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私の挑戦

私が子育てを初めてからずっと挑戦してきたこと。それは、子どもたちの良さが何なのかを見つける事。

特に兄弟を育てることになってからは、違いがある二人に対して、それぞれの良さを常に見つけようと、できる限り発想が柔軟になるようにと思っている。しかしながらそれは非常に非常に難しい。

子どもたちは、それぞれにいろいろな特徴を持っている。その特徴をどのように捉えるのか次第で様々な事が起こる。良し悪しでは無くて本当に様々な事が起こる。その様々な事が起こる中で、下手をすると特徴を恨んだり、特徴に囚われたりしてしまう。

のびのびと豊かに育つ為には、特徴を認める必要があるのだけど、自分の特徴を認めるのは他人のそれを認めるよりも遥かに難しい。必ずいろいろなバイアスがかかるし、外側の評価にさらされるのだから。

時には誰かのせいにしたり、社会のせいにしたり、時代のせいにしたりと問題を外に求める期間が誰にだってあるし、抜けたと思ったらまた始まる。それの繰り返し。繰り返すにしても、やはりコンパスが必要になるはずで、そのコンパスは、昔、誰かに言われてわずかに心に残った言葉だったり、ひょんなことから出会った世界だったりする。

うちの母は早めに亡くなったので、子育てをしている私の中には、いつも焦りがどこかにある。でも、同時に諦めもあって、だから伝える事にとても比重が寄ってしまう。伝えるのと伝わるのは全然別物なんだから、私が焦った所で何も伝わらないと分かっていても、母の年齢が近づくにつれ、かき消せないものが湧いてくることがある。

せめて彼らの特徴を、私だけは良いものと捉えて、伝える努力をしよう。何気ない日常の中に溶け込むのかもしれないし、サンタからの手紙に書かれているのかもしれいし、お説教の中に入っているかもしれないし、動画の中に残るかもしれない。

むしろ何も残っていなくても、風のようにふわっと懐かしさとともに感じるだけかもしれない。それくらいがちょうどいいのかもしれない。

親になるというのは本当に面白い。非常に興味深い世界。自分というアイデンティティーなど、米粒のように感じる。それを犠牲だと勘違いしていた時期があった。自分を犠牲にして子育てをする意味はどこにあるのか、まるで見出せなかった。だから外に意味を求めた。そして失敗した。そしたら、昔母に言われた言葉が、私の耳の奥に突然届いた。

その言葉がなぜ、その時私に届いたのかを考える事ができた時、我に返り、子育てを犠牲だと思う事はなくなっていった。

我に返るための言葉を、私は残せるだろうか。

母が私にしたように。

私の挑戦はまだまだつづく

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