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【エッセイ】オレは2代目シェケナベイベーになりたい

はじめに


先日、僕は自分の【詩・ポエム】Vol.20の中で『炎上』という詩を書いた。


『炎上』
誰かの足を引っ張るくらいなら
誰かの揚げ足をとるくらいなら

オレは炎の上を歩けるくらいに
自分の足を鍛えるわ

人様にかまってる暇はないし
人様に興味なんてない

そもそも
オレが焼き尽くしたいのは
誰かじゃなくて
この世界そのもの

もしも
オレを焼き尽くすものあらば
誰かじゃなくて
我がうちなる炎のみ

敵は本能寺にはない
敵は己の中にあり


これを書くきっかけになったのは、とある人気noterさんの炎上騒動を知っての事だった。

「とある人気noterさん」と言ってしまうとバレバレかもしれないが、個人的にこの騒動についての自分の意見を言うつもりはない。

擁護するわけでも、批判するわけでもなく、中立でも、傍観でもなく、単純にどこまでいっても、自分のルールに従って。

ただひとつだけ言うなら、彼女は謝罪記事、心境を吐露した記事を書いた。

その点については認めるべき事であり、個人的には賞賛したいと僕は思う。

自分と向き合い、過ちを認め、謝罪し、状況説明もし、さらに自分と向き合った。

大の大人がだ。立派な事ではないだろうか?

と、まぁ、noteを始めたばっかりの僕が、有名人気noterさんのことをどうこう言えるような立場ではない。


「許される人」「許されない人」


しかし、世の中には「許される人」「許されない人」がいるように思う。

当然、犯罪を犯したり、明らかに特定の誰かを傷つけたりと、「許されるべきでない人」もいる。

それは当たり前の事として置いておいて。

問題は、誰が裁けばいいのか分からない事や、誰にも裁けない事に対してはどうだろうかという話。

単純に犯罪を犯したわけではなく、倫理的にとか道徳的にという問題。

最近の日本は、みんなが言い始めたように、それに対しての反応が過剰になってきつつある。

必要以上の誹謗中傷。

振り上げたその拳は何の為? 誰の為? 本当に正義なのか?

そもそも正義って何なんだ?

匿名性の有無に関わらず、誰しもが発言力、発信力を持ったネット時代。

僕の他のエッセイでも書いたように。

正義とは、悪を裁くことでもなく、悪を倒すことでもない。

正義とは、人を守るものであり、人を救うものである。

僕はこのように思う。

『あぁ、心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ』とは、キン肉マンのアニメ主題歌の歌詞である。

何度も言う、心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ。

§

では、「許される人」、「許されない人」とはいったいどんな人なのだろうか?

一番例えやすいのは、芸能人の浮気や不倫問題であろう。

あれって極端な話、家庭内の問題であって、一番他人がどうこう口をはさむ話じゃない気がする。

芸能人という有名税であったり、スキャンダルという話題性によるもので、隣のご主人、奥さんといった一般人の浮気や不倫問題であれば、誰も興味はなく、何も言わず、ただのご近所の噂話に終わる。

そしてその芸能人の中にも、「許される人」、「許されない人」が分類される。

昔から「女は芸の肥やし」という言葉が使われてきたように、歌舞伎役者など伝統芸能に従事する人、芸人さんなどには、「艶を出す為」「粋な生き方」として、比較的「許される人」が多い。

また最近では、そういうジャンルの方々には、そんな事態を想定、理解した上で結婚している奥さんも増えたように思う。

反面、俳優さんなどイメージを売りにしている有名人の方は「許されない人」が多い。

ファン心理を傷つけてしまったり、イメージダウンによって商業への損失ももたらすからだ。

この「許される人」、「許されない人」において、“イメージ”という分岐点があると思う。

いわゆるキャラ得ってやつだ。

破天荒な人、ロックな人、ダメ人間、肉食系、ゆるふわ天然系など、男女問わず、イメージにより左右されることがたくさんある。


大学生時代のK先輩


ここで大学生の頃の話をしたい。

大学のサークルのふたつ上にKさんという男の先輩がいた。

見た目は、大木 凡人さんをちょっと男前にして、髪の毛をモジャモジャファンキーパーマにして、色黒にして、ガッツリ古着を着せたような、めっちゃオシャレな先輩。でもちょっと、ずんぐりむっくり。

