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「お願いします」は大事

誰かに何かを頼む時、「お願いします」と言うのは礼儀として教わった。至極当然の最低限の礼儀。でも、私にとって「お願いします」という言葉は礼儀の言葉という位置づけだけでは無いのです。それが、何なのかなかなか上手く言葉で言い表せなかったのですが、フォローしているnoterさんがあちこちでジェンダーのお話しや、ハラスメントのお話しを書かれていて、いろいろ私の中にあったモヤモヤしたものが言語化してきたので、書いてみようと思う。

これから書くことは、ひょっとしたら誰かをとても傷つけてしまうのかもしれない。それでも、書いてみようと思う。


私は女です。女である事で不当な扱いを受けた事はたくさんたくさんあります。それがどんなものだったのか、あまり言いたくはありません。傷つく心というのはそういう性質があると思います。だから声が上がらない。そして無いものかのようになってしまう事は、ほめられたことでは無いでしょう。図星には腹が立つように、当事者だから傷つく。ジェンダーの事だけでは無い様々な差別もやはり同じような性質があるのだろうと思います。


差別的な発言に心を痛める時の私は、たいてい自らの選択権や意思決定権を放棄していました。それにはいわゆる不意打ちも含まれました。

これは、差別や不当な扱いを我慢すべきだといっているのではありません。私はDVやレイプなどの被害にはあっていませんし、私の言う不当な扱いのレベルは、そこそこくらいのものでしたが、それらは我慢するようなものでは全くありません。ただ、相手にいくら制裁を加えようとも、私の心の傷が癒えるわけではないのです。問題はそこだろうと思います。苦しい思いや傷ついた心を癒やすのには時間がかかってしまう。だからせめて、追い打ちはかけられたくないし、別の所でも同じような思いはしたくない。


私の場合、自らの意思決定権を相手に奪われてしまった時、差別的な扱いを強烈なダメージとして受け取ってしまっていました。逆に、意思決定権を奪われていない時、私の心はしなやかでした。ダメージを少なくしたり、かわしたり、回避したり。

年端も行かぬ若い頃の私は、意思決定権を奪われている事に気がついていませんでしたし、それがどう不当であるのか、何を意味しているのかがわかりませんでした。ただただ苦虫を噛むような思いを繰り返し味わったと言う認識でした。

私が決められる事を奪われている事に気がついて初めて、どう不当なのか分かるようになりました。


できる事は違えど、年は違えど、地位は違えど、能力が違えど、互いに人として対等でいられるのか。そういう勝負なのだなと。元来あまり勝負事は好みではないけれど、私が私であるということ。それは誰からも侵食されぬようにしなければならない。そういう事なのか。

それから、私は私が決められる事を奪われない術をたくさん身につけようとしました。その中の一つが、「お願いします」だったのです。



例えば、世の中的に気が利くというのは、とても良い事とされますが、これが罠の事が無数にありました。先回りされて面倒を回避しておきました。という場合、その後にはたいてい不当な扱いが待っています。

そして、その1つ目を奪われてしまうと芋づる式にどんどんと決定権は奪われて、そして虐げられる。しかし、この事実に全く気がついていない事で、苦虫を噛んでいる感覚だけはあるのに、どこからどう手を付ければ良いのかも分からないまま、そこから脱出する勇気が持てなくなるように次の手を打たれてしまう。

このループにだけは入りたくない。




先日、ラジオから流れてきた、かつての流行りの音楽にゾッとしました。

今夜君は僕のもの〜♫今夜君は〜ぼくのも〜の〜♫

女は男の所有物であれ。とされてきた。いや、未だにそうなのです。あまり何も変わっていない。美しいメロディーに乗せて歌にされ、ロマンスとしてドラマにされ、プリンセスを使いおとぎ話にされ、ハッピーエンドという結末とともに舞台で、映画で、CMで、ドラマで手を変え品を変え繰り返し繰り返し。気づかないように、心地よく感じるように、夢見心地になるようにそれはそれは巧妙に語り継がれている。

