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波間に揺れる

 波打ち際に貝殻が転がっていた。押し寄せては引く波に弄ばれ、ころころ、ころころと転がった。
 僕は裸足のつま先でそれに触れると、波に逆らうように転がしてやった。
「意地悪ね」と彼女が手で庇を作りながら眩しそうに目を細めて言った。
「死んだ貝だよ」と僕が口を尖らせて言うと、彼女は諭すように「死んでいるからこそよ」と言ってしゃがんで貝殻を拾い上げた。
 彼女は手のひらの上にその巻き貝を載せ、まるで生きているかのように指先でつついて見せた。
 僕はその巻き貝をぼんやり眺めながら、その厳しさといい、出で立ちといい、どこか西洋の騎士を彷彿とさせるものがあるな、と考えていた。
 不意に彼女があっ、と小さな悲鳴を上げて巻き貝を海の中に落とした。
 どうしたの、と顔を覗き込むと、彼女は泣き出しそうな顔をして、「刺されたみたい」と人差し指を僕に突きつけた。そこにはぷっくりと鮮やかな血が盛り上がっていた。
「まさか。死んだ貝だよ」
 僕は取り合わなかったが、彼女は「じゃあこの怪我はなんだって言うの」と怒ったように言った。
「僕がいじめたからかな」と冗談めかして言うと、彼女は指先を吸って、「きっとそうよ」と僕を責めるような湿った眼差しを向けて睨みつけた。

 僕は公立小学校の教師の職を辞して、アパートの荷物のほとんどをリサイクルショップに売り払い、本ですらたった一冊、作家だった彼女が唯一残した小説を一冊だけ残して、すべて古本屋に持ち込んだ。
 彼女の小説『波間に揺れる』だけは手放すことができなかった。情けない甘え、センチメンタリズムだと自分でも思う。だけど、完全な人間も完全な人生だって、どこにも存在しやしない。僕が僕に欠落したものがあると認めたところで、それがいかなる罪になるだろう。
 僕は最低限の荷物だけ持って、旅に出た。どこへ、という当て所もあるわけではなかったけれど、とにかく住み慣れた街を一刻も早く離れたかった。
 海沿いの街をとにかく巡った。そこで波打ち際に打ち上げられている貝を見つけては、その絵を描いた。
 それまでろくに絵なんて描いたこともない僕だったから、構図も形も何もかも歪んで不細工な絵だったけれど、それでよかった。いや、それがよかった。
 僕はあいつら貝を醜く描いてはそれを海に流した。紙は濡れて、絵の具がのったところから沈んでいく。波にもまれてぐちゃぐちゃになって、沈んで沖に運ばれていく。それを見送って、次の街に移る。
 そうして何箇所目か、数えることも忘れた街に立ち寄って、同じように貝の絵を海に流していると、後ろから声をかけられた。
「あなたって、意地悪なのね」
 はっとして振り返ると、そこには若い女性が立っていた。彼女の手にはリードが握られ、その先にはミニチュアシュナウザーがいて、襲い来る波にも負けずに海の中を飛び跳ねて遊んでいた。
「意地悪って、なぜ」
 貝の絵は沈まず、波打ち際を飛ぶように浮かんで漂っていた。絵の具が滲み、貝のシルエットがぼやけたものになっている。
「貝を苛めているんだもの」
 女性は名をミナトといって、この街に住んでいるとのことだった。彼女はよく好んでスカートを履いた。ミナトはジーンズにブラウス、彼女はロングヘアだったがミナトはショートヘア、と類似するところは少ない。顔立ちだって似ていないし、年もミナトの方が若い。それでも彼女の面影を見てしまうのは、どうしてなのだろうか。
「貝は嫌いなんだ。僕の大切な人を奪ったから」
 ふうん、とミナトは値踏みするように僕を足元から頭の先まで眺めると、波の中で狂喜乱舞していたシュナウザーのリードを手繰り寄せた。
 シュナウザーは不服そうに吠えては彼女の足にまとわりついていたが、飼い主の意思が固いぞと見るや、大人しくミナトの足元で砂を掘って遊ぶことに切り替えた。
「だから貝の絵を描くの」
 僕は頷いた。誰にも理解できない行動だろう。ミナトにだってそうだ。だけど、僕は理解してほしいとは思っていない。僕がそうせざるをえないから描くのだ。そこに理屈なんてないし、いらない。
「わたしは、物語を書くのよ。そうした、許せない何かがあったとき、その感情を物語の中に封じ込めて、物語の中で別の何かに昇華されるまで待つの」
 わたしは物語を書くの。見たくない感情ならなおのこと、見てよ、ほら、と誇示するように書いて残すの。
