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【ショートショート】あの人の考えていること

夕暮れ時に河川敷をランニングしていると、毎日必ず会う方がいます。もちろん顔見知りでもないし、こちらが勝手に意識しているだけなのですが、最近なんとなく彼に心を惹かれます。寂しいのか、嬉しいのか、感動しているのかもよく分からない顔をして日本海に沈む夕日をぼーっと眺めている彼は、いったい何を思っているのでしょう。今日はすこし、彼にご登場いただきましょう。その優しい目つきから流れ出る音色を、言葉に落とし込むのは傲慢だったかもしれません。だけど、インターネットの広くて深い海に落としたこの一滴が、彼の心を少しでも潤すことを願って・・・



「知識を得て、学識や教養を得て、いったい何になろう?そこからどんな大きな喜びを得ることができるだろう?それらはただの慰めなのだ。ただ、己が身を滅ぼすような大事件や、狂おしいほどの恋愛が何も起こらない、凡庸でつまらない人間が、自らを慰めるために書物を開くとき、それは初めて大きな効果を現す・・・」

小説家のK氏はここでいったん筆を置いた。

改めて考えてみると、K氏の人生はいかにも平凡であった。彼は年老いた独身の男性だった。昔から外に出て人と交流するのを好まぬ性質であった彼は、想像の世界に救いを求めた。知恵の中に天国と快楽を見出そうとして躍起になった。

だが、日々活字を追う生活の中で、得られたものと言えば、ひたすら知識、知識、知識であった。夕暮れに照らされた河川敷を歩くとき、彼はその川がいかにして出来上がったものなのか、そこに住む生物はどのようなものがあるのか、国語の教科書を読み上げる少年のようにすらすらと言うことが出来る。だが、防波堤に2人並んで腰をかけている、高校の制服を着たカップルを目にするとき、まるで砂糖を求めるアリの如く這い上がってくる寂しさのようなものにあっという間に心を支配され、すべての思考は停止してしまうのだ。

寂しさ。いかに詰め込んだ知識が自分を慰めていようとも、根本的な寂しさの前にはすべてのものが無力だった。「なあに、みんな寂しいのさ。いかに明るい顔して他者と関わることのできる人間でも、ふとした瞬間にどうしようもない寂しさを感じる。そんなもんなのさ。」・・・などと、自分自身を説得してみようとしたところで、大した効果はなかった。「みんなそうだから」という理由は、必ずしも「俺もそれでいい」と自分自身を納得させる手助けにはならない。

それでも彼は活字を読み続けた。それが自分自身を救う事がないと知りながらも、彼はまるで自傷行為のようにして読書し、乾ききった心にオリーブオイルを数滴垂らすかのような焼け石に水を繰り返すのだった。「発達障害」?なるほど、カテゴリーとしてはそうかもしれない。彼は「発達障害」だったかもしれぬ。だが、そうしたカテゴリーの中に自分を落としこんだところで、彼は決して救われはしない。それは即席の、線の細い、あやふやなアイデンティティを彼に与えるだけである。「私は発達障害です」と自称したところで、誰も助けてくれない。それは「生きづらさ」に名前をつけてみただけのことである。「生きづらさ」をアピールし、共有し、安心してみたいだけのことである。「生きづらさ」の解決を他人に迫ったところで、決して根本的な解決にはならないのだ。それは自分で解決しなければならない。自分で・・

見たいものしか、人は見てくれない・・・

どこかの書物で呼んだ言葉だ。たしかゲーテの言葉だったか。これは真実であるような気がした。じんわりと心が温かくなってゆく。不思議なことだが、深い傷を持った心には、ネガティブな言葉が効く。毒をもって毒を制するとはこのことである。

ああ、これは小説の題材に使えそうだな。彼は今思いついた雑多な言葉の数々を古ぼけたメモ帳に書き込んだ。なんのことはない、いつもの習慣だった。

どれだけ自分自身を説得しようとしたところで、慢性的な不幸は拭い去ることは出来ない。彼の妙に覚めた目つきは、決して自分自身を安心させてあげることが出来なかった。子どもたちが水切りをして遊ぶのを眺めているとき、彼は水面下の魚の一生を思った。ただひたすらに泳ぎ、卵を産み、食ったり食われたりして波乱万丈の生を送る彼らに羨ましさを感じたり、かえって哀れに思ったりもする。彼らは孤独を感じないのだろうか。

ふと水面を見下ろすと、そこには瀕死状態のブラックバスが浮いていた。口元には痛々しい傷がついている。

この子はいったい何度騙され、釣られてきたのだろう?黒光りするトゲだらけの針が刺さった唇にペンチを当てられ、無理やり針を外された時、この子は何を思ったろう?

一生懸命に貪欲に生きようとするものは騙されるのだろうか?生きよう生きようと強く欲する生命は、むしろその傍若無人なエネルギーによって己の身を滅ぼしてしまうのだろうか?なぜ、自分のような生きているのだか死んでいるのだかよくわからない生き方をしている者に限って、長く生きてしまうのだろう?

気づけばブラックバスはこっちを見ていた。青い目から生気が失われるとき、彼はそこに悲しみを見つけた気がした。だがそれは彼の勘違いだとすぐに気づいた。悲しみなどない。すべては人間の脳で起こる気まぐれなのだ。ただ、出来事が起こり、我々は死んでゆく。それだけなのだ・・・・

彼は再びメモ帳を取り出した。

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