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虚構日記~5月27日~

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■本編

 五月二十七日(月)
 シャルが珍しく朝から台所に立っていた。
 かぼちゃや大根、にんじんを切っていた。いつ見ても思うが、シャルの包丁さばきは卓越しているのだが、料理人のそれというよりは、剣豪、とでも言うような鬼気と殺気が迫るものがある。
 野菜をみじん切りにしてよく煮込み、ご飯は私も入院したとき辟易した五分がゆに近い柔らかさで煮ていた。
 そこでああ、と合点がいった。紫の離乳食を作っているのだと。昨日はとりあえず固形のミルクを哺乳瓶に溶いてあげたが、そんなに紫も飲まなかった。鬼の子だから既製品のミルクなどは馴染みがないのかもしれないと思ったが、シャルと話し合って、もうミルクという月齢じゃないんじゃないか、という結論に達したのだった。
 シャルは珍しく鼻歌など歌いながら鍋をかき混ぜていた。私はそっと戸口に立って後ろからそれを微笑ましい気持ちで眺めていた。
 紫はまだ寝ていた。昨日の夜は見知らぬ家に怯えて不安そうにしきりに泣いていた。私が抱いても一向に泣き止まないのだが、シャルが抱くと不思議と紫も安心して泣き止んだ。昨日の犬のミカといい紫といい、子どもや動物に好かれるのがシャルの長所だ。確かにシャルはいい匂いがするものな、とぼんやり考えていると、その邪念を察したのか機敏な動作でシャルが振り返り、振り返りざまに投げたステンレスのスプーンが私の顔の横の木の柱に突き立った。スプーンとは、刺さるような鋭利な形状をしていただろうか。
「いつから見ていた」
 シャルは今度はフォークを構えて阿修羅のような表情を浮かべていた。スプーンが固い木の柱に突き刺さるのだから、フォークなんかが当たった日には脳天まで貫くぞ、と思って私は慌てて「今さっきだよ」と両手を振った。
「本当か」
 私はこくこくと赤べこのようにひたすら頷く。
「紫のご飯を作っているのだが、固さや味を見てくれないか」
 シャルは私の横の木の柱まで歩み寄ると、スプーンを引き抜き、水で洗って鍋の中の具を掬いあげる。手で受け皿のようにして私の口に向かって差し出すので、私は恥ずかしさに逡巡しながらも、スプーンをくわえる。シャルは満足そうに頷いた。
 咀嚼すると、まだ大根やにんじんが少し固かった。それを伝えると、シャルは「そうか、ありがとう」と頷いて、鍋に向き直り、「紫の様子を見てきてくれないか」と鍋をかき混ぜ始めた。
 私は寝室に向かって、扉を開けると、紫は起きていてベビーベッドの中で柵を伝って立ち上がり、「うー、うー!」と口をむにゃむにゃさせながら何かを訴えていた。
 紫は私の姿を見ても泣かず、柵を繰り返し叩いていた。恐らくそこから出せと訴えているのだろう。まだ赤い頬がぷっくりと膨らんで、おかっぱの髪の毛が柔らかそうにふわふわと揺れていた。
 ベッドに近付いて手を差し入れると、紫はそうだ、と言わんばかりに「うー、だあ」と言って両手をばっと挙げて私に向かって抱き上げろとアピールした。相好を崩しながら抱き上げると、ひっしと私の胸にしがみつき、「まんま、まんま」と繰り返した。お腹が空いたのだろうか。
 紫を抱きかかえながらリビングに入ると、シャルは食卓に食事を並べていて、皿に取り分けた紫の離乳食を息を吹きかけて冷ましているところだった。
「まんま!」
 紫は私の胸から飛び降りんばかりの勢いでシャルの方に手を差し出していた。
 それを見るとシャルも微笑んで、「起きたのか、紫」と一旦皿を置いて立ち上がり、私の腕から紫を受け取る。
 紫は「まんま」と言いつつ、シャルの胸に顔を埋め、満足そうな顔をしていた。
「まんま、っていうのはママのことかな。ご飯のことかな」
 シャルは穏やかな顔で首を振って、「どっちでもいいさ」とは言うものの、明らかに満足そうだった。私はちょっと悔しかった。
