ディー・イン・ダンス
また「D」のキーが外れた。
剥き出しになった、機械の目玉のような緑色にぼんやりと光っているボタンに向かって悪態を吐いた。
「また外れたの?」
桐原が肩越しに僕のパソコンを覗き込む。耳をそばだてるように、長い髪をかきあげて耳を露わにするその癖が、更に僕のカンに触る。
乱暴にそのノートパソコンを閉じて立ち上がると、部屋の中をうろうろして結局元の円座に戻って投げやりに腰を下ろす。
「そうやっていらいらしてても、いい小説は書けないよ」
痛いところをつかれて、僕は舌打ちして反論を始めようとする。「だがな……」
それだよ、と桐原は表情を曇らせて人差し指を僕に突きつける。
「倉本の小説には『だが』とか『だけど』が多すぎるの。だから『D』のキーばっかり壊れるんだよ」
そんな馬鹿な、と一笑に付して、胸ポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出す。ずっと電子タバコだったが、あれだと吸っている気がしない。気分が苛立ったときのために紙タバコを買って忍ばせておいたのだが、つい癖で取り出してしまった。
しまった、と思って顔を上げると、桐原が眉間にしわを寄せた物凄い形相で睨んでいた。
「煙草はやめてって、何度も言ったでしょ」
「分かってるよ。だけどな」
ほらまた、と勝ち誇ったように腕を組んで僕を見下すように桐原は言う。
「そうやって言い訳ばかりしてるから、あなたはいいものも書けないし、前にも進めないの」
そう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
僕はまだ二本ほど残った煙草の箱を握りつぶし、畳の上に叩きつけるように放り投げた。床には僕が書いた箱書きのメモがストーリー順に並べられていて、それらが煙草を嫌うように舞い散った。
「あなたは渡り鳥みたいな人よ」
そう言って、桐原は「よいしょ」と大儀そうに体を動かし、ゆっくりとしゃがむと散らばった箱書きの上に視線を走らせ、頷いて一枚を拾い上げた。
「ペン、貸して」
僕は不貞腐れて桐原の顔を見ることもできず、「ほらよ」と半ば放るようにしてペンを渡した。
彼女は壁に箱書きのメモを押し付け、僕が書いたものの上からペンで何かを書き加えていく。
僕はそれが凌辱されたように感じ、羞恥と嫌悪、怒りで心の中が満ちて、また無性に煙草が吸いたくなった。でも煙草は捨ててしまった。机の上の鉛筆を手に取ると、口にくわえて噛んだ。木の味が口の中に広がる。苦くて、どこか甘い。昔桐原と行った喫茶店で、コーヒーにシナモンスティックがついていたことがあった。それを僕はお菓子と勘違いして齧り、桐原は大笑いしてこう使うんだよ、とコーヒーの中に浸してかき混ぜた。そのときのシナモンスティックと同じ味だ。
あのとき読んでいたのは、『アンナ・カレーニナ』だ。桐原は当時流行りの小説を読んでいた。『アンナ・カレーニナ』を読んでいるとき、僕は小説家として成功できるのだと、信じて疑うことなんてなかった。
これ、と言って桐原は上書きした箱書きを僕に差し出す。それはもう僕の中では僕のものではなかった。受け取る道理はないとそっぽを向いていたが、彼女は無理矢理僕の手に握らせ、隣に膝を突いて座った。
僕の手を引っ張って、桐原は自分の腹部に当てさせる。大きく膨らんだ、およそ人の体とは思えないグロテスクさだ、とかつて言ったとき、桐原は本気で怒った。だが、怒られたからではないが、今ではそうは思わない。
「あなたはそんな気はないだろうけど、もうすぐ父親になるの」
父親とは、僕にとって負の権力の象徴だった。怒鳴り声一つで周りを言いなりにできると思っている浅はかな暴君。その暴君も、怖いお兄さんに絡まれれば、へつらい、へこへこして謝ってばかりだった。
僕はそうはなりたくはない。でも、いい父親になれるとも思えない。なぜなら、自分の血を継ぐ生き物が生まれてくるという事実を、未だに受け入れられてはいないからだ。
「安心して。あなたに父親を求める気はないの。あなたはあなたの人生を生きて。でも、わたしは選んだの。この子と生きていく人生を。だから、生ませてください」
初めて妊娠を告げられたとき、そう言って頭を下げられた。僕は訳が分からなかった。子どもが生まれてくることも、彼女がそれを決意していることも。僕と彼女は一般的な恋人という関係ではなかった。仕事での同僚で、僕が首になって路頭に迷っていたところを助けてくれたのが桐原だった。そういう関係をもってしまったのは、僕が幾度も文学賞に落選し続け、自暴自棄になっていたときだった。その僕を桐原は優しく受け入れてくれた。その優しさを僕は勘違いし、付け込み、彼女のお腹に新たな命を宿し、彼女に更なる負担を強いるという始末に負えないことを仕出かしている。
「あなたは父親になる」、もう一度桐原は、はっきりとした口調で繰り返した。
「そうしたら、ここを出て行って。あなたは家族というしがらみを背負っていたら、きっと書くことをやめてしまうから」
だが、と僕が言いかけると桐原は涙ぐんで、僕の鼻を人差し指で小突く。
「受け入れることも大事よ。反発するばかりじゃ見えないこともある。流れに逆らっていても、どこへも行けないわ。流れに乗ってどこかへ辿り着いてみて。そうすれば、あなたの世界は広がる」
