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繋がる-アメリカでのパレスチナデモとクィアコミュニティ-

パレスチナでの占領反対デモ🇵🇸

10月25日水曜日、一限が先生の事情でなくなったので昼ごろに起きて、2:00から学生会館で行われたイスラエルによるパレスチナ占領反対のプロテストに行った。

分断が進むアメリカの中でも、トップレベルでリベラルとされるマサチューセッツ州の、大学というまたリベラルなバブルの中では、社会公正への関心は結構高い。というか、それらに関心のある学生が、精力的に運動を推し進めている。

この1週間くらい、いろんなイベントが行われていたんだけど、今日(10/25)はその集大成として、大きなウォークアウトが行われた。ウォークアウトって日本では馴染みがないんだけど、授業が行われている教室を飛び出して(walk outして)、プロテストすることみたい。私の場合はこのプロテストのために先生がわざわざ授業の開始時間を遅らせてくれたから、いやこれ「ウォークアウト(教室から飛び出す)」じゃなくて「ウォークイン(教室に遅れて入る)」じゃね?って少し笑いが起きた。

このプロテストの目的/フィルケンスタイン教授

このプロテストは、イスラエルによって長年続いてきたパレスチナ・ガザ地区での占領と、その構造的暴力と物理的暴力を批判し、さらにアメリカや私のいるUMass(マサチューセッツ大学アマースト校)がそれにいかに加担しているかを指摘し、より公正な大学のために上層部に訴えるものだった。

私の今の考えは、少しのニュース情報と、友達との会話と、先日聴いた国際政治学者:ノーマン・フィルケンスタイン教授のレクチャーで得た知見に基づいている。このレクチャーの終わりに、ゴリゴリに緊張して震えながら、マイク越しに教授に質問した。

「(ムスリム組織)ハマスによるイスラエルでの無差別攻撃を糾弾しながらも、イスラエルによる長年のパレスチナへの抑圧や暴力を批判することはできるのでしょうか?」

彼は、それは正当な疑問(legitimate question)ですね、と、マイクの前で震える私に言ってから、10分にも渡る回答をくれた。その内容は、イスラエルによるパレスチナへの抑圧は決して一時的なものではなく、封鎖は20年、抑圧はそれよりも前から続いていて終わりが見えないこと。これまでにも平和的な不服従運動は行われてきたけど、ことごとく失敗してきたこと(つまりテロという手段を通してでしか変化を起こし得ないという行き詰まり感や政治的背景があったということ)。ガザで生まれた子供は、イスラエルが封鎖した境界による「天井のない監獄」で、一生外に出られないこと。これらを踏まえて、彼は、10/7に起こったハマスによるイスラエルでの市民を含んだ無差別な殺戮(テロ)は、決して正当化はできない(can't be justified)が、非難する(can't be condemned)こともできない、と言った。

これくらい複雑な状況の中で、そしてアメリカという地で、どんなことが起こっているのか。

10月25日のデモ

Student Unionと呼ばれる学生会館の前には、100人を超える学生が集まっていた。いくつか気づいたことを書き留めておく。

・属性に限らない多様な参加学生たちとクィアな人の多さ:この問題の明らかな当事者に限らず、白人・アジア人・黒人・ヒスパニック、さまざまな属性の生徒が集まっていた。皆、明るみに出たパレスチナでの構造的暴力や、それに間接的に加担している自分達の大学への怒りを共有していた。ちなみにUMass Amherstの経済学部(Isenberg School of Management)は爆弾を製作する軍事企業と繋がっていて、アメリカはイスラエルに軍事協力してるから、ガザに投下されている爆弾にも関与してしまっている、という主張がある。参加者を見ていると、クィアな人たち(男性らしい/女性らしい格好ではない、自由な表現をしている人たち)はやっぱりジェンダー以外の他の社会公正のトピックにも敏感なのかなって思った。

・ユダヤ人学生によるスピーチ:特に印象に残っているのは、ユダヤ人学生が、ユダヤ人として、パレスチナに連帯すると力強く言っていたことだ。ユダヤ人だからと言ってイスラエルの政策に賛成する訳ではなく、イスラエルは全ユダヤ人の代表でもない、と。そして、このニュースに基づいて、反ユダヤ主義(antisemitism)が勃興してしまう可能性についても言及していた。

・シュプレヒコールのキャッチーさ、バイブス:たくさんの人が集まり、スピーチや注意事項が読み上げられた後、人々はゾロゾロと移動し、キャンパス内を練り歩くマーチが始まった。みんなで声を合わせるコールは、キャッチーでワクワクするようなものだった。"We're revolutionary!"(私たちは革命的だ!)とか、"Free Free Palestine!"(パレスチナに自由を!)とか。同じ時間に隣の大学(Amherst college)でもデモがあったんだけど、そこではコールが長すぎてあんまりみんな一緒に唱えられなかったらしい。同じ思いを共有している仲間という緩やかな連帯感の元、エネルギッシュなマーチはゆっくりと進んでいった。私は流石に授業に行かなきゃやばかったので、列をするりと抜けて図書館で課題を印刷して走ってバス停に向かった。

