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青い街

 地面の下には水が埋まっていて、その底には街がある。
 水底の街は青く輝いていて、そこには僕らにそっくりな人間がいるけれど、彼らは水の中でもくぷくぷと息をすることができて、くぷくぷという音で会話するらしい。どういう原理か分からないけれど、街には灯りがあって、電気で光るのだが、それが青い光なので、街は青く輝くのだ。
 それを教えてくれたのはじいちゃんだった。
 じいちゃんは猟師だったが罠にかかった猪にとどめをさそうと棍棒を持って近づいたところ、手負いの猪は最後の力を振り絞ってじいちゃんのふくらはぎに牙を立てた。じいちゃんは二十針を縫う大けがをした。そのけがのせいでじいちゃんは松葉杖をつかないと歩けなくなり、猟師は辞めざるを得なかった。
 じいちゃんが猟師だった頃は、鹿だの猪だの、鳥はキジだのヤマドリだのを獲ってきてくれて、よく食卓に並んだ。だから動物は食べるもの、という認識が強く、まさか狩る側のじいちゃんが猪にやられてしまうなんて、思いもしなかった。
 じいちゃんは山の中に潜る仕事を長く続けていたせいか、山にまつわる話をたくさん知っていた。中には怖い話も多かったけれど、単純に不思議だな、と好奇心を刺激される話も多かった。
 そのじいちゃんが、山のこと以外でしてくれた話が、地面の下の水の底の青い街の話だった。じいちゃんはひいじいちゃんから。ひいじいちゃんはひいひいじいちゃんから。つまり代々語り継がれてきた話で、父さんも聞いたそうなのだが、純然たる理系少年だった父は荒唐無稽な与太話、と一蹴してじいちゃんの話をまともに聞こうとはしなかったらしい。じいちゃんと父さんの折り合いが昔から悪かったのも、悪い方に作用してしまったのだろう。
 代襲相続のように、一世代とんで僕が青い街の話を受け継いだことになるのだが、僕はじいちゃんの話を信じている。というのも、僕は青い街をこの目で見たからだ。語り継いできた先祖の中にも、街を見たという者はいない。じいちゃんに見たと言ったら、心底驚いていた。
 僕は月が煌々と照る夜、二階の窓から中庭に下りた。
 カーテンを外して縛り合わせ、一本の長いロープにしたらベッドの足に括りつけ、レスキュー隊員が縄を下るように、とかっこよくはいかず、へっぴり腰になり、青虫が這っていくようにずりずりと下りると、家の門を出て、街へと飛び出した。
 街は灰色に静まり返っていた。夜風もなく、生ぬるい蛙の舌のような湿った空気が漂っていた。アスファルトを蹴って歩くと、その空気の中を跳ねて遊ぶように、音が響き渡った。それが面白くて、僕はアスファルトの上でジャンプをしたり、金属の側溝のふたに踵をぶつけて鳴らしてみたり、カーブミラーを蹴り飛ばして押し寄せては返す波のように震える響きを楽しんでみたりした。
 僕らの街と隣街は、大きな川で隔てられている。その川にベルトを通すように橋が渡されていて、それが唯一行き来ができる交通路だった。そのため橋の上はいつも大渋滞で、いらいらしたドライバーでいっぱいなので、苦情が引きも切らず役所や県庁に寄せられたが、どういうわけか行政は橋を増やしたりして、渋滞を解消する気がないようだった。
 僕はそれは、青い街に関係していると睨んでいる。もし橋を増やしたりしてしまうと、地上と水中の青い街とのバランスが崩れ、何か大変なことが起こるに違いない。
 僕は橋に差し掛かると、橋の脇の階段から河原に下りる。階段を使う人はほとんどいないのか、下り切った先は雑草が伸び放題で、刀のようなスゲの葉は僕の腰ぐらいまであったし、枯れたススキに至っては僕の背を超えていた。昔はあったであろう道も雑草で埋め尽くされてしまっているので、それをかき分けながら進む。人間の作り出したコンクリートの道も、物言わない植物という生命の前には砕かれ、穿たれ、その歩みを止めることはできないのだ。
