見出し画像

死ぬまでの残り「39,420食」をどう楽しむか

最近ふとこんなことを思った。

死ぬまでにあと何回食事ができるのだろう?」と。

皆さんは考えたことあるだろうか?そんなこと。ない人がほとんどかもしれない。

元々僕は、食に対して執着がすごいある。昔外回りの営業をやっていた時も、周りの社員の多くは吉野家や駅前うどんのような簡易的な昼食を食べていたが、僕の場合はいかに美味しいものを食べるかというこだわりが強烈にあった。食べログやインスタで近くの美味しそうなお店を探して、多少値段は張っても満足いくような食事がしたかったのだ。

それくらい食に対しての執着心があるので、一食一食を大切にしている。だから「死ぬまでにあと何回食事ができるのだろう?」と急に思ったのかもしれない。

いろいろな食事の思い出

食事の思い出には、その時の情景や感情がどうしてもつきまとう。それが良いものでも悪いものでも。たかだか26年間しか生きていないが、実に様々な思い出がある。高校の時、初めてできた彼女と学校近くの公園のベンチに隣り合わせで座り、照れ臭そうに食べたサンドイッチ。おじいちゃんが無くなった時、火葬場で親戚一同黙々と食べたお弁当。仕事がうまくいかなくて、一人仄暗い部屋で半泣きになりながら食べたスーパーのお惣菜。

(話は少し逸れるが、ゲーテが残した「泣きながらパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない」という名言が大好きだ。ゲーテの優しさが溢れているし、僕自身何度もこの言葉に勇気づけられた。)

どれもこれも、その時の情景や感情をつぶさに思い出す事ができるし、僕の人生を彩る大切な時間であった事は間違いない。そして、これも間違いないのだが、それらの思い出は「食事」と共にある事で鮮明さを保っている。

だから僕は、大袈裟かもしれないが、一つ一つの食事には意味があると思うし、そうであるからこそ一食一食を大切にしなければならないと考えている。

さて、タイトルに戻るが、僕は死ぬまでに後39,420食しか食べる事ができなさそうだ。(現在26歳で、80歳まで生きると仮定した場合。1日2食×365日×54年=59,130食 朝は基本的には食べない)

これが多いのか少ないのかよくわからないが、39,420食というある程度の数字が明確になり、刻々とその数は減っていると認識することは大切だ。何もなしに「毎食大切にしよう!」と考えるのは難しいが、決まっている残りの数が減っていくのを感じると、喪失感から大切にしないといけない気持ちが湧きやすい。

もちろん人間いつ死ぬかわからないので、明日死んでしまう可能性もあり、残り3食しかないかもしれない。そうなったとしても、悔いが残らないような食事をしたい。それはそれでかなり難しいことだが…。

小説家であり、食の造詣が深かった阿川弘之もこんなことを言っている。

例えば今日のご飯がおいしくないと、「死ぬまでにあと何回食えるかわからんのに、一食損をした」っていって機嫌悪くなっちゃうもんね。
                             食味風々録

食事は人生の幸福に大きく関わると思うので、できれば一食も損することなくこれからの食事を楽しんでいきたいものだ。


https://bon-appetit-jp.com/




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?