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イステリトアの空(第8話)

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■本編

 目狩りのおじさんはそこまで語ると、ふうと息を吐いて顔を上げた。
 口元にうっすらと笑みが浮かんでいる。僕にはそれが懐かしんでいるものに思えたけれども、それだけじゃない気もした。もしかすると、ソフィヤという人はおじさんにとって特別な存在だったんじゃないだろうか。
「随分長く話し込んじまったようだな」
 窓の方を顎で示すので、僕も首を向けて見る。外はすっかり暗くなっていた。小屋の中には時計らしいものはなかったし、僕も腕時計なんか着けていない。時間はさっぱり分からなかったが、夕方と呼ばれる時間は過ぎているんじゃないかと焦った。
 あの鬱蒼とした森の中を、しかもこんな暗い中を歩くと思うとぞっとしないものがあった。帰り道も送ってくれる保証なんてない。
「帰らなくちゃ」
 考えていても仕方ない。とにかく帰らないと。父は門限を一分一秒でも過ぎることを嫌う。こんな時間に帰れば間違いなく殴られるけれど、更に遅くなることを考えれば一刻も早くこの小屋を去るべきだ。
「まあ落ち着け。この時間に森に出るのは感心せんな。他の森ならいざ知らず」
 目狩りのおじさんは僕をその場に押さえつけようとするように、両手を上下に動かした。
「ここの森、何かいるの?」
「ああ。他の人間なら構わんだろうが、ぼうずはやめといた方がいいな。大地に還った記憶たちに食われるかもしれん」
 大地に還った記憶、と僕が鸚鵡返しに言って小首を傾げると、おじさんは怖い顔をして凄んで、「死者たちの記憶だ。死者の記憶は生者にしがみついて悪さをするもんでな」と言った。
 僕は大人しく椅子に座った。そういえば、目狩りのおじさんは一歩もテーブルから動いた気配がないのに、部屋の中の燭台に火が灯っていた。いつの間にか竈にも火が入り、鉄鍋がことことと音をたてていた。
 キテンはおじさんの膝の上から跳んでテーブルに乗り、砂糖ポットの蓋を前足で弄んで外し、ポットに覆いかぶさって顔を突っ込んだ。角砂糖を一つくわえると、それをがりがりと齧る。
「ねえ、話に出てきたキテンとこのキテンって」
 いや、と目狩りのおじさんは首を振った。
「残念ながら同じ存在ではねえ。まあ、こいつとは五十年近い付き合いだがよ」
 五十年生きる哺乳類など、そう多くないように思えた。それこそ一昔前の人間くらいの寿命だ。
 それに目狩りのおじさんの話の中のキテンは虎よりも大きかった。でも、目の前のキテンは子猫くらいの大きさだ。大人と子どものようだ。
「今鍋を煮ている。山菜と猪肉の鍋だから口に合うか分からんが。まあ、米も炊いてるから、駄目ならそれで腹いっぱいにしろ。かつお節やねぎくらいならある」
 目狩りのおじさんはよっこらしょと言いながら立ち上がる。キテンも顔を上げる。角砂糖は半分くらい砕かれて腹に収められていた。
「娯楽など儂の話くらいしかないようなところだがよ。今日のところは泊っていけ」
 でも、と僕は渋って食い下がる。泊ってみて、帰った後の父の激昂ぶりを思えば、何とかして帰りたいと思った。
「余計なことは気にするな。運命はお前さんを必ず進むべき道に導いてくれるもんだ。まあ、何も考えず飯が出来上がるまでベッドで休むといいだろう」
 目狩りのおじさんは右手にある扉を指さす。「そっちの部屋を使うといい」
 僕はなおも抗しようと言葉を考えたが、何も浮かばなかった。目狩りのおじさんに僕をどうこうしようというような悪意が感じられなかったことが大きいのかもしれなかった。
「分かりました。一晩お世話になります」
 腰を折って頭を下げる。
 おじさんは「それでいい」と満足そうに頷くと、薪が足りんかもしれんなあ、と言って外に出て行った。キテンもその後を追う。
 示された扉を開けて中に入ると、すべて手作りの木製家具が並んでいた。書き物机にベッド、三面鏡があることを考えると、ここは元々女性の部屋だったのではないだろうか。大きな本棚もあったが、中に収められた本は日本語でも英語でもなく、何の言語か僕には分からなかった。ただ、機械で印刷製本されたものではなく、革表紙で、中の紙の材質も違う。学校の社会科見学で体験した手漉きの和紙にどことなく似ている雰囲気の紙だった。製本も灰色の糸で綴っている。
 窓には目の覚めるようなブルーのカーテンが掛かっていて、窓辺には多肉植物の小さな鉢植えが幾つか置かれていた。窓の下には腰高のチェストが置かれていて、その上に中身の入っていない写真立てや、ひび割れたスノードームが置かれていた。
 それから、四つ足の台座に琥珀色の石が置かれていた。覗き込んでみると、内部に猫の目のような傷がある。もしかしておじさんの話に出てきた石ではないだろうか、と思って手を伸ばしかけて思い止まった。
 もし触れて何かが見えてしまったら。そうしたら、僕が次の目狩りになるのか。
 目狩りになったら、こんな森深くの地で人を避けるようにして暮らして一生を終えるのか。僕はまだ子どもだけれど、そんな人生に魅力がないことくらい分かる。もっと陽の当たる、暖かい人生が僕の前には待っているはずなのだ。
 でも、触れてみたい欲求は刻々と増していく。
 僕は意を決して手を伸ばして石を掴んだ。しばらく待ってみたが、何も起こらなかった。
(なあんだ、そうだよな。僕が目狩りなんて)
 安堵していると、急に目の前の景色がぐらぐらと揺れた。吐き気が胃の方から上ってくる。激しい頭痛が襲う。内側から響くのではなく、外側から万力で頭を締め付けられているような痛みだ。
 よろめきながら、何とかベッドまで辿り着くと、仰向けに横になった。
 痛みが波のように引くと、今度は眠気が押し寄せてくる。痛みと眠気、それらが交互に襲いくる。僕はそれに耐え兼ね、眠気に身を委ね、眠りの中に身を投じることを選ぶ。

