彼女の創世
朝目覚めたら、知らない男が部屋にいた。
男は六十代後半くらいの、光の当たり方で銀にも見える白髪の持ち主で、体にぴったりと合った濃紺のスーツの上下に、えんじ色のネクタイを締めていた。胸元からは白銀の鎖が伸び、辿っていくと手の中のフルハンターの懐中時計が規則正しく時を刻んでいることに気づく。
部屋の中は間違いなく私のものだった。
一人で住んでいる一軒家の貸家の寝室。二階の奥にあって、広いバルコニーにはブロンズのテーブルと椅子が置いてある。パキラなどの観葉植物を部屋の隅に置いて、レトロ趣味が高じて購入したレコードプレイヤーには、大きな二対のスピーカーが接続してあって、それでクラシックのレコードなんかを聴くと、一人でコンサートホールの中にいるような幸福感を味わうことができる。
ベッドは何の面白みもない、ウッドブラウンに塗装された木製のもの。マットレスも敷布団も、量販店で購入した安物。だけど枕だけは、駅中のショッピングビルに入っている、枕のコンシェルジュのいるショップに何度も通い、納得できるまで相談を重ねて出来上がった特注品だ。
そのベッドの上で目を覚ました私は、部屋の出入り口に寄り添うように置いておいた木製の椅子に、その男が腰かけながら本を読んでいる姿を目の当たりにした。
誰、と誰何すると、男は柔和な微笑みを浮かべてぱたんと本を閉じ、「豊山と申します」と静かに言って頭を下げた。
いや、そういうことじゃなくて、と私は着ているのが薄手のタンクトップ一枚とショーツだけで、ブラジャーもしていなかったことに気づき、シーツを胸元まで上げて抗議するように言った。
「ご不審はごもっとも」と男はゆっくりと頷き、顎の先から長く伸びた、豊かな白いひげをさすりながら、「しかしこの部屋に逃れて来ねばならぬ理由がありましてな」と困った表情を浮かべる。
「なんでもいいから、出て行ってよ。警察呼ぶわよ」
男は悲しそうに目を伏せた。深い藍玉のような瞳が床をじっと見つめ、ため息とともにその双眸が私を見た。
「出て行くわけには参りません」
「本当に警察を呼ぶわよ」と私は枕元で充電器に接続してあったスマホを取ると、110番を押して、コールボタンの上に指を沿わせる。
「どうぞ。お呼びください」と男はため息を吐く。
その挑発的な言動が気に入らなくて、私は110番をコールしたが、呼び出し音が鳴ることすらなく、電話が不通であることを無情な電子音が知らせていた。
私は繰り返しコールしたが、決して繋がらなかった。得も言われぬ焦燥感と恐怖心に煽られた私は、手当たり次第に知り合いの番号にかけた。親、弟、職場の先輩、友人、初恋の人……。誰も電話には出なかった。それどころか、通じすらしなかった。
「ねえ、どういうことなの」
男は私が慌てふためき、困惑しているのを憐れむような目で眺めていた。
「どこにも繋がりはしません。今や世界に生きているのは、わたくしとあなたしかいないのですから」
そんなばかな、と絶句して、私は男の目があることも構わずにベッドから出てタンスの中からシャツとジーンズを引っ張り出して、タンクトップを脱いでシャツを着、ジーンズを履いて部屋の外に出ようと扉に駆け寄り、ドアノブを握ろうとする。
「おやめなさい」と男は立てかけてあった、犬の頭が持ち手の頭に彫られた木製の杖を掲げて私の行く手を遮り、疲れたように首を振った。
「扉の外は地獄に繋がっています。見ない方がいい」
男の声は低いがゆらぎがなく、一本筋が通っているように真っ直ぐだった。その真っ直ぐな声が、私の耳朶を打ち、するりと首に巻きついて締め上げるような、そんな気がして思わず手を引きかけた。
だが、好奇心の方が勝った。地獄とまで言われたら、見ずにはいられない。だって、部屋の外にはなんの変哲もない、吹き抜けの階段とコの字型の廊下が広がっていて、一階に下りてもリビングは物置同然だったし、風呂やトイレなど当たり前の設備しかなかった。それが地獄だなんて。
私がドアノブに手をかけると、男は無言で杖を引いた。泣き出しそうな顔をして私を見上げ、ため息とともにふるふると子犬のように首を振って、椅子に深く凭れて黙り込んだ。
