見出し画像

路傍の椅子

手心を知らない季節風にやられ、鉄の脚は錆びつき、ニスが剥がれ落ちた台座のベニヤ板が、空からちらちらと落ちてくる雪をふんわりと受け止める。とある海沿いの、ベンチの物語である。

彼が設置されたのは地震の直後だった。日本海側ではめったに起こるはずのない津波を起こした大地震の後にできた砂地の上に、市に与えられた国庫支出金をなるべく使い果たすべく、だだっ広い砂地にドサリと置いていかれた。昭和39年のことであった。鉄製の脚はまだ真新しく、20世紀末の熱い太陽の光を鮮明に反射していた。切り倒されたばかりの杉が、ニスの下でまだ呼吸をしていたあの頃。まだ若かった。

己の身体のことをあれこれと思い出すのは、齢を取った証拠である。

一番最初の客のことはありありと憶えている。ロングスカートをはいた女子大学生だった。彼女は新品のフランス語辞書を抱えて海を見に来たのだろう、ロングスカートの裾が砂につくのを気にしながら、真新しいベンチにその柔らかな尻を下ろした。彼は冷たくたのもしくその体を支えた。彼女はため息をついていた。もし、彼が人間の男であったなら、一世一代の勇気を振り絞って、見え透いた気遣いと賭けの一言を頭の中でこねくり回しながら彼女に近づいていったかもしれない。だが彼はベンチだった。彼には、自分の上に乗っかっているこの若いひとがいったい何を考えているのかさっぱりわからなかった。だが、たとえ彼が人間の男だったとしても、今のように、自分に全体重をあずけるほどの絆を持てていたかどうかは疑わしい。夕日が沈むと同時に女学生は去って行った。

それから、春、夏、秋の季節は毎日のように「客」がやってきた。特に夏はまったくもって覚悟すべき季節だった。バーベキューの煙たい匂い。透明なプラスチックコップに注がれたビール。毎日のように赤い顔をした「客」が、一晩中彼に全体重をあずけ、日が昇り、苛烈な日差しが彼の頭痛をもっとひどいものにする頃にやっと起きてよろよろと帰っていくのだった。夏は疲れる季節だった。彼は学生の多いこの地域の砂浜に唯一存在している暖かな避難所であった。

冬は孤独だった。骨の髄まで凍るほどの季節風と、足を突っ込んだだけで波にさらわれ一瞬で命を失いそうなほど荒れ狂っている日本海をこの季節に訪れたいという好事家は滅多にいなかった。潮風が彼の脚の腐食を手助けするないなや、白い歯を見せて無責任に山の方へと吹き去ってゆく。一年、また一年と重ねるたびに、彼の脚は茶色くがさがさした酸化の被膜に覆われていった。冬の風はきびしい。人間の尻の暖かみが恋しかった。

時は移り変わり、夏でさえも彼に身体をあずける若者は少なくなってしまった。毎年のように砂浜ではしゃぐ若者の姿も、ここ数年くらい全く見ていない。私はどこに行くのだろう。風や波は私と会話してくれない。このままでは自慢の脚は潮風にやられ、次に体をあずけてきた人間の体重に耐え切れずに私は壊れてしまうだろう。彼は思った。雪が降ってくる。刻一刻と降り積もる冷たい重みに、彼の露わな脚は鳥肌を立てながら気丈にも耐えてゆく。あと50cmほど積もれば、私の寿命が来るだろう。最後に体重をあずけてきたのがまさか雪だとは思わなかった。これもロマンチックな最期かもしれない。そう思いながら、水平線の先まで静かにしみわたる雪景色を眺めつつ、生まれてから一度も動かしたことのない脚を健気に踏ん張って耐えるのであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?