虚構でもないかもしれない日記~6月7日~
■結局現実なのか、虚構なのか
書いてあることは現実でもあり、虚構でもあり。されど虚構日記のように完全な虚構ではなく。私の現実の生活や考え方などが織り交ぜられています。小説に近いエッセイのように読んでいただくとよろしいかと思います。
ただ、どのように楽しまれるかは読む方次第。
現実のものとして読むも、完全な虚構の小説として楽しむも自由です。
よきようにお楽しみいただければ本望です。
■6月7日
朝方車を運転していると、駅から少し離れた歩道を歩いている女性を見かけた。
女性はオレンジのスーツケースを引いて、紺のワンピースの裾をはためかせながら、駅の方へと急ぎ走っていた。
彼女の来し方はホテルや旅館などまったくない、民家ばかりの住宅地だと思えるのだが、一体どこから走って来たのであろう。それとも彼女はこれから旅に出る、その途上のことだろうか。その可能性の方が高そうだ。
だとすれば、彼女はどこへ行くのだろうか。スーツケース一つ。他に荷物は見受けられない。せいぜい二、三日の旅か。となれば国内の旅行か。
このように、道行く人の来し方と行く末をあれこれ邪推する癖が、私にはある。
子どもの頃から不思議でならなかった。私の生活の外には無数の他人という生活があって、それが過去と未来を蠢くように這って歩いているのだということが。
特に車に乗っているときに道行く人のことをあれこれ妄想する。それは車が基本的には前進する、つまり過去から未来へと矢のように走ることに起因するかもしれない。車が後退するときは、他者は気にならない。それは駐車という車を、つまり進む時間を停止させる窮屈な行為だからかもしれない。
だから子どもの頃、車に乗って退屈するということはなかった。
一度道に出れば、そこは人、つまり物語に満ちているからだ。一人の物語に耽溺すれば、十分な時間が潰れるし、街中に出れば妄想し放題なほど人はいる。
ここでようやく本題に入ろう。彼女の来し方と行く末だ。
年の頃は二十代から三十代といったところだった。髪の毛はしっかりセットされていて整っていたし、服装も足元まで気を配られている。朝の多忙な時間帯に出だしていることから、子どもはいないと見る。社会人の、独身の女性、としたいところだが、ここは既婚者としてみよう。
そして彼女はこれから帰るのではなく、旅に出る。それは歩いていた立地から考えるとそう結論付けざるをえないように思う。
彼女は道を走っていた。恐らく電車の時間が近いのだろう。調べてみたところ、彼女が目指す駅の時刻表によれば、彼女が乗る予定なのは、時間的に特急電車だ。であれば、行き先は東京。急いでいるということは、乗る特急が決まっているということ。そして、それは目的地への到達時刻にも制限があることを予想させる。
つまり、彼女は何らかのイベント、演劇やコンサートやライブであったり、時間に定めのあるイベントに参加しようとしているのではないか。
その観点から調べてみると、新国立劇場で、13時からロミオとジュリエットが上演される。時間的にも符合する。
そうか、彼女はジュリエットであったか、と得心して妄想を止める。願わくば、彼女がロミオと出会えますように。
ああ、既婚者だからロミオを置いてきたのだったか。新たなロミオと出会ってしまってはまずいので、願いを取り下げる。こう言い換えよう、願わくば、彼女がロミオの元へ幸福を携えて帰れますように、と。
午後は図書館に立ち寄った。
閲覧スペースには常連の老人たちが眼鏡を上げ下げしながら新聞を読んでいて、児童書のコーナーでは母子が微笑ましい、他愛のない会話を繰り広げていた。
私は海外文学のコーナーに足を運んで、久しぶりにデュマの『三銃士』を手に取ってぱらぱらと眺めていた。何かの本で読んだが、『三銃士』の主人公ダルタニアンも、『シラノ・ド・ベルジュラック』のシラノもガスコーニュ地方の出身で、この地方の出身者は頑固者が多いらしい。二人を見ているとさもありなん、とおかしくなってくすくすと笑ってしまう。
読んでいると、足元で何かがさわさわと蠢いて私の足に触れる。なんぞやと思って視線を落とすと、そこには一匹の猫がいた。ごわごわとした毛が特徴的な、野暮ったい茶トラだが、目がくりくりとして顔に愛嬌がある。私と目が合うと「みゃあ」と鳴いてとことこ歩いて行く。
なぜ図書館の中に猫が?