地獄へ繋がる扉のノブは、刺すように冷たかった。冬の朝、窓を開けて凍りついた空気を部屋に取り入れたような、そんな冷たさだった。
音がして、扉が徐々に開く。蝶番が軋んで悲鳴を上げ、ドアノブの冷たさとは裏腹に、焦熱の風が獲物を待ち構えていたように荒れ狂いながら部屋の中に入り込んでくる。
扉の向こうに広がっていたのは、男が言うように確かに地獄だった。
大量の土砂が流れて、街を埋め尽くし、その土砂の上を火の車が巡り歩くように炎柱が周囲を取り囲んでいた。空には雲とは違う、白色の粉塵……恐らくは灰だろう。それが立ち込めていて、太陽の光を遮っているせいで、一帯は薄暗いのだけれど、灼熱に燃える炎の波が光を発し、空の暗さとコントラストを成すように大地は赤く輝いていた。
街はすべて土砂の下で、どういうわけか私の貸家の二階だけが、ぽっかり土砂の山に顔を出しているような具合だった。地平の果てまで、土砂に潰された大地と炎の海が広がっているように見えた。
「ねえ、なんなの、これ」
私がその場にへたり込むと、男は部屋の中を荒れ狂う熱波を締め出すように両手で扉を引き、ようやく閉めると、「申し上げたでしょう。この世は地獄だと」と幼子に諭すような穏やかで優しい声で言った。
「街は。世界中がこんな状態なの?」
私は顎が小刻みに震えるのを止められなかった。恐怖を上回るような強烈な亡失の感情が全身を引っかくように爪を立てて暴れまわり、その感情が私の肉も皮膚も削いで、空疎な骨を剝き出しにしてしまうようだった。
「昨晩、小さな隕石が地上に落ちました。隕石は地表で爆発することなく、地中へと潜り、大地の中で膨れ上がって炸裂するように爆発しました。そして爆発のエネルギーは地中をみみずのように這って駆け巡り、世界中の大地という大地を破裂させ、人間の街を、文明を、世界と呼ぶものを、飲み込んでいったのです」
どうして、ここだけ、と私は喘ぐように言った。息が苦しい。どれほど空気を吸っても、肺の中に満ちてこない。空気が寒天のように固まってしまって、私はそれに必死に齧りついている。でも、どれほど齧って咀嚼して飲み込んでも、私の中にそれは入ってこない。
「あなたは選ばれたのでしょう。何に、とは申せません。人間が滅び去った今、世界も神も、同時に滅び去ったのですから」
あなたは、どうして。
私は虚ろな目と声で、やっとのことでそう訊ねた。私が選ばれたというなら、あなたも選ばれたということ? 私たちが新世界のアダムとイブとでも言うつもり。冗談じゃない。もし私をイブなんかに選んだのだとしたら、知恵の樹の実を、火を点けて燃やし尽くしてやる。
「わたくしはたまたま、この近くを通りました。それで、我が身惜しさに逃げ込んでしまったというわけで」
男は恥じ入ったように身を縮こまらせ、肩を竦めて言った。
「なぜ、ここに来れば助かると」
ふむ、と男はひげをさすりながら柔和な笑みを浮かべる。「それは、天啓とでも言うもので」
天啓? と私は訝しく、眉をひそめて訊き返した。
「ええ。わたくしはこれでも神父でしてな。わたくしの信仰する神は、もう滅んでしまいましたが、最期に教えてくださったのです。わたくしが生き残る道を。しかし、今思えば、神が滅びるのにわたくしだけが生き残る天啓というのはおかしなもので、ひょっとしたらあれは悪魔の甘言だったのかもしれません」
あなたが信仰する限り、神は存在するのでは、と私は男の胡散臭い説明に飲み込まれているのを感じながらも、訊かずにはおれなかった。
「わたくしの信仰心は死にました。世界が炎に包まれたとき、わたくしは世界を守り給わなかった神を恨んだのです。その瞬間、わたくしの神は死にました。やはり、あれは悪魔の囁きだったのでしょう」
私はドアノブにすがって立ちながら、いつの間にか滂沱と流れていた涙を手の甲で拭い、「私はどうしたら」と男に訊いた。
「旅に出るべきですな」と男は自分が開けるなと言ったにも関わらず、正反対のことを言う。
「あ、いや。ご不審もごもっとも。ですがわたくしはこちらの扉から出るのではなく、そちら側の出口から旅に出てほしいと思うので、お止めしたまでで」