 やがてかき分けて進むと、石がごろごろと敷き詰められたように転がる河原に出る。川は穏やかに流れている。だが、ビロードのカーペットの上を手で撫でたような水音が、近くで鳴っているはずなのに遠くから聞こえるような気がした。そして僕が歩くと、それまで均衡を保っていた石たちが押し合い、ごとごとと彼らの体を揺すり、擦らせる音がする。僕はその乾いて硬質な音が好きだ。まるで無骨な石同士が不器用に会話しているように思えるからだ。
 僕は河原をうろうろと歩き、石の音に耳を澄ませながら、その場所を探す。その場所とは、青い街がある場所だ。
 茂みからばさり、と飛び立つ影があって、ぎょっとする。真っ黒い影のその鳥は、ミサイルのように上空に飛び出し、川の上を何度か旋回すると、東の山の方へと飛び去った。空の月を切り裂くように飛ぶ鳥を見送り、僕は月の光が地面に反射し、ほのかに光る場所を探す。
 しばらく目を凝らしながら河原を眺めていると、やがてその場所が見つかった。
 僕は喜び勇んで、石の下に青い水を湛えたその場所に飛びつき、石を掴んでどかしていく。すると、青い、サファイアのような水が、地面の下に現れる。前回見つけたときは五百円玉くらいの小さな水たまりのようなものでしかなかった。だが、今回は僕の顔ぐらいの大きさがある。
 水の底には、街が広がっていた。前回見たのは大きな時計塔のような建物があるのが見えたのだが、今回は水たまりが広いせいか、よく見渡せる。僕たちの街のような、もう一つの街がその中には広がっていた。茅葺屋根の家もあれば、レンガ造りの家、コンクリート打ちっぱなしのような家、と年代も国もばらばらな家が水の底にひしめいていた。そしてその中を人間が悠然と歩いている。
 僕は誘惑に抗うことができず、その水に顔をつけて覗き込んでしまった。すると、水の中のはずなのに、くぷくぷと呼吸することができ、そして水の中には音が満ちていた。くぷくぷ、と泡が浮かんでは弾ける泡沫の音だけのはずなのに、それは様々な人の声に聴こえ、そしてそれは一つの音楽なのだった。まるでオーケストラのように、譜面と指揮者に従って整然と奏でられる音楽のようだった。
 僕がうっとりとその音楽に聴き惚れていると、突然街の中から一人の少女が浮かび上がってきて、僕の両耳を掴むと思い切り引っ張った。すると僕はするするとウナギが寝床に入り込むように水の中に引きずり込まれてしまった。慌てて戻ろうと地上への水面に手を伸ばすが、柔らかかったはずの水面はまるで凍りついたかのように頑なで、僕は指一本外に出すことはできなかった。
 肩を叩かれて振り返ると、少女がにこやかな笑顔を浮かべて浮かんでいた。そして小ぶりで形のいい桃色の唇をくぷくぷと動かして真珠のような泡を吐き出した。僕の耳には、彼女のフルートのような声が、「おかえりなさい」と言ったように聞こえた。
 少女は白く、襟元にレース飾りのついたブラウスに、目の覚めるようなブルーのスカートを履いていて、それが周囲の水に溶けるようで、彼女はまるで水の一部のように見えた。首にはネックレスをしていて、光の当たり方で色が変わる不思議な石がついていた。
「おかえりなさい、って?」
 くぷくぷとしか言っていないはずなのに、僕の声はそう響いた。
 それまで優雅な緊張感とバランスを保っていた音楽が、僕の声、という異物によって掻き乱され、演奏がぴたりとやんだのを感じた。そう、演奏中に電話を鳴らしてしまったかのような羞恥と申し訳なさが僕の胸に去来した。
 みんな聴いているんだ、とそう思った。
「あなたは千年前にこの街にやってきて、そして去って行った。必ず帰ってくると言い残して。だからわたしたちはあなたを待っていました」