私は疑問に思ったけれど、茶トラはついてこいと言っている気がして、大人しく猫の後をついて行くことにした。
茶トラは海外文学の棚から日本文学の棚の方へぐるりと回ると、足早にとてとてと歩き過ぎると、ある棚の前でぴたりと立ち止まり、棚の中へ潜り込んで丸まった。
おいおい、と慌てて茶トラを抱え上げると、そこは朱川湊人さんの棚であった。確か、朱川さんには猫を題材にした『スメラギの国』という小説があったなと思い出す。猫と人との闘争を描いたもので、猫好きな人にはあまり勧められないような小説だった気がするが……。
茶トラはそこから螺旋階段をぐるりと包んだ廊下を渡って行くと、カウンターの横をかすめて自動ドアの前に立つ。図書館員たちが猫に気づいている素振りはない。はて、と私は首を傾げながらも自動ドアの前に立って開けてやり、外に出た茶トラを追う。
ここの図書館には駐車場に隣接して公園がある。茶トラはどうやらその公園の方を目指しているようだ。
私は昼飯にと思って買っておいたパンの袋を提げたままだったことに気づき、一旦車にそれを置いてこようかと迷ったが、茶トラの追跡を優先することにした。
茶トラは悠然と駐車場を歩いて行く。車が来ても構うことなく、首をもたげて。車の方がぎょっとしてブレーキを踏んで止まり、猫が過ぎていき、その後ろを私が頭を掻きながらへらへらと過ぎるのを見守る。
公園に入ると、爽やかな風がさあっと吹き過ぎた。植樹されたナナカマドの樹が風に囁き声をのせて笑い交わしているようだった。
茶トラはナナカマドを見上げて、「なあん」と語りかけるように鳴き、私を一瞥すると再び歩き始めた。
公園の中には水路があり、かつては水が流れていたのだが、今では水を止めて干上がってしまっているため、単なる溝となっている。溝とは言え、大人一人分の身長くらいの幅があるから、一跨ぎで渡るというわけにもいかない。溝の間に置かれた飛び石を踏んで渡れるようになっており、茶トラはそこを器用に跳んで渡る。
渡った先には植え込みがあり、よく見ると植え込みには隙間があって、そこへ茶トラは滑り込んでいく。
私も追って隙間に顔を突っ込むと、這えば人一人くらいなら入れそうな広さがあった。その隙間に広がる空間の先に茶トラはいて、「なあんなあん」と私を誘うように鳴いている。
尻まで完全に隙間に入ってしまうと、茶トラが目の前に近付いてきて、私の手に持っていたパンの袋を手でしたしたと叩いた。
駄目だ。これはお前のじゃないよ。
私はそう言って袋を引っ込めたが、茶トラは牙を剥いて鳴いて、その鳴き声に呼応するかのように後ろから音色のまちまちな猫の鳴き声があがった。
振り返ると、そこには三匹の猫がいて牙を剥いていた。
退路を塞がれた形になり、もし強行突破して下がり、出ようとすれば猫たちの手痛い一撃に見舞われるだろう。たかがパンのために馬鹿馬鹿しいと、私はコッペパンを取り出して、ちぎって投げたが、茶トラは匂いを嗅いだだけでふんと顔を背け、鳴いた。まるでこれじゃない、と言っているようだった。相変わらず後ろの三匹はけたたましく鳴き交わしている。
もしや、と思って私は楽しみにしていた好物のたまごサンドを引っ張り出すと、茶トラたちの唸るような声が歓声に変わった。
これを狙っているのか、と私は肩を落としたが、止むをえまい、と封を切って茶トラに差し出す。三匹の猫も私の脇の間などを潜って茶トラの横に駆け寄り、たまごサンドをうまそうに齧っている。
なるほど、ダルタニアンを囮に、三銃士、アトス、アラミス、ポルトスが敵の退路を塞ぐという手口か、と私は苦笑した。
猫三銃士。見事なお手並みと脱帽して、私はその場からそそくさと逃げ去った。
もう猫の後をついていくような、軽率な真似はすまい、と思った。その猫がどれほど可愛らしい猫であったとしても。
朱川湊人先生、人智を超えたスメラギのような猫は、ここにもいましたよ。
ちなみに、当然のことながら昼飯は抜きになった。
〈また機会があれば後日〉
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