 彼女はそう語っていた。それを示すように、彼女の物語の中にはささやかな僕への不満だったり、世の中の不公平な物事に対する不平が込められていることがしばしばあった。それも、僕が読めば「ああ、これはあれだな」と思い当たってしまうぐらい克明に書かれていた。
「あなたの絵も、そうなんでしょう」
 ミナトの声に我に返り、「ああ、そうだね」と曖昧に頷くと、ミナトは「海に捨てなくてもいいのに」と沖へと流れていく絵を見送って呟いた。
「あなたの中には、苦しみしかないの」
 ミナトは表情を曇らせ、今にも雨が降り出しそうな悲しそうな顔で問いかけた。
「僕は……」と言い淀んで目を逸らすと、いつの間にかシュナウザーが僕の足元にすがりついていた。舌を出して尻尾を振り、前足で僕のズボンを繰り返し叩いた。ミナトの手からリードは離れていた。
「あなたが本当に捨てたいのは貝の絵? それとも他のもの」
 貝は嫌いだ。僕は確かめるように呟いた。
 貝なんて嫌いだ。僕も同じだからだ。貝のように殻にこもって、波に揺られるがままに生きてきて、ただ偶然近づいてきた獲物を捕食している貝と、僕の生き方は同じだ。
 彼女も僕なんかに出会わなければ、不幸になることもなかった。殻にこもっていた僕を救い出そうとなんてしなければ。
 僕は高校時代苛められ、またその延長で失恋し、勉強は好きだったけれど、奴らのにやにやした笑い顔を思い浮かべるだけで吐き気がして、学校に行くこともなくなって引きこもっていた。
 そんな生活を数ヶ月送っていたある日、僕はどうしてもほしい本があり、それを買ってくるよう親に頼んだらたまには出かけてみたら、となんでもないことのように言われて、よし行ってみるかと三日三晩悩んだ末に出かけることにした。
 本屋には難なく行けた。だが、その帰路で平日の日中のはずなのに奴らに出くわしてしまい、散々からかわれた僕はその場で嘔吐してしまって余計に囃し立てられた。胃の中のものはすっかり吐き出し尽くして、涙しか流れない僕を、奴らは笑った。
 そこへ通りがかったのが大学生だった彼女だった。
 彼女は状況を察すると颯爽と僕と奴らの間に割って入り、「弟を苛めるなら学校に通報するよ」と脅しつけて奴らを退散させてくれた。
 そして行きつけだという喫茶店まで連れて行ってくれ、冷たくておいしいレモネードをごちそうしてくれた。
 僕もすぐに心を開いたわけではない。でも、普通ならその場で終わってしまう関係なのに、彼女は踏み込んできて僕の連絡先をもぎ取り、連絡して外に連れ出そうとしたり、家に押しかけてきたり、そんなことをされている内に、彼女に惹かれるようになってしまうことは、仕方ないことだと思う。
「ねえ、じゃあ、わたしの絵を描いてくれない?」
 ミナトは海風に煽られて顔にかかった栗色の髪を掻き上げると、微笑んでそう言った。
「君の絵を」、僕はシュナウザーを抱き上げると、海から出てミナトに歩み寄り、その足元にシュナウザーを離してやった。
 すると飼い犬は嬉しそうに飛び跳ね、ミナトは跳ね回るリードを苦心して掴みながら、犬の頭を撫でてやっていた。
「そう、わたしの絵。それならあなたも、捨てたりしないでしょう」
 ミナトの瞳には深い悲しみの色が揺蕩っていた。それがなぜかは僕には分からない。だがその色が僕にミナトを描こうと決心させたのもまた事実だった。
 僕らは砂浜から上がって、防波堤に腰掛けると、スケッチブックと鉛筆を出して、ミナトの似顔絵を描き始めた。
「物語って悲しい結末になることもあるの」
 ミナトは微笑みを浮かべながら悲しそうな声で言った。
 どうせ描いてもらうなら、笑っている顔がいい、とミナトは主張し、彼女はごく自然な微笑を浮かべ続けていた。僕のような下手な絵描きにはもったいないくらいのモデルぶりだった。
「でも、物語は終わっても悲しみは終わらないのよ。その物語の中で生きている人たちにとっては、本当に辛く大変なのは物語の幕が降りてからなの」
 そうかもしれない、と僕も頷く。
「あなたはその物語の後を生きている、わたしはそう思った」
 どうして、とすかさず問う。彼女の特徴的な目の線を描き入れ始める。
「あなたが貝の絵を捨てていたから」
 それだけで、と僕はスケッチブックから顔を覗かせてミナトの目を眺めた。とても真っ直ぐで真摯で、どこか憂いを帯びた深い目だった。
「まだわたしの指を刺した貝を恨んでいるの?」
 え、と思わず口を開けてミナトを眺めた。一瞬その姿が彼女とダブって見え、彼女の声にさえ聞こえたが、目をよくこすってみるとそこにいるのは紛れもなくミナトであり、「どうかした」と怪訝そうに僕の顔を覗き込む仕草は真実らしく見えた。