桐原は立ち上がって、夕飯の買出しに行ってくるから、と踵を返して重そうなお腹を支えながらゆっくりと部屋から出て行く。リビングでネイビーブルーのジャンパーを羽織ってエコバッグを片手に、火の元を確認して外に出る背中が見えた。
母の背中を思い出した。母は妊娠していたわけではなかったけれど、桐原の背中はかつて見た母の背中と重なって見えた。あのときも僕は言えなかった。買い物くらい、僕が行くよ、と。そう言えば母はどんなにか喜んだだろう。
僕は与えられるばかりだった。母の愛情も、父の憎悪も。母の愛情に報いようと自分で何かをしたこともないし、きっと徒労に終わっただろうが、父に愛されようと自分で何かをしたこともなかった。かといって、その自分の置かれた歪な環境を受け入れることもできなかった。愛情にも憎悪にも、反発することでしかコミュニケーションをとることができなかったのだ。
母は父だけで手いっぱいだったのに、僕の反抗が加わったことで、心身に過度の負担と緊張を強いたのだろう、僕が高校二年の夏に倒れ、そのままこの世を去った。父は家に帰らなくなり、定期的に金を渡しに来る以外は顔を合わせることもなかった。その父も去年死んだ。最期の最期まで僕らは分かりあうことはなかった。だが、一緒に来てくれた桐原には笑顔を向け、「息子をどうか、お願いします」としおらしく世の父親らしく言っていたのが、余計に鼻白んだ。桐原も桐原で、「はい」と涙の跡を顔に残して、父の手を取って頷いていた。
ノートパソコンを開いて、キーを叩く。
だが、だけど、だが、だけど。だがしかし、だけれども。
キーの「D」を叩く度。ゴムのぐにゃぐにゃとした感触が返ってきて、それが気色悪く不愉快だった。
「D」から始まる言葉なんて、不愉快な言葉ばかりだ。僕はそのキーだけを叩いて、現れる予測変換を眺める。
一番最初に表示されたのは、「ダンス」だった。
桐原が真紅のドレスを身に纏い、くるくると踊っている様子を思い浮かべたら、僕は幸福と不幸を同時に口の中に押し込まれているような気分になった。
桐原はもうきっと踊れない。踊れたとしても、かなりの時間がかかることだろう。
妊娠に伴って、桐原は骨や筋肉が大分弱ってしまっていた。一時期、特に骨は胎児を支えるにはあまりに脆く、ちょっとした運動でも折れる危険性があったため、入院しての絶対安静が必要だった。その入院で骨はややよくなったものの、寝たきりの生活で筋肉が著しく退化してしまったのだ。
僕が一番にすべきことは、今すぐ定職に就いて、桐原の世話にならず、むしろ桐原が安心して出産できるよう家事やら雑事を率先して引き受けることだ。小説なんて書いている場合じゃない。
でも、僕にはできなかった。桐原を愛しているのか分からなかった、というより、愛とはなんだと街ゆく夫婦や恋人に訊いてみたいほど、愛するという感情が僕には理解できなかった。それに、人を愛せない人間に子どもを愛することなんてできない。自分に少しでも似た、血を分けた分身のような存在があとわずかでこの世に現れるということを考えると、その悍ましさに僕は身震いを禁じえないのだった。
きっと僕は父のような父親に、そして桐原が母のような母親になり、子どもは僕のように愛を理解できない哀れな子どもになるだろう。やがて桐原のような優しい女に付け込んで子どもを作り、親になる。何度も何度も、DNAが螺旋を組んで繰り返すように、虚しく繰り返すだけだ。なら、僕なんぞいない方が、子どもは健やかに育つ。母親の愛だけを知り、憎しみを知らずに育てば、それに越したことはない。
僕は立ち上がり、畳の上で不器用なステップを踏んだ。両手はちょうど桐原の肩の高さに構え、部屋の中をくるくると回る。
幻影の桐原と踊った僕は、掌の中に握りしめた紙片があることに気づいて、部屋の真ん中で立ち止まってくしゃくしゃになったそれを開いて見た。
それは物語のクライマックスのシーンの箱書きで、主人公が自分の恋人を殺した犯人を追い詰め、敵を討つ場面だった。
そのシナリオの上から、桐原の字で殴り書きされていた。
「名前は主人公の春彦からもらいます。だから、春彦には人を殺させないで」
僕はもう一度箱書きを固く握りしめた。どんな種類の感慨か、僕には分からないが溶岩が溢れて噴火するように、感情が込み上げて僕の手を震わせ、涙が迸り出て留めることができなかった。
そうか、男の子なのか。
僕は背中を震わせ、ダンゴムシのように丸まって嗚咽をもらし続けた。そうしてひとしきり泣いた後、ノートパソコンなど目ぼしい荷物を、この部屋に来たときに持ち込んだボストンバッグに押し込み、部屋を出た。「D」のキーだけは使っていた机に置いてきた。僕にはもういらないものだ。
箱書きのメモを握りしめたままだったことに気づき、ポケットに押し込む。アパートの階段を降り、途中見かけた側溝のどぶ川に隠し持っていた煙草の箱をすべて投げて流した。
行く当てなんかない。流れるように流れるだけだ。父親にならないことを選択した以上、僕は作家にならなければならない。いや、なるのだ。
僕が流れゆく川の先に小説家という中州があることを信じて、僕は夕日に照らされた道を一人歩く。
〈了〉
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