ちなみに僕たちのサークルは音楽のサークルなので、Kさんはこの見た目でドラムを叩く。

2歳しか違わないのに、妙に落ち着いていて、大人っぽくて、どこか達観しているような、みんなから一目おかれるような先輩だった。

ずんぐりむっくりの体型にも関わらずモテた。

何なら彼女もめっちゃ可愛い。

§

僕が1回生の夏、サークルの合宿で長野の山まで行った。

山の中ではあるが、宿舎には音楽スタジオがあって、一応は音楽サークルの合宿として成立する。

スタジオで練習したり、山を探索したり、部屋で遊んだり、夜は大学生らしく飲み会をしたり、まぁ楽しい合宿だった。

事件が発覚したのは合宿から帰ってきてからのこと。

サークルの女子いわく、お風呂を覗かれたというのだ。

そして犯人を突き詰めると、Kさんだった(笑)。

もっと突き詰めると、Kさんは、宿舎に配膳などのアルバイトに来ていたちょっと年上のお姉さんを、わずか2泊3日ほどの短期間で口説き落とし、一夜を共にしたというのだ。

どんだけスケベやねん(笑)。

いや、笑ったらアカンねんけど、男子が爆笑したのはもちろん、実は女子も爆笑し、サークルの笑い話として伝説になった。

普通はドン引く話であっても、Kさんのキャラクター性により、事態はお咎めなしに終わった。

Kさんは「許される人」だったのである。


内田 裕也さんと、樹木 希林さん


僕は理想の女性に、樹木 希林さんの名前をあげる。

見た目ではなく、もちろん中身である。

いや、見た目ではなくって失礼なんやけど(笑)。

何せ素晴らしいと思う。

ロックであり、COOLであり、クレイジー。

人として凛としていて、深みも厚みもある。

それでいて茶目っ気たっぷりで可愛い。

何より内田 裕也さんをボロカスに言いながら、めっちゃ愛している。

そんな希林さんの愛した夫、Mr.シェケナベイベー、Mr.ロックンロールこと、内田 裕也さんもまた「許される人」ではなかっただろうか?

§

裕也さんもまた、ロックであり、COOLであり、クレイジー。

もうある意味では無茶苦茶というか、正直、大人としては全く無茶苦茶。

それを「シェケナベイベー」の言葉で全て収めてしまうほど、ロックを地でいく人だった。

はじめはメディアで見る度に、よく分からない人だとか、何か苦手な意識もあったが、裕也さんには裕也さんの良さがあって、これまた茶目っ気たっぷりで可愛いところもある。

そもそもあの年齢まで、あれだけ我が道を貫き通せたのは並大抵のことではない。

裕也さんは自虐的に「俺にはヒット曲がない」と言うが、生き方そのものをヒットさせているのである。

何にせよ、内田 裕也さんは「自由奔放でロックな人」というイメージのもと、周囲の人から愛され、許される人。

何より、希林さんを愛し、また愛され、「許される人」だった。


「(主人は)なかなか出会える人ではありません。向こうも、これだけ、へこたれない女はいないって。お互いに中毒なんです。主人は私に、私は主人に。だから、別れられないんです。」