男が指さす方向、私が立っている扉の反対の壁には、存在しないはずの扉があった。目の前の扉と双子のようにそっくり同じな木製の扉。
そんなところには扉などないはずだった。そこは味気ない真っ白な壁紙の壁で、その殺風景さが気に入らなくて、ジョルジュスーラの絵の模写を飾っていたぐらいだ。
今その絵は消えて、扉だけがそこにある。ジョルジュスーラの絵のような、表情の抜け落ちたようなどことなくぞっとしない扉。
私はゆっくりと扉を離れて、反対側の扉へと歩み寄って行く。男が後ろからゆっくりとついてくる。
ドアノブに手をかけ、扉を押し開くと、何の色も香りもない、無個性な風が隙間から忍び込んできて、部屋の中に満ちる。
開け放たれた先には、荒涼とした荒野が広がっていた。まばらに草が生え、丈の短い木が点在している他は、茶褐色の地肌が剥き出しになった荒野。そこには荒れ狂い大地を焼き尽くす炎も、空を霞ませ、暗い雨のように降り注いでいる灰もなかった。空は絵筆で撫でつけたように濃い青の空が広がっていたし、風は熱気とも冷気ともつかない、曖昧なものを孕んで穏やかに吹いていた。
「どうして、こっちは?」
呆気にとられている私を男がぽんと背中を押したので、扉の外へと思わず足を踏み出してしまう。
「そこは数千年後の未来です。そこを旅して、あなたは旧世界の物語を神話として紡ぎ、新しい人類の歴史を刻むのです」
私は振り返って部屋の中に戻ろうとする。だが、見えない何かに阻まれて、私は部屋の中に指先一つも通すことができなかった。
「ちょっと、そんなこと勝手に」
「神とは、勝手なものですから」と男は断言し、悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
「わたくしはあなたの旅を見守り、ここで旧い世界とともに滅びていきましょう」
ちょっと、開けてよ、と私は見えない壁を力いっぱいに叩き続けるが、壁はびくともしない。それどころか、壁は靄がかかっていくように白くなって空気に溶けていく。
「新しい世界に、祝福あれ」
男がそう言うと、部屋の扉は完全に空気の中に消失し、触れることさえできなくなった。
途方に暮れた私は周囲を探って私の部屋がないかどうか確かめたが、あるのはただ荒野ばかりで、人の気配すらなかった。だが、周囲を探ってみて、太陽の位置から考えて東の方に、荒野ではなく緑に満ちた野原や森林のような場所が見えたので、ひとまずそこに移動することにする。
世界が滅んだだの、新世界だの、まるで夢の中にいるようなことばかりで、これは夢なんじゃないか、とぼんやり考えながら歩いていたら石に躓いて転んだ。膝は擦り剝いたし、痛みはしっかりとあった。
蹲ったまま、私は涙が間欠泉のように湧き上がってきて、目から溢れるのを防ぐことができなかった。
もう、誰もいない。世界には誰も。父、母、弟、カッちゃん、ナミコ……。私の知っている人も知らない人も、世界を包み込んだ火に焼かれ、いなくなってしまった。
ハンターハンターの続きが読めないのだ、ということに思い至って、せめて完結してから世界が滅びればいいのに、と思ったけれど、それじゃいつまで経っても滅びることができないもの、世界を滅ぼしたのが神様か何か知らないけれど、待ってはいられないな、と自嘲気味に笑った。
涙を拭って手の甲を眺めて、あ、私すっぴんだ、と気づいたけれど、この荒野で誰も見る人はいないなと思った。けど、映画とかだとこういう場合でも、メイクばっちりだよなと考えて、ますますこれは現実なのだ、という思いを強くした。
いつまでも泣いていても仕方ないか、と立ち上がる。腕を真っ直ぐ上に伸ばし、胸を張って目いっぱい背筋を伸ばす。よし、と両手で頬を叩いて気を入れ直し、歩き始める。
空には鳥が飛んでいた。風がさらさらと吹いて髪を撫でていくのを手で押さえながら見上げる。空も雲も、私が知っているものと変わらない。ここは本当に、数千年後の世界なのだろうか。
まだ疑問に思いながらも、私は足を前に進め続けた。進み続けていれば、答えがどうあれ、それを知ることはできるだろうから。
〈了〉
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