 目が覚めたとき、まず目に入ったのは天井だった。ふっと違和感を覚えた。視線を下ろすと、小鳥や菊が彫られた欄間が見える。欄間? 襖があって、その奥に小さな庭が見える。赤や黄の花がささやかに咲いている。
 僕は体を動かそうとした。だけどどういうことか、体の感覚はなかった。匂いは感じる。祖父母の家のような、古いい草の匂い。音も聞こえる。雀が庭先で飛び跳ねながら鳴いていた。だがあるのは感覚だけだ。目や耳や鼻、そうしたものの存在というべき感覚を、僕は感じ取ることができない。
 これは夢だ、と思った。
 ベッドに横たわったところまでは覚えている。急激に頭痛や睡魔に襲われたことも。なら、これは僕の見ている夢に違いない。
 僕はどうやら今、テレビや映画のカメラのような状態らしい。意思をもったカメラとでも言おうか。しばらくすると、視線の動かし方のコツが分かってくる。夢にしては妙だな、と思う。夢とはもっと一方的で断片的なものではないだろうか。
 八畳ほどの畳敷きの部屋の中に、一人の男がいた。紋付の羽織を身に纏い、傍らには大小二本の刀が置かれている。時代劇でよく見る、武士だ。他には誰もいない。
 とりあえず、僕はこの人物を追い駆けてみようと思う。他に選択肢はないし、そうするべきだと思った。アニメでもゲームでも、最初に登場するのは主人公なのがステレオタイプだ。もし違ったら、そのときに考えればいい。
 僕は目の前の男の肩の辺りまで降りて行く。

〈第一章:完、第二章へ続く〉


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