これは、希林さんの言葉である。

何と心に愛のある言葉だろうか。

そう、「許される人」、「許されない人」とは言ったが、そこには常に「許す人」、「許さない人」がいるのである。


5歳の息子


ぼんじりには5歳の1人息子「ぼんじゅに」がいます。

このエッセイを書き始めた2020年10月21日の水曜日。

まるで、このエッセイの結末を導くような出来事がありました。

僕が仕事から帰ると、ぼんじゅにが左の頬に湿布を貼っていた。

保育園の遊具から手を滑らせ、顔から落ちたらしい。

痛々しいその顔はもちろん、いつもより元気がない気がした。

「大丈夫?」と声をかけても、YouTubeを見ながら上の空。

確かに、何かをしている時の彼の集中力は半端がない。

「最近は保育園でお昼寝もしていないし眠たいのだろうか」「よっぽどYouTubeに集中しているのだろうか」とは思いつつ、僕はどこかいつもと違う雰囲気を感じていた。

§

僕がしばらく自分の部屋にこもり、数時間してからリビングに戻ると、嫁から「あのさ?」と声をかけられた。

話を聞くと、ぼんじゅにが「パパにママから言って」と聞いた話を教えてくれた。

「今日、遊具から落ちた時、Z先生に『どんくさいだけやろ』って言われてん」

との事だった。

他の先生が飛んできて、顔を氷で冷やしてくれたり、処置に当たってくれたなか、ぼんじゅには、Z先生にそう言われたらしい。

僕は瞬時に憤りを感じた。

なぜなら去年に次のような事があったからだ。

§

保育園にはたくさんの先生がいて、それぞれのクラスに3人ほど担任がつく。

Z先生は去年の担任の先生だった。

その日も、唐突にぼんじゅにが、

「Z先生に、『先生、ぼんじゅに君のこと嫌い』って言われてん」

と言ったのである。

嫁はかなり怒っており、「どうしようか、こうしようか」と問題解決に躍起になっていた。

もちろん僕自身、その時も憤りを感じてはいたが、

「昨今の教員、保育士の方々の心労もわかる。もしかしたら、ぼんじゅにが先に、Z先生に何か言ったり、何かしたのかもしれない。先生も他のニュアンスで言ったのかもしれない」

と、去年は問題を大きくする事はなかった。

§

しかし、そのZ先生が、またそんなことを言ったのだという。

これにはさすがの僕も憤慨した。

「魔王」と呼ばれる、このぼんじり様を1度ならず、2度も怒らせるとは。

ましてや1度は見逃してやったのだ。

もちろん今回も、

「(ぼんじゅに君が)どんくさいだけやろ(次は気をつけようね、テヘペロ)」

かもしれないし、

「(てめーが)どんくさいだけやろ(何やってんだ、この饅頭ヤロー)」

かもしれない。

そのニュアンスが分からない限り、真相が分からない限りは何とも言えないが、仏の顔も三度までと違い、魔王の顔は二度までである。

§

僕は、ぼんじゅにを抱えるように膝に座らせ、こう言った。

「パパが、園長先生とZ先生を怒りに行こうか?」

すると、息子はこう返してきた。

「そんなことしなくていい。そんなん心の中から出さんでいい」

......。

......。

......。

(T ^ T)


何やねん、それ(涙)。

お前、誰よりも大人やんけ......。

それに何なん、その「そんなん心の中から出さんでいい」っていうカッコいいフレーズ(笑)。

泣けました。

ちなみに時間が経っても経っても、魔王はそれでも怒りが収まらない。

それもそのはず。

我が息子が云々より、いかなる理由、ニュアンスであれ、「大人が子どもを傷つける事」を、ぼんじりは同じ大人として許せない。

魔界のルールでは御法度である。

そして次の日も、何度も僕は息子に「ホンマにええんか?」と聞いたが、

「ええねん。ぼんじゅには強いから。許すねん」

の、一点張りだった。

魔王の息子ぼんじゅには、5歳にして「許す人」だった。


最後に


「許される人」「許されない人」、そこには常に「許す人」、「許さない人」がいる。

この中で1番いいのは、もちろん「許す人」だろう。

1番そうなるのが難しいのも、「許す人」かもしれない。

敵は本能寺にはない。

敵は己の中にあり。

もちろん世の中には許してはならないものがある。

その時は、みんな断固、戦うべきだ。

しかし忘れてはならないのは、心に愛があるかどうか。

「許されない人」を愛をもって「許す」ことができるかどうか。

僕は5歳の息子に改めてそれを教えられた気がする。

そして僕は。

……。

……。

……。

最近、やたら推してるんですけど。

……。

......。

......。

できれば内田 裕也さんの専売特許「シェケナベイベー」をものにしたい。

あー。

これ次はオレのものにならんかなぁ~(笑)?


シェケナベイベー!!


< 追記 >

このエッセイは書き始めてから結末の事件が起こりました。

そして、書き始めてからnote編集部 様より、この度の「#子どもに教えられたこと」の募集がかかりました。

まさに全てのタイミング、全ての偶然にビックリです。

最後まで読んで下さった方々、また絶妙なタイミングで募集して下さったnote編集部 様に、この場を借りて御礼を申し上げます。

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