは死んではならないのだ。
 普段ならそう思って、命の危険がある夢に飛ぶと、外れくじを引いた、と思っていたのだが、今回の吉岡はそうではなかった。梢とその父親のことで鬱憤が溜まっていた彼は、非道を成す犯人を、惨たらしい方法で殺してやりたいという衝動でいっぱいだった。外れくじも今回ばかりは当たりだ、と歓喜に震えながら銃を握りしめた。
 だが死なないのは前提だ。せいぜいゴメスを囮か盾にして、安全圏から犯人を無力化する。その後で犯人を蹂躙してやればいい。
 吉岡は先に建物に入って行くゴメスの様子を注意深く見つめながら、安全を確認して後に続く。
 廊下には二人の警官の死体が転がっていた。どうやら先着隊は甚大な被害を被っているようだ。吉岡は息を飲む。
「おい、油断するな。どこから出てくるか分からんぞ」
 廊下を渡り、階段を下る。電気が消えて薄暗い階段は、空気が冷え冷えとしていた。足音が妙に響く気がしたのは、きっとそれを恐れている怯懦な心ゆえだろうと思った。
 ゴメスは踊り場から伸びる廊下の様子を窺い、じっと耳を凝らした。吉岡もそれに倣う。
 遠くで銃声が響いた。音は下から響いてきたように思えた。
「下のフロアだ!」
 ゴメスが走り出すと、少し距離を置いて吉岡も続く。
 下の階に到着すると、廊下には一人の警官の死体があった。撃たれたばかりと見えて、まだ体が生温かかった。
「近くにいやがるぜ。気をつけろ」
 ゴメスは教室を一つ一つ窺っていく。教室の中はノートなどが散乱して乱れ切っているが、人の気配はなかった。生徒たちは避難したのだろうか。子どもたちの死体を見かけないということは被害がないと思いたいが、と吉岡も教室を確かめながら後に続く。
「いやがった」
 ゴメスが曲がり角で先を示すので覗き込んでみると、その先の廊下を歩いている犯人らしき男の背中が見えた。手には銃を持ち、悠然と歩いている。
「ここから狙えるか」
 いや、無理だ、とゴメスは首を横に振る。
「距離がある。撃っても外す可能性が高いな」
「気づかれずに近づけるか」
 ゴメスは苦笑いして、「多分気づかれるだろうな」と言いながらも廊下に向かって足を踏み出した。
「俺が先に突っ込む。お前は後から続いて確実に奴を仕留めてくれ」
「待て、ゴメス!」
 吉岡の制止も虚しくゴメスは走り出してしまう。吉岡も慌てて後を追ったが、廊下に出て男を視認したときには既に男が壊れた狂気の笑みを浮かべながら向かってきているところだった。
 このままではゴメスも危ないと判断した吉岡はゴメスに飛びつき、足をとられたゴメスは走っていた勢いのまま前方に倒れ、顔を強かに床に打ちつける。だが、二人の頭上を銃弾が行き過ぎ、壁に跳ね返った。
「ってえな! なにすんだよ」
「ゴメス、前だ、前」
 吉岡が叫んでゴメスもはっとして、鼻血を袖で拭いながらも立ち上がって銃を構える。「止まりやがれ!」
 男はにやりと笑むと迷いなく銃を構える。吉岡は横に転がって起き上がると銃を構え、「こっちだ!」と叫ぶ。すると男の中に逡巡が生まれ、銃口はゴメスを向いていたが視線は吉岡を捉えるなど、迷いが生じた。
「今だ、ゴメス」
 そう言って吉岡とゴメスは引き金を引く。男も引き金を引いたが、銃口はゴメスから吉岡に向けられていた。
 三発の銃声が鳴り響いて、男の胸に赤い血の染みが二か所じわりと広がっていくと、男は口から血を吐いて崩れ落ちた。
 吉岡は足に激痛を感じ、立っていられなくなって転び、自分の足を見る。右太ももを銃弾が貫通して、夥しく出血していた。
「大丈夫か」
 ゴメスは慌てて駆け寄り、ジャケットを脱ぐと自分のシャツの袖を引き裂き、それで吉岡の足に包帯代わりに巻いて止血を図る。
「あくまで応急処置だ。急いで治療しないと危ないな」
 ゴメスが手を差し出し、吉岡はそれを掴んで立ち上がる。ゴメスに肩を借りながら歩き出すと、ふと前から誰かが歩いてくる姿が見えた。
「あん? 誰だ」
 ゴメスが誰何すると、姿の主は廊下の影から姿を現した。恐らく生徒だろう。幼い少女だった。
 少女は光さえ飲み込みそうな暗黒色の長い髪を垂らし、鮮やかな真紅のワンピースを着ていた。瞳もそのワンピースから切り取ったような真紅であった。
「なんだ、子どもかよ」
 ゴメスが安堵して銃にかけていた手を離すと同時に吉岡もほっと息を吐いた。
 だが気を抜いた瞬間、全身の毛が逆立つような不快感を覚える。体の奥底から震えが湧き出てくるような感覚。吉岡は顔を上げて少女を見る。少女の体から何か禍々しい紫色の靄が立ち昇っているように、彼には見えた。
「だめだ、ゴメス。油断するな――」
 少女は、奴は。「警察官」だ。
 そう確信したときには、少女はゴメスの目前へとバレエでも踊るように飛び込み、その額に鈍く光る鎌を突き刺していた。
 ゴメスは白目を向いて即死し、崩れ落ちた。それに引っ張られる形で吉岡も倒れ込み、体を床に打ちつける。痛みはあった。だが痛みなぞに気をとられていれば、ゴメスのようになるのは間違いなかった。
 吉岡はすかさず銃を抜き、少女に向けて発砲した。だが少女は「あははは」と楽しそうに笑いながら、銃弾の軌跡が見えているような動きで銃弾を回避すると、ゴメスの額から鎌を引き抜いた。
 「警察官」には敵わない。遭遇したら逃げるしかない。夢の中の住人をどれだけ犠牲にしようとも。それが鉄則だ。
 奴らが夢にとってどういう存在で、なぜ襲って来るのか。麻薬読書者たちは膝を突き合わせて喧々囂々議論したが、答えは出なかった。興味深い意見としては、麻薬読書はこの上ない娯楽ではあるけれど、心身に相応の負担を強いる。それゆえ心身を保護するために自分自身が生み出した抗体のようなものではないか、というものがあったが、抗体ならなぜ宿主を攻撃するか、という問題に答えがでなかったため、正解とはされなかった。しかしあながち間違ってはいないのかもしれない、と対峙した吉岡はそう感じていた。
 銃弾を回避するような怪物に、どう立ち向かえと言うんだ。
 吉岡は足を押え、後退しながら銃を撃った。少女は優雅にワンピースの裾をはためかせながら避け、一歩、また一歩と血に染まった鎌をくるくると回しながら近づいてくる。
 一か八か、と吉岡はゴメスの死体に近付く。
 近づいてきて、少女が鎌を振った瞬間、死体を引き上げて盾にして受け止める。鎌さえなくなれば怖いものはない。後は鎌を失って隙を生じたタイミングを見計らって銃弾を撃ち込む。「警察官」を倒すにはそれしかない。
 吉岡はそう算段し、ゴメスの死体を握る手に力を込める。
 少女が近づいてくる。
 鎌が閃き、襲い掛かってくる――。