・アドミッションセンターでの座り込み/占拠とその結果:授業が終わってUMassに帰ってきた後、大学新聞のインスタアカウントで衝撃的なものを見た。逮捕者が出たのだ。私が参加していたマーチは、夕方にアドミッションセンターに到着し、そこで自分達の要求が叶うまで、座り込み(占拠)を行った。そして建物が閉まる時間になっても出ることを拒否したので、警察が数人を逮捕した。それを見ていたデモ参加者は、特大なブーイングを立てていた。連れていかれるその間際まで、プロテストのリーダーたちは要求を唱えていた。正直ここまでのことになるのは想像してなかったけん、友達に共有したら、おそらくかなり意思の強い人たちが残っていたのと、ウィード(マリファナ)吸ってハイになってる人たちもいたよ、とのこと。

(↑警察による連行の瞬間、大学新聞Massachusetts Daily Collegianのインスタグラムより)

反LGBTQ法に関してのトーク🏳️‍🌈

アマースト大学での授業が終わった後、今度は反LGBTQ的法律の変遷についてのイベントに参加した。これは授業の教授がお薦めしてくれたもので、参加してレポート書いたらエキストラクレジット(成績に反映させて)くれるよとのことだった。正直成績目線で見たら割に合わないなと思ったけど、せっかくなので覗いてみることにした。

人文学・社会科学の授業が多く行われる建物なだけあって、すごく頭の良さそうな、だけど肩肘張らないフランクな感じの教授や、好奇心旺盛そうな学生たちが集まっていた。スピーカーも、ソファに座ってリラックスしながらプレゼンテーションを進める。トランスジェンダーやゲイ・レズビアンたちの生や選択に関わる自由が、法律の観点からいかに変遷してきたか、そして「LGBTに関する状況はどんどん良くなっているじゃん」という言説がいかに正しく、でもいかに現在の問題を見過ごしているか。エキサイティングな時間が流れた。ちょうどその前の授業で読んだ文献と繋がる部分があったので、質問してみた。

不確実性とアクティビズム

「アクティビズムの中で、誰も完璧な戦略やゴールがわからない時がある。それでも、その不確実性(uncertainty)とともに前に進んでいかなきゃいけない。私が読んだ文献は人種差別や経済的不平等のアクティビズムについてだったんだけど、LGBTQ運動の文脈でも同じような葛藤や、それへの解決策はあった?」

それに対する答えは、身が震えるような、でも地に足ついた希望に溢れたものだった。「不確実性は、つまり可能性だ」と。特にジェンダーに関する状況はバックラッシュも多くて、常に変わりやすい。その度に生まれる不確実性は実はスタート地点で、より良い社会をともに作り上げていくために、私たちはその不確実性とともに在らなければならない、と言っていた。その旅路は、埋もれてきたマイノリティの厳しく、しかし豊かで色鮮やかなストーリーによって彩られ、公正への連帯によって強化されていく。厳しいけど、誇りに満ちた道のりだと、心が揺さぶられた。

二つのイベントに参加してみて

どちらも、先生がこれらのイベントに参加することを奨励していることが、参加する決め手となった。時に、政治に関して声を上げることやマイノリティへの連帯を示すことの重要性は、授業や大学関係のタスクをこなすことの必要性を超える。

そして、どちらにも共通していたのは、その場にいることを選んだ人たちの中の、人種やジェンダー、年齢を超えた連帯感だった。あなたが誰なのか、どこから来たのかは関係ない。ここにいると決めたのなら、私たちは仲間だ、と言っているような。

現代の孤独、退屈とアクティビズム

ちょうど授業で、消費社会とネオリベラルな個人主義を理由として、昔はあったような属性を超えた繋がりが薄れたことを扱った。社会主義時代の失業者と、資本主義下での失業者の経験は大きく異なる。物理的に精神的にも、居場所がないのだ。消費できる能力がないと、その場にいることを許されない。暇な時、何をしようとするだろうか。カフェに行こうとか、マック行こうとか、そうやって時間潰そうとするだろう。寒い時、24時間空いてる公園に行ってじっと時間を潰そうとは思わないだろう。鍵っ子だった小学生時代、鍵を忘れて家を閉め出された時のひもじさを思い出した。

この世の中、時に都市では、そうやってお金を使わないと、居場所が得られない。家だってそうだ。自分や親がお金を払って、そこに住まわせてもらう。こんな感じでどんどんそこに存在する権利を購入してきた私たちは、どんどんコミュニティから切り離されていった。

「退屈」とは、時間が有り余っていることを単に指すのではない。コミュニティ、労働、家族、規範的なライフステージや時間感覚、都市の生活、そして消費文化からの疎外を意味する。

今日の二つのコミュニティ、パレスチナのデモとLGBTQのトークが、この疎外を解決するとは思わない。だって消費社会から逃れることはできないからだ。これらの場所にも、確実に消費は関わっている。来る人たちの服、プラカードやそこに使われたインク、トークで振る舞われたケータリングの軽食やワイン、この建物だって、消費社会の中で成り立っている。そしてこの二つのイベントに来れるという特権性。私が時間を作るのは、授業をサボるとかその程度だけど、一日十何時間も働いてクタクタになった人が、社会正義のために声を上げられるかって言われたら、相対的にとても難しいはずだ。

だけど、そこに受け入れられていること、排除されることなく同じ方向を向いていること、そこに存在していいとされていることが、個人化され、全てが自己責任となった孤独にいかに染みるか。こうして連帯できること。一人ではないと思えること。そこに来たことを感謝されること。わずかなことに見えても、また自分達の道のりを進んでいけそうな、そんな希望に満ちた余韻を残してくれるのだ。

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