 紫を膝に置いて、シャルはスプーンに野菜を掬って息を吹いて冷まし、紫の口に運ぶ。紫は少し警戒してスプーンをじっと見つめていたものの、シャルに「食べるといい」と言われてはむっとスプーンをくわえ、そのまま野菜を咀嚼し始めた。
「スプーンまで食べてどうする」
 シャルはくすくすと笑いながら、スプーンにかじりつく紫の口から引き抜くと、野菜を掬ってまた口に運ぶ。どうやら紫はシャルの離乳食が気に入ったようだ。
「たくさん食べて大きくなれ。桃太郎など返り討ちにできるよう強くなれ」
 物騒なことを言いながら離乳食を食べさせていた。私は微笑ましく見守りながらも、私のパートナーであるシャルを奪われてしまった気がして、どうにかできないものだろうか、と考えた。
「そこで顰め面をしているなら、散歩でもしてきたらどうだ」
 シャルが呆れた顔で言うと、それに同意するように紫も「だう」と手を挙げた。
 はいはい、と私はため息を吐きながら立ち上がり、リビングをあとにして玄関に向かい、靴箱からウォーキングシューズを引っ張り出して履き、外に出た。
 朝方は雨がしとしとと降っていたが、お昼時になってあがったようだ。空は一面雲に覆われていたが、明るかった。雲の向こうに太陽の光を感じるような天気だった。
 私はとりあえずふらふらと歩き出した。当てもないし、シャルと一緒でないから、何だか張り合いがない。
 家の周囲は自然豊かな景色で、近くには公園もあり、鳥が鳴き交わしていた。夏になると蝉しぐれで騒々しくなる。風流、と言えないほど蝉がわめきたてるのだからたまらない。
 公園まで歩いて行くと、桜の樹の下のベンチに腰掛けた。春のうちは枝垂桜に花がついて、ベンチの一角が鮮やかな光景になる。今は散ってしまっていて、あおい葉桜が風に揺れている。
 家の中は蒸し暑かったが、外に出てみると雨で冷えた風が吹いて心地よく、火照った体の熱を奪っていってくれる。
 ぼんやりと景色を眺めていると、公園の前の通りをご近所さんのハルさんが通った。
 ハルさんは麦わら帽子に、花の刺繍が縫い付けられたワンピースを着ていて、真っ直ぐな長い黒髪といい、すらりと伸びた白い手足といい、モデルのようなスタイルの人だなと思った。
 ハルさんもこちらに気づいて「あら」と麦わら帽子のつばをあげて目を細めて眺めると、会釈して公園の中に入ってくる。
「水瀬さんもお散歩ですか」
 ハルさんはこちらがどきりとするような笑みをにっこりと浮かべて隣に腰かける。ハルさんからは金木犀のような香りがした。
 ハルさん、シャル以上の美貌の持ち主なのだが、驚くことに、生物学上は男性なのだ。私も初めて知り合ったときには、何度言われても信じられなかった。生物として同じ分類だとは、どう転んでも信じようがなかった。だって、あまりに私とはかけ離れすぎている。どう見てもシャルと同じ分類であるとする方が正しいように見えてしまう。
「ええ。シャルから追い出されてしまって」
 あら、まあ。とハルさんは口元を手で押さえると、同情に満ちた眼差しを向ける。
「シャルさんが水瀬さんを? それは珍しいですね」
 実は、と私はハルさんに紫を拾った顛末を話した。ハルさんは驚くやら笑うやら、「あら、それは」とか「なるほど。ふふ」とか忙しく相槌をうち聞いてくれていたが、一しきり話を聞き終わると、「紫ちゃんに嫉妬しているんですね」と真っ直ぐな瞳で見つめて言うのでどきりとしてしまう。
「赤ん坊に嫉妬なんて」
 いいじゃないですか、とハルさんは風にそよいで顔にかかった黒髪を掻き上げると微笑んだ。
「それだけシャルさんのことを想っているんでしょう」
 正面から言葉をぶつけられて、私は言葉に詰まってしまう。シャルはパートナーだ。それ以上でも以下でもない。
 あ、とハルさんは名案を思い付いたように手を叩く。
「わたしが紫ちゃんの面倒をみましょうか。子どもの相手をするの好きなんです」
 いや、でも、と二の足を踏んでいると、ハルさんはずいっと顔を近づけてきて、「シャルさんと二人の時間を確保するのも大事ですよ」とそっと私の胸に手を添える。
「紫がシャルから離れるかどうか」