 玲央奈は吉岡の耳元で、朗読した物語を逆再生するように呪文じみた言葉を吹き込み続ける。
 店の中は一層薄暗くなり、ホールに残っている客はいない。
「だめかい?」
 店主が腰に手を当てながら吉岡の顔を覗き込み、玲央奈に視線を向けると、玲央奈は悲し気な微笑を浮かべて首をふるふると振った。
「完全な中毒症状です。恐らく『警察官』に捕まったのでしょう」
 麻薬読書者の運命か、と店主は頭を掻きながら呟く。
「もうちょっと覚醒処置を試してくれるかい。いい常連さんだったのでね」
「どれくらい麻薬読書を?」
「今回で十五回目くらいだな」
 十五回、と玲央奈は素っ頓狂な声を上げて、口元を手で押さえる。
「よくこれまで『警察官』に捕まらなかったものです」
 運がよかったのかねえ、と言って店主は煙草に火を点ける。
「店内禁煙では?」と玲央奈が顔を顰める。
「細かいことは言いっこなしだ。覚醒がうまくいかなきゃ、これから警察を呼ばなきゃならんからね」
 玲央奈はテーブルの上に置かれていた本を手に取り、再び吉岡の耳元で物語を逆再生する。しかし吉岡は死んだように眠り、微塵も身じろぎすることはなかった。
 店主はテキーラを飲み干すと、グラスに注いで満たし、吉岡の前に置く。
「末期の水とは言わんがね……」
 店主が玲央奈を一瞥すると、彼女は首を振って立ち上がる。
「オーナー、これ以上は」
「分かった。警察を呼ぶ」
 玲央奈は視線を吉岡に投げると、憐れむような目で見つめ、軽く一礼して「失礼します」とその場を後にする。
「物語と心中できりゃ、麻薬読書者としたら本望なのかねえ」
 吉岡の指がぴくりと動いたのを、店主は気が付かなかった。電話をかけるためにその場を離れ、ホールの照明を落とした。
 店内は朧げな残光だけを置き去りに、暗闇と静寂に包まれた。

〈了〉


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