 ミナトが言ったのではないのか。幻聴か。僕は頭を振って彼女の幻影を振り払うと、似顔絵に戻った。
「わたしはこの街で、弟を亡くしたの」
「弟さんを?」
 そう、とミナトは頷いて、微笑を浮かべたまま「船の事故で」と言って、沖合の方へ一瞥を投げた。
「弟は父の跡を継いで漁師になったんだけどね、嵐に飲み込まれて、行方が分からなくなった。四日後に転覆した船が発見されたけれど、弟の姿はなかった」
 僕は鉛筆を走らせていた手を止め、ミナトの顔を見つめた。彼女は微笑んだまま、左の目から涙をすうっと頬を伝って流し、顎の先から雫がこぼれ落ちた。
「僕は、ここではない海で、恋人を亡くした」
 美しい碧い海だった。その美しさは僕らの前途を祝うようで、その影に暗いものが忍び寄り、隠れているなんて思いもよらなかった。
「その海で彼女は貝に刺された。それが厄介な貝だったらしくて、彼女は高熱を出した。慌てて病院に連れて行こうとタクシーに乗って、向かう途中、信号無視の車が突っ込んできて」
 僕は足の骨折で済んだが、タクシーの運転手と彼女は即死だった。僕が助かったのも奇跡的だ、と言われた。
 突っ込んできた車を運転していたのは、免許取り立ての地元の大学生で、同乗している友人との会話がエキサイトしてしまい、信号を見落としたのだそうだ。彼らの側に死者が出なかったのは皮肉というほかない。
 あのとき貝に刺されさえしなければ。そこが分岐点だったのだと思わずにはいられない。だから僕は、貝を憎む。そして貝のように押し黙って過去をいたぶることしかできない僕を、憎む。
「絵を描き続けて。あなたがいつか捨てられないものをまた見つけるまで」
 見つかるだろうか、と僕はミナトの唇のラインを描き入れながら首を傾げる。
「見つかるわ。わたしの絵が、まず一つ」
 うん、と僕はミナトの唇を注視しつつぼんやりと頷く。
「わたしのことを見つけてね」
 寂しそうな声音に、え、と顔を上げると、ミナトの姿はなかった。周囲を見回してみても、彼女らしい人影はない。
 だが、僕の手元にはほとんど完成したミナトの絵が残っていた。それが夢幻の類だとは思えなかった。
 シュナウザーが波打ち際を行ったり来たり走っている。そうだ、あの犬の存在もミナトの裏付けになる、と思って棒立ちになっていると、離れたところからワンピース姿の女性が歩み寄ってきて、シュナウザーが嬉しそうに彼女に飛びかかっていく。
 僕は慌てて防波堤から滑り降り、女性に近づくと、年の頃は同じだが似ても似つかない女性だった。
「あの、その子あなたの犬ですか」
 突然近寄って声をかけてきた男に警戒心を抱きつつ、女性は「そうですけど」と刺々しい口調で答えた。
 女性はじろじろと僕を眺め、そこでスケッチブックに目を留め、そこに描かれている絵を認めると、「ああ、あなたも」と表情を緩ませて言った。
「どういうことです?」
 女性はシュナウザーを抱き上げると、足についた砂を払って、「私も会ったことあるんです、ミナトさん」とスケッチブックを指さした。
「本当ですか」
「ええ。でも、彼女どこの誰か分からないんです。私もまた会いたくて、出会ったこの砂浜に通っているんですけど」
 そうなんですか、と幾らか落胆しながら言うと、女性は「もしよかったらお食事でもどうですか」と誘ってくれた。
 彼女以外の女性からの誘いなど初めてだったので、僕はどぎまぎしながらも「ええ、構いませんが。でもどうして」と無粋な返し方しかできなかった。
 女性はそんなこと気にした素振りもなく、「ミナトさんのお話が聞きたいと思って」と相好を崩して言った。
 僕は女性と食事をし、ミナトについての情報交換をして、もしお互いにまた分かることがあれば、と連絡先も交換した。
 その夜はミナトがいた海辺の見える宿に宿泊し、翌日から引っ越し作業を始めた。一応住所が置いてあった自治体に戻って転出の手続きをして、荷物をまとめてミナトの街に引っ越した。
 女性とは交流が続いている。食事をしたり、一緒に海辺を散歩したり、よき友人といった間柄だ。
 僕はいつでもミナトのスケッチを持ち歩いた。貝の絵を描くことはやめた。その代わり、女性や、街の人々、風景を描いて、描き溜めていった。
 彼女の小説も手放した。たった一つの物語に呪縛されて生きるようなことは、きっと彼女も望まないだろうから。
 僕はいつかまたミナトに出会うことを確信していた。そのときに胸を張って彼女の絵を渡せるように、僕は捨てられないものを集めておこうと思うのだ。

〈了〉

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