本当は私達は知っている。ハッピーエンドのその先に待ち受けているものが、ハラスメントと支配だと言うことを。

けれど、語り継がれてきたお話しには甘い誘惑がふんだんに盛り付けられている。だから〇〇してやると言われる事に注意が向かなくなる。おごってやる。買ってやる。つれていってやる。守ってやる。養ってやる。雇ってやる。あげだしたらきりがない。やってやるのは大変なんだぞという正当な言い訳を武器にして、さも当然の如く虐げられる。

そんなものはまっひらごめんです。

NOを言わせないための巧妙な話術には注意を払わなくてはいけない。相手が男性とは限らない。同性であってもハラスメントはいくらでもある。

普通は、世間は、正解は、本来はなどと前置きし、当然だ、するべきだ、当たり前だと押し進める。

かわいらしさ、女らしさ、奥ゆかしさと恥を使い、お金をちらつかせ、スペックを引き合いに出し、じりじりとにじり寄る。


私は私の決定権を放棄しない。その意思表示として、「お願いします」を使うことがある。礼儀として受け取ってもらって構わない。けれど、私はあなたの言いなりではない。あなたを見込んでお願いしています。そういう線引をさせていただきます。

そうやって私の心の中に線引、つまり結界を張る。

対等な扱いを望むなら、心に結界くらい引かなくては私は私を守れない。

私にとって「お願いします」という言葉は相手が誰であれ、そういう言葉です。だから、子どもたちにも「お願いします」と言う。私が子どもたちの内面を勝手に侵食して食い尽くしてしまわない為の線引だから。

対等な助け合いのループは、自ら作らなくては生まれないと私は思っている。誰かが作ってくれるのを待つことは、私の中では危険な行為。私の世界を奪う人を受け身だけで判断するのは分が悪すぎる。にじり寄られた頃には時すでに遅し。一歩前に進んで「お願いします」を使ったほうが相手をより知ることができる。


恥を使い、コントロールする事は無数に存在しています。その先にはハラスメントが待っています。コントロール下にいる事に先ずは気がつく事。コントロール下に入らない事。そして対等な関係性を築き保ちながら、助け合いを行う事。

自立とはそういうものだと私は思うのです。助け合いの中にいると勘違いしていた場所は居心地の良いコントロール下でした。自分の力で立って初めて、差別的な言葉や行為の出処を知り、かわすことを覚えました。

時々心配に思うこと。私のことをもっと理解してほしいという思いが膨らみすぎてボーダーが消えてしまっている人を見かけます。それはとても危険な行為だと知ったほうがいい。あなたの行為は侵食者からみれば大変都合が良い。詐欺、洗脳、支配、DV…あなたの寂しさはその人によって癒やされません。それは、愛では無いです。あなたの領分はあなたが守らなくては他に誰も守ってはくれないのです。あなたが領分を守った先に愛と助け合いが成立する世界が待っています。どうか。どうか。気が付きますように。


今回ここで言語化できた事で、子どもたちが自分の身を守る方法を分かりやすく伝えることができそうです。

弱き者の戦い方。そして守り方。カモネギに自らなる必要は無いのです。それは、泣き寝入りではない。自ら一歩前へ進む事。自分のボーダーより前に位置していなくてはいけない。おとぎ話に夢うつつし、ボーダーを越えられていることに気が付かないでボロボロになるのはもうお終いにしたほうがいい。


私はこれまで、いくつかの有料記事を書いてきました。その記事たちは皆、今回のように自分の領分を守り、そして相手と助け合う事が書かれています。相手が誰であれ、例え我が子でも、パートナーでも、友人でも、取引先でも、先生でも同じ。対等な関係性を作りそして助け合う。

人はみな孤独です。だからこそ。助け合い。愛し合う。孤独を手放してしまえば、何かの奴隷にされることでしょう。

礼儀と言う作法の中に、応援され、助けられるための要素はたくさん詰まっています。作法という型の中にある、先人が伝えたかったものはそういう事なのかもしれません。術として優れているからこそ残ってきた言葉たち。これからも大切にしたいと思います。






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