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水鏡

 妻が引き籠った。冷たい水の中だ。
 これは比喩ではない。ある朝僕が起きてくると、テーブルの上に無機質な金属のように固く整った字で、「あなたの背広に入っていた名刺は何?」とだけ書かれた書置きがあった。いつも妻が座っている席には、どこにでも売っているような白いプラスチックの洗面器が置かれていた。
 名刺、と言われてあっ、と僕は思い至った。先日会った取引先の営業が、元彼女と同姓同名で、残しておいたら嫉妬深い妻がどう思うかと思って名刺入れから抜いて、後で処分しようとポケットに無造作に突っ込んでしまったのだ。
 お前は迂闊だよな、と同僚からよく言われる。あと、最善の反対のことをする、とも。今回がまさしくその通りで、名刺入れなんか妻は滅多に覗かないし、そのままにして会社で処分すればよかったのだが、焦ってしまうと思考回路は正常運転をしてくれず、異音を轟かせて逆回転を始める始末だ。
 洗面器を覗き込むと、じとっとこちらを睨みつける妻の姿があった。その目には嫉妬を超えた、攻撃的な敵愾心が見え隠れした。
「お願いだ、出てきてくれ」
「いやよ。あなたの口から、納得のできる説明をもらうまでは」
 僕はゆっくりと呼吸して、言葉を一つ一つ吟味しながら、それこそ妻がきゅうりや人参を値踏みするように慎重に選んで、名刺は取引先の営業からもらったこと、それが元彼女と同姓同名だったのでいらぬ心配を与えたくなかったことを説明した。
 僕の説明を聞き終えると、妻はせせら笑って、「嘘よ」とたった二文字で僕の労力と誠意を一刀両断にした。
「だって、その名刺の人から電話かかってきたもの。ここに」
 僕は絶句して唖然としてしまったが、沈黙は肯定だと妻に誤った予断を植え付けかねない。けれど、僕の口からでてきたのは「なんで」という間抜けな問いだった。
「さあ? 私が無言でいたら、先日のディナーは素敵でしたとか、次はいつお会いできます、とか言ってたけど。ねえ、取引先の人がなんでウチの番号を知っているのかしらね。あなた、接待なんか嫌だってぼやいてた割には、随分楽しそうなのね?」
 あ、いや、それは、と僕がしどろもどろになっていると、妻はそんな僕の狼狽すら嫌悪したのか、冷ややかな眼差しと笑みを向け、すーっと水の中に溶けるように姿を消してしまった。
 それから一週間、妻は水の中から出てこない。姿を見せてさえくれない。
 進退窮まった僕は三日間有給休暇を申請し、四六時中洗面器に張り付いて呼びかけてみたり、バックミュージックに結婚披露宴でも流した、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」や、ドライブするときによく聴いたウェス・モンゴメリーの「フル・ハウス」を流してみたりしたのだが、水面に波紋ひとつ起こらなかった。
 残りの四日間、僕は日当たりのいいベランダに洗面器を抱えて座り、何度も何度も謝り続けた。時間だけは腐るほどあった。
 有給休暇を取り終えて出社した日、僕の机はフロアから消えていた。なぜ、と課長に恐る恐る訊ねると、「君、異動だから」と折り目のついた辞令を渡されて、案内されていった場所は階段下の倉庫だった。倉庫の備品管理が業務だから、と言われたが、目の前の倉庫が開いているところを、僕は見たことなかった。
 そのまま感情がごっそりと抜け落ちた状態で帰ってきたが、職場からは一件の着信もなかった。翌日には解雇通知書が郵便受けに差し込まれていた。
 僕は妻には仕事を解雇されたよと報告できず、ただひたすらに謝り続けた。その内、僕は何に謝っているのか分からなくなり、そもそも妻が引き籠らなければ有給休暇をとるなんてこともなく、職場を辞める破目にもならないで済んだのに、とお門違いの怒りを抱くようになって、洗面器の水を捨てよう、と決意した。
 洗面器を抱えていざ流しの前に立ってみると、怖くなった。もし妻が今もこの水の中にいるのなら、流すことは殺人に等しい行いではないか、と。妻の水は下水を通り、長い道のりの先に処理場に辿り着き、薬剤や機械などで消毒されて再びどこかの家庭の水として流れ出ることになる。それはこの家かもしれないし、憎き課長の家かもしれない。
 処理場で、無数のカッターがついた機械が回転していて、妻の体を切り刻み、炉が火を吹き出し、部屋中に火の粉が舞っているような焼却炉に運ばれ、無数の肉塊となった妻を焼却してしまう光景が浮かんだ。
 そう思うと、妻を下水に流すことなんてできない、と僕の弱気が鎌首をもたげて、ゆっくりと僕の胸を押して後ずらせようとする。
 逡巡していると、突然水の中からにゅっと裸の腕が伸びてきて、洗面器を握る僕の手を払った。あっと声を上げたときにはもう遅く、洗面器は流しの中に落ちて、水をすべて下水の中へと流し終えていた。
 あ、あ、あーっと僕は間の抜けた声を上げて、流しにかじりつき、少しでも水を掬えないかと手を伸ばしてシンクを擦ったが、ぬめぬめとした汚れが手にへばりつくばっかりで、水など掬えるはずもなかった。
 妻を流してしまった僕は消沈し、寝室のベッドの上で泣きじゃくった。「ほら、また泣いてる」、呆れた妻の声が聞こえるような気がした。いや、聞こえてほしかった。
 泣きつかれた僕はそのまま眠ってしまい、夢を見た。
 名刺を見つけ、あの女からの電話を受け取った妻が怒りで顔面蒼白にしてわなわなと震え、浴室から水の張った洗面器をテーブルに置く。そしてストッキングを脱いでつま先からずぶずぶと洗面器の水の中に入り込んでいって、やがて頭まで沈んでしまう。
 そういう夢だった。僕はこれこそ天啓だと信じた。同じようにすれば、僕も妻と同じ世界に行ける。そうすれば、連れ戻すこともできるかもしれない。なんでこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのだろう、と僕は自身の迂闊さを呪いたい気分だった。
 僕はもう一度洗面器になみなみと水を張ると、着ているものを脱いで下着だけになり、ゆっくりと洗面器の中に足を入れていく。
 洗面器からは水が溢れ、床の上に流れ落ちる。床の上に落ちていた妻の書置きが濡れて、字が滲む。
 僕の体が水の中に沈んでいく感触はない。だが、粘り強く待った。
 おもむろに視線を落として僅かに揺れる水面を眺める。そこには笑った妻の姿が見えた、ような気がした。

〈了〉

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