 紫のシャルへの懐き方を見ていると、そう簡単に引きはがせないような気がしていた。いかにハルさんといえども。
「試してみるだけでもいいじゃないですか」
 まあ、それは、と私が曖昧な返事を繰り返していると、ハルさんは口を尖らせて「煮え切らない人ですね」と私の胸を小突く。耳元に唇を近づけると、「わたしが紫ちゃんを奪っちゃったら、水瀬さん、わたしのところへきますか?」と艶のある声で囁く。
 私はぞくっとして身震いすると、ハルさんの両肩を掴んで引き離し、「シャルから紫を奪わないでください!」と声を荒げていた。
 ハルさんは私の剣幕にきょとんとした後で苦笑し、「本当にシャルさんが大事なんですね」と少し悔しさを滲ませた口調で言った。
「安心してください。冗談です。でも、ベビーシッターは引き受けますよ」
 ハルさんはそう言って微笑み立ち上がると、空を見上げて「晴れてきましたね」と眩しそうに目を細める。
 空には雨の気配などどこへやら、青空が覗いて、刺すような日差しが公園の地面を照らしていた。雨に降られ、水を得た雑草たちは、生き生きとしているように見えた。
「わたしはね、水瀬さん。この雑草たちと同じなんです」
 ハルさんが雑草、と私は首を傾げる。どう考えても可憐な花にしか思えない。
「わたしは本物の花じゃない。だから、どれだけ頑張っても本物には勝てないの」
 寂しいですよね、と言い残して、ハルさんはその場を去ってしまった。私にはハルさんを追いかけてかけてあげればいい言葉は思いつかなかった。
 ハルさんはひょっとしたら、とても孤独なのかもしれない。男性に生まれ、でも女性という生き方を選び、その齟齬はひどく孤独で、齟齬故に理解されず、冷たい風に晒されて生きてきたのかもしれない。それならば、私は離れていくハルさんの手を掴まなくていいのだろうか。ハルさんが心の内を吐露したということは、少なくとも私には心の扉を開き、手を差し伸ばしていたということではないだろうか。
 私は慌てて公園を出たが、もうハルさんの姿はその通りにはなかった。西へ行ったか東へ行ったか、それすら分からない。今日の夜、電話してみようと思った。ハルさんも紫に関わったら、孤独が薄れるかもしれない。
 石ころを蹴り飛ばし、俯きがちに家に帰ると、玄関でシャルが待っていた。昨日の夜からあまり眠れていなかったせいか、腰を下ろしてうつらうつらとしていた。
「ただいま、シャル」
 そう言って肩を叩いてやると、シャルは寝ぼけ眼を擦って、顔を上げて「おお、帰ったか」と言ってふらふらと立ち上がるので、咄嗟に腰を支えてやる。
「ああ、すまないな。紫は腹くちくなって寝てしまったよ」
 そうか、と私は笑んで頷く。その顔をじっと見ていたシャルが怪訝そうに、「何かあったのか」と訊くので、その察しの良さに驚きながらも、「何でもないよ」と首を横に振る。
「シャルはさ」と私はその場で思いついたみたいに言葉を紡いで問いかける。
「なんだ」とシャルは小首を傾げる。
「シャルは、自分が孤独だと思うときあるかい」
 シャルは寝ぼけ眼をはっきりと開いて覚醒したようだった。腕を組んで俯くと、ややあって顔を上げ、私の顔をじっと見つめた。
「お前がそばにいないときだ」
 あまりにストレートな物言いに、私の方が面食らって恥ずかしくなってしまい、顔を赤らめて背けた。その様子をシャルはおかしそうに眺めていて、「ほんの片時でも。お前は私の半身みたいなものだ」と真面目な口ぶりで続けたので、私の顔からは火が噴き出そうになる。
「よくそんなセリフを、臆面もなく」
 シャルはにっと笑って、「事実だからな」ときっぱりと言い切る。
「コーヒーを淹れたんだ。そろそろ帰ってくると思って。一緒に飲まないか」
 シャルは私の手をとって引いて歩く。私は彼女の赤い髪の揺れる背中を眺めながら、「いいね。いい匂いがする」と鼻をひくつかせて言った。
 だろう、と振り返って笑ったシャルの笑顔は、紫に見せる笑顔と一緒だった。今はまあ、それでいいか、と私は思った。

〈後日に続く〉

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