 そんな、人違いだ、と僕は叫んだ。その声はバッハのトッカータとフーガのように上擦った甲高い声だった。街の中からくぷくぷ、とくすくすと笑い合う声が響いてきた。
「肉体は違います。でも、魂は千年前のまま。彼の美しい、青い魂のままです」
 少女は僕の手を取って、水の中へと引いて行く。
「もう外へは行かないのでしょう? この街にいてくれるのでしょう?」
 少女は僕を水底へ、街の中へと引いていきながら振り返り、涙を零しながら言った。涙は水に溶けることなく、一滴一滴が小さなダイヤのように煌めき、けれど泡のように浮かんで上へと昇っていくのだった。
「僕は」
 帰る、と口にすることがどうしてもできなかった。僕の中にもう一人の僕。そしてそれは紛れもない僕自身なのだが、「街から帰らない」という一点だけが異なるような僕がいるように感じられ、その僕の存在がじわじわと侵食してきているように感じた。もしこれが明確な他者による侵略なら、毅然として戦えるかもしれないが、攻めてくるのが僕自身だったとしたら、どう戦えばいいというのだろう。
「わたしは千年、あなたを待ったの」
 少女と僕は将来を約束し合った。そのことが、自然と思い出されていた。昨日見たアニメの一シーンのように、その記憶が呼び覚まされる。
 僕は少女に引かれるままに街に下り、そして一軒の家に案内された。そこは新居だった。かつては。僕と少女が生活するはずだった家。青白い外壁の洋風の家。オレンジの瓦が敷き詰められ、庭には花壇があって水の中なのに花が咲いて流れにそよいでいた。
 家の中に入り、僕は自分の座るべきところが最初から分かっていたかのように椅子に座り、少女の用意する紅茶を飲み、ケーキを食べた。くぷくぷ、と口から泡を吐きながら飲んだ、頬張ったそれは、水と一緒に僕の体の中に流れ込み、僕の体の中を青い水で作り変える。それまで不協和音でしかなかった僕の声が、水の、青い街に馴染み、溶け込んで一つとなる。街というオーケストラが胸襟を開いて、体の中の水から作り変えられてしまった僕を、歓迎してくれているように思えた。
「ずっとそばにいてね。千年も、二千年先も。わたしはあなたと一緒よ」
 少女は僕の手をとって、額に押し当て、祈りを捧げるようにそう言った。僕も何の違和感も抱かず、「うん。ずっと一緒だ」と彼女の手を握り返して額に当て、彼女がするのと同じように祈りながら言った。
 それから僕らは平和に過ごした。僕の肉体はまだ子どもだったため、僕は青い街の学校に通った。少女は学校を卒業したばかりで、パティシエを目指して修行しているとのことだった。
 学校から帰ると彼女の帰りを待ち、帰ってくると二人で散歩に出かけた。青い街は地上から見たときには分からなかったが、どこまでも、どこまでも続いていた。国、などという狭い単位ではなかった。なぜならば大地の下はすべて水で、その下に青い街があるように、大地のない海の下にもまた、青い街は広がっている。いわば一つの星が一つの街なのだ。だから、戦争も貧富の差もない。僕ら一人一人は個であり全であるのだから、争う意味も必要性も感じなかった。僕らに大事なことは、水の中で調和のとれた音を永遠に奏で続ける、それだけだった。
 ある日少女と街を歩いていると、突然スーツを着た眼鏡の男が空、つまりは地上の方から矢のように降ってきて、一目散に僕を目がけて飛んでくると、僕の腰をがっしりと抱きかかえた。
「なんですか、あなたは」
 僕はくぷくぷと言ったが、スーツの男は口も開かずに、つまり泡を介さずに僕に言う。
「あなたはここにいるべき人ではない」
 僕は振り払おうともがき、少女も男を引きはがそうとしてくれるが、男の力はすさまじく、離れる気配もなかった。やがて騒ぎに気付いた街の人々がやってきて、みんなで力を合わせて男を引きはがそうとしたができず、やむなく男の頭を叩き割ろうと肉叩きの棒で叩いたりしたが、男は頭蓋が割れて血が溢れても、脳みそがこぼれ落ちても掴む力を緩めようとしなかった。
「さあ、わたくしと参りましょう。地上へ」
 男はきっと人間ではなかった。人間に見える何か、だ。男からは生命を感じなかった。生きる者であれば体から発しているはずの鼓動が、音楽が感じられなかった。人間を模して造られた疑似餌、という言葉が思い浮かんだ。
 スーツの男は壊れたように「地上へ」と繰り返し言い続け、やがてみんなが押さえていたにも関わらず、僕の体は浮かび上がり、上方へと引っ張られていった。一人、また一人と苦しそうにくぷくぷと泡を吐き出しながら僕から離れていく。最後まで残ったのは、やはり少女だった。
「約束したでしょう。ずっと一緒だと」
 僕は嬉しかった。少女がそう言ってくれることが。彼女と一緒にいて、僕は本当の愛というものを知った。それがどれほど澄んで、美しい音色を奏でることができるかを。千年も透き通った水と音の中で磨かれた愛は、一切の曇りをもたないもの。地上の人間が真理と呼ぶべきものであることを知った。
 だから、僕は汚れ切った地上へと彼女を連れて行きたくなかった。彼女の全き美しさをもった心が、地上の人間の手によって、汚れた大地と水によって曇らされてしまうことが、耐えがたい苦痛だった。
 僕は少女の手を振り払った。彼女はあ、と口を開けてくぷくぷと声をもらした。その響きはあまりに哀切で、聴くのが辛かったけれど、彼女の最後の音色だから、耳に焼き付けようと思った。
 少女の手が離れると、スーツの男が僕を引っ張る速度がぐんぐんと上がっていき、僕は水の、青い街の抵抗を受けながらそれを切り裂くように浮かび上がっていった。やがて僕は加速する流れに削られ、磨かれていきながら、体を滑らかに、流線型に変えていく。
 スーツの男は地上が近づくにつれ、みるみる小さくなると僕の体をよじ登っていき、僕の口をがばっと開くとその中に飛び込んで、抜けないように体を突っ張った。
 僕は手も足も溶け合い、一本の矢のようになった。そして地上への出口が近づいてくる。薄墨を塗りたくったような、ぼやけた黒い世界。すべてが磨かれ、明らかでないものがない青い街と比べるのも馬鹿らしい世界。その世界に、再び僕は飛び出そうとしている。
 地上と青い街の境界を破ると、僕は陽光を浴びて体を七色に輝かせながら、宙に躍り出た。そして落ちて水の中に戻るが、そこはもう青い街ではなく、地上の濁った水の川でしかなかった。
 僕は水の中を引きずられ、抵抗も虚しく、河原へと打ち上げられる。
「ほうほうほう。こりゃあ見事な鯉だわい。んだども、なしてこんなところに鯉が」
 声がして見上げると、じいちゃんだった。じいちゃんは僕の体を片手で掴んで持ち上げると、口に引っかかったルアーを外し、僕を魚籠の中に入れる。
 僕は狭い魚籠の中で満足に身じろぎすることもできず、くぷくぷと声を上げ続けてじいちゃんに訴えかけるが、地上の煤けた空気の中にいるじいちゃんには僕の澄んだ声は聞こえなかった。
 じいちゃんはよっこいせ、と椅子代わりにしていた岩から立ち上がると、魚籠を持ち上げて竿を肩で支えて持ちながら、歌を歌った。僕の知らない演歌だった。でも、どこか懐かしい気がした。
 僕は魚籠の中でじいちゃんの声に合わせてくぷくぷと歌った。泡が浮かび、弾けてささやかな音色が風に乗る。
「うん? なんか言ったか」
 んなわきゃないわな、とじいちゃんはあまりに可笑しかったのかぐふぐふ笑った。僕も可笑しくてくぷくぷと笑った